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第1章 再会
第2話 金魚が見える少女(後編)
 目が合った、と思ったのはほんの一瞬のことだった。それから清矢郎はあさぎから、ふい、と視線を逸らすとそこに誰もいないかのような表情で、彼女の方へと歩んでくる。四年前からそうしているように。
 それを見て、あさぎの胸がきりりと痛む。揺さぶられる、記憶。
 ――今、彼は何を考えているの?
 まるで酸欠にでもなったような苦しさを覚える。金魚の如く、口をぱくぱくと喘がせてしまいそうなほど。
 彼女の耳には、縁側の板を軋ませる足音がやけに大きく響く。あさぎと一緒に遊んでいた頃や、あの日触れてきた中学二年生の少年の軽いものではなく、青年に近い男性の力強い重み。威風堂々という言葉もあながち遠くない落ち着いた足取りは、二つしか違わないのに同学年の男子よりもずっと大人びたものにあさぎには感じられた。
 それとちぐはぐな可愛い赤い金魚と一緒に――もちろん、それは彼には見えないが――歩く清矢郎。久しぶりに会った背の伸びた彼。悔しいくらい実体には存在感がある。
 そわそわと落ち着かない。すれ違う時にふわりと届く体温と、幼い頃から知っている匂い。思い出せばあの時も、あさぎはこれがとても怖かった。
 いや、今でも怖い――あさぎは身を縮める。なのに、金魚は喜ぶように舞い踊るのだ。彼女の恐怖を緩和するためか、それとも。
 確かにその光景には少しだけ心も癒されたが、彼が近づけばどうしてもあの時のシーンがあさぎの頭の中に散りばめられる。しかし何故だろうか。怖いと思いつつ大人のような彼を見ていたら、不意にあの先の、もっと恐ろしいことまでされてしまうことを何故か想像してしまい、金魚の数もその動揺からぶわりと増え――。

 だがもちろん此処で何かが起こるわけもなく、清矢郎はあさぎの横を黙したまま通り過ぎた。
 彼女の背後の障子が開いて、閉まる。何も言わず、最初に彼女を見た後は最後まで見ることなく。その後は部屋の襖を開けて移動したのか、再び縁側に清矢郎が姿を見せることはなかった。
「なんなのよ……」
 あさぎは大きなため息と共に、思わず呟いた。緊張が解けたと同時に金魚は一気に数を減らし、数匹の群れに戻って初夏の竹薮の方へとふわふわ泳いでいく。
 相変わらずのあの態度に、あさぎは納得いかなかった。
 ――私はずっと、忘れられないのに。
 忘れたい、出来事。なのに何よりも忘れられない出来事。
 あの日のことをいたずらに掘り返されないことには安堵しているものの、反面、人にあんな思いをさせておいて、清矢郎が何事もなかったように平然と暮らしているのも許せないともあさぎは思うのであった。
 複雑な感情が彼女の心にもやもやと群雲を作る。あさぎが顔を上げると、眩しい光の中を金魚たちはまだ踊っていた。心の中の黒い影に対して、具現化されるのは色鮮やかな赤の片鱗であるのが皮肉に感じる。
「忘れ、られないのに……」
 そしてもう一度呟いた。なかったことにしたくとも金魚が見えてしまう。焦げ付くような思いは、「被害者」である自分の方にしかないのか。それが悔しくて、唇を噛み締める。

 そこで懐かしい庭に視線を向けると、あさぎはふと彼と過ごした昔のことを思い出す。
 幼い頃のあさぎと清矢郎は、とても仲がよかった。それこそ小学校の低学年までは互いの母親や祖母に「本当の妹みたいね」「清矢郎のお嫁さんになるの?」と笑って言われるほど、あさぎは彼に懐いていた。そのように言われると幼いながらに気恥ずかしいような、嬉しいような、複雑な気持ちになったものである。
 祖父はあさぎが赤ん坊の時に亡くなっており、あさぎの母方の実家にあたるこの家は兄弟仲がよく、一人で暮らす祖母の元へと盆や正月のたびに家族を連れて集まっていた。しかし他の従兄姉たちとは歳が離れており、可愛がってもらえても遊び相手にはなってもらえない。それに大概一泊しただけで県外の街へと帰ってしまう。
 だから同じ県に住むあさぎや清矢郎の家族が祖母の傍に長居をし、結果、歳の近い二人が小さな頃から自然と一緒に遊ぶようになったのだった。

 しかし血の繋がった家族と言っても男と女。一緒に風呂に入らなくなったことから始まり、いつしか行動を共にしなくなり、互いが小学校の高学年を迎える頃には会話もたどたどしくなってくる。きっとその頃から「何か」は始まっていたのだ。
 あさぎも本当は気付いていた。クラスの男子とも高学年になれば一緒に遊ばない。親戚でも同じだ。互いの身体が少しずつ大人のものに近づいていくにしたがって、「距離」が出来てしまうのは。
 それでもそれを認めることが、酷くいやらしいことのような気がして、あさぎはわざと清矢郎に無邪気に、子供らしく話しかけるよう心がけていた。だから恥ずかしさもあったが、小学五年生の夏休みにあえて清矢郎と金魚掬いに行ったのだった。
 毎年行っていた近くの神社の夏祭り。幼稚園の頃は手を繋いでいたのに、その時には少し離れて歩いていた。何を話していいかも分からず、ほとんど言葉も交わさない。
 それでもあさぎは認めたくなかった。まだ子供だということを強調するかのようにやけにはしゃいで祭りを楽しんでいるふりをし、彼と掬った二匹の赤い金魚を持って帰る。するとそれを見た二人の祖母は、「せいちゃんとあさちゃんみたいに、仲良しだねえ」と言って皺だらけの顔の中の目を更に細めて笑った。
 あさぎはその言葉に、何故かむっとした。祖母の笑顔が「お嫁さんになればいい」と言った時と同じ目をしていたように見えたから。――それは、男と女の意味での「仲良し」だ。思春期と反抗期に差し掛かったあさぎは、優しい祖母の言葉にすら嫌悪感を抱いたのであった。
 あの事件が起こったのは、それから丁度一年後のことだった。

 このことから、あさぎは気付いていた。どうして見えるものが「金魚」なのか。それは彼と掬ったこの金魚が、あさぎにとって「子供」時代の名残だったからだろう。現に次の年……あの事件の直前の六年生の夏休みに生理が来て、自分はもう子供ではないんだ、と言いようのない喪失感に見舞われたものだった。
 ――起きてしまったことは、仕方ない。過去はもう、変わらない。
 楽しかったはずの思い出もたくさんある誰もいない縁側で、未だに続く親戚の騒ぎ声を聞きながらあさぎは諦めたように金魚を眺めていた。これだけ長年見ていると最早愛着すら沸いてくる。
 ――いつかはこの嫌な記憶も、やるせない想いも消えてくれるだろうか。
 もっとも犯されたわけでもない。ほんの少し胸と下腹部を撫でるように触られた程度である。犬に噛まれたものだと思えばいいのか……。
 彼女がぼんやりと視界に入れている紅葉や柿の木などは、亡くなった祖父母が植えたものが手入れもされずに葉を揺らしている。地面にはあさぎの父が昨日刈り取ったらしい雑草がなぎ倒されたままになっている。
 その向こうに竹薮があった。手入れされていないそれこそ、相変わらず鬱蒼としていた。
 あの日それが風にざわついていた記憶と、清矢郎が剣道を嗜んでいるからか、あさぎとしては複雑な感情を抱いているにも関わらず、何故か彼には若竹のような清廉なイメージがある。赤い幻影はその緑の影に、苛立つほど綺麗に映えて見えた。
 
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