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第4章 告白
第19話 青竹迷風
 ざわり、ざわりと風の音。
 緑の陰の間から、雲を、空を垣間見せながら、幾重にも重なり合った細い幹と葉先が、風に揺れる。
 時に大きくしなりながら、激しく。
 ――赤い金魚が、その中に迷い込んだ。

 ・・・・・・・・・・

 高校最後の夏休みが訪れようとする、いつもと変わらない夜の自室。しかし彼――清矢郎にとっては今日、これまでの人生で最大の出来事が起こった。大げさではなく、彼にとってはそれほどのことだった。
 大学受験のために通っている予備校も、今日は休んでしまった。そちらの方が大切な用事だと、咄嗟に判断したからだ。両親は予備校の時間割など知らないため、いつもよりも早い帰宅になったが、休講になったと嘘をついた。そのことだけでなく過去の分、そしてこれからもずっと嘘を積み重ねていくのだが、それに対する後ろめたさには蓋をすることに、今日決めた。時が満ちるまで隠し通すことに決めた。
 それにしても予備校を欠席した分、家で勉強せねばいけないのに、今の清矢郎は何も手に付かない状態だった。入浴して汗を流しても、心は全くさっぱりしない。いっそ外で走り込みでもしたいほどだ。
 今夜は諦めてもう眠るかと部屋を暗くしベッドに寝転ぶが、それも無駄で眠れそうもない。
 ――熱い。
 梅雨明けのニュースも耳にした。この熱さは夏の気温の所為だ。彼は自身にそう言い聞かせる。
 心の中では轟々と風が吹き荒れているのに、外は無風。窓を開けても意味がない。冷房でも入れようか。そう思うのに、そうすることも億劫だった。このまま、熱に浮かされていたかった。その方が、何もかもが麻痺する気がした。
 清矢郎が顔に当てていた手をベッドの上に投げ出すと、放置してあった携帯電話にぶつかった。記憶が蘇り、思わず暗闇の中、開いて確認する。そこには今日登録したばかりの名前があった。
 やはり夢ではないらしい。生まれて初めて出来た、「彼女」の名前。……相手は二つ年下の従妹であったが。

 ざわり。
 ざらついた黒い風が、清矢郎の胸の中を這いずり、撫でる。
 ざわり、ざわり。
 踏み入れてはならない領域へと来てしまったのかも知れない。だが、もう遅い。
 それを望んだのは、彼の意思なのだ。

 しかし意外にも、先にこうすることを望んだのは相手――あさぎの方からであった。
 罪を償い、彼女の傷が消えないまでも少しでも気持ちを軽くしてやりたい。清矢郎は中学二年の時からずっとそう思っていた。己の欲望と衝動のために、誰よりも大切な、妹のようなあさぎを傷つけたことをずっと後悔していた。
 四年間そう思っていた彼だったが、ここ最近、何故かあさぎの方から接触を図ってきたのには驚いた。なので今日、具合の悪くなった彼女に清矢郎も思い切って近付いた。そして腹を割って話してみたところ、なんと、あさぎはあの日から彼のことを忘れられないと言い、恋愛関係を結ぶことを求めてきたではないか。
 はっきりと言葉にされていないので、恋愛感情とは違うかもしれないが、「責任をとれ、清矢郎でなければだめだ」と言われた。
 一歩間違えれば、身体の関係すら求められているようにも聞こえてしまう、きわどい言葉。経験のない彼は、あさぎの大胆な発言に内心焦ったが、精一杯冷静を装った。彼女はもう二度とそんな眼で見て欲しくないかもしれない、そう思ったからだ。
 どういう意味にも取れる言葉だが、清矢郎があさぎに対し何らかの行動をとらねばならないことは確かであった。思いもかけない要望に彼は戸惑いながらも、もしかしたら、と思い「付き合えばいいのか」といった提案を口にした。すると彼女に「そうしたい」と応じられた。
 ――ということは、やはりあさぎは自分に恋愛感情を持っているのだろうか、まさか。

 何考えてんのか、わかんねえ、と清矢郎は携帯電話を閉じて投げ捨てる。これはもう何も考えない方がよさそうだ。
 四年前にしてしまったことが、幼いあさぎをどれだけ傷つけたのか、彼女をどんな心境に陥れ、今の結論にさせたのか。どれだけ想像しても何も分からない。分かるわけがない。
 俺のこと、好きになった、わけはないだろう――こんな人間を。そう思う清矢郎は、あさぎにその質問をすることも憚られた。

 だったらもう、何も考えず、彼女を守ろう。
 ただひたすら、大切にしよう。彼女が望むなら、一生でも構わない。それが償いだ。
 もしかしたら、自分のことなどすぐに飽きるかもしれない。その時は、彼女の望むままに手を離そう。その時に、どんな気持ちになろうとも。

 彼はそれ以上、自分の感情の正体を探ろうとはしなかった。ただひたすら、そうすればよいだけのことであるから、と。
「あさちゃんのこと、よろしくね」「男の子と女の子は、違うんだよ。それに、清矢郎はお兄ちゃんなんだから、あさちゃんを守ってあげなきゃ」
 思い返せば、清矢郎は物心ついた時から――きっと、あさぎが生まれた日から、母親や叔母、祖母にそう言われ続けてきた。幼い彼はそれを刷り込みのように覚え、泣き虫だった年下の、血の繋がった少女を守ってやらねばと思い続けてきた。家に帰れば、一人っ子の彼は厳しい父親に叱られるだけだが、祖母の家に行けば同じ子供の彼女がいる。だからいっぱい遊んでやろう、と思っていた。
 その時と同じだ。一番大事な女の子を、一生かけて、男として守ってやる。それだけのことだ。
 その感情に名前をつけるような、こなれたことが出来る清矢郎ではない。寧ろ、四年前にボタンをひとつ掛け間違えてから、あさぎに対して身構えてしまい、それ以上深く考えてはいけないような気がしていた。
 なのに身体は別で、四年前の光景を、初めての「女」の感触を何度も何度も蘇らせてしまう。そんな自分に反吐が出そうになる。
 それでも、あさぎは清矢郎を望んだ。だから彼は決意した。自分などでもいいならば、守ってやろう。望みは叶えてやろう。四年間、口も聞けなかったが、またあの頃のように大切にしてやりたい。

 しかしどれだけ強くそう思っても、それでは何かが違う、と心に生温かいものがまとわり付いてくる。
 確かにあの頃とはわけが違う。これからは従妹ではなく、「恋人」としてあさぎに接するのだ。義務感でなく。それも償いのうちだと言われた。
 恋人と言われても、一体、何をどうしてやればいいのか。同じように可愛がればいいわけではないだろう。
 焦燥感を無表情で隠しているが、清矢郎の心の中はずっとざわついている。むせ返るように甘い、そして何処か生々しい特有の「匂い」。体形や仕草、全てが少しずつ魚の流線形のように滑らかに、男の彼にはないものに進化してきた、あさぎ。
 今日目の前で見たその流線形は、益々輪郭をくっきりと現していた。その色はきっと、女性らしさを象徴する、綺麗な赤い色。中学を卒業したばかりだが、華奢で折れそうな体の線も、内に感じる母親のような強さも、全部、思った以上の存在感を持って、小さな身体の癖にしっかりと其処にあった。
 駅で遠目に見ていた時は、長くなった髪がセーラー服の襟に翻るのを、ぼんやりと可愛らしく思う程度であった。きっとあの練習試合の時から、あさぎが自分と心をぶつからせようとしていることが分かってから、彼女が清矢郎の中で現実の、意思を持った個体として感じられるようになったのだろう。

 本当は恐れもある。両親や親戚に知られた時、どうすればよいのか。
 それでも、その小さな手を取りたいと思ったのは、ただの責任感や罪の意識から逃れたいだけではない。寧ろそれだけの方が、ずっとましだ。
 四年前以前と同様に、あさぎを守りたい――その気持ちに嘘はない。しかしそれと同時に、恋愛関係になりたいという彼女に対し、清矢郎の中で四年前と同じ、卑しい好奇心が働いた。
 興味のないふりをしているが、女性経験のない彼にとって、それは魅惑的に手招きしてくる。恐れを抱きつつも、そこに踏み込みたいと思っている。何も出来なかったあの頃とは違う。あの頃よりももっと狡くて、そしてもっと凶暴になっている。 
 どれだけ竹刀を振るっても、友達と笑っても、将来を見据えて勉強に励んでも、塞がることがなく毒すら吐き出している深く暗い穴を、あの少女で埋めようとするんだろう。
 もう、四年前の小さな女の子ではないのだ。あれだけはっきりと赤い輪郭を描いていれば、もう――。その事実に正直、何処か胸を躍らせている。
 「付き合う」が示す具体的なラインは分からないものの、今日のあさぎの言葉に何か艶かしい期待を感じてしまった。そんな自分が憎らしい。

 ――祖母の家に行った時、二人で掬った小さな金魚。小さな空間で身を寄せ合う二匹を見ては、祖母は「せいちゃんとあさちゃんみたいに、仲良しだねえ」と皺だらけの顔を歪めて笑っていた。
 その時清矢郎がちらりと見たあさぎは、ノースリーブの薄い服から白い肩と鎖骨と、隙間からその下の肌を僅かに見せていた。彼の眼には祖母のしわくちゃの笑顔が、やけに下卑たものに映った。

 ざわり、ずくん。
 己を見上げる、潤んだ黒い双眸。それを思い出すと、清矢郎は言いようのない気持ちになる。守りたいのか滅茶苦茶にしたいのか、分からなくなる。
 だけど今度こそ、「あんな気持ち」に負けたくない。だから今はただ、黒い気持ちに負けないように、それだけは彼女に見せないように、ただひたすら大事にしようと心に決める。何度でも、誓いを繰り返す。
 考えないでおこうとする割には清矢郎がぐるぐるとした思考の中に居ると、突如、新着メールが届いた。それは、あさぎからだった。
『今日はありがとう。帰り、おそくなったけど、大丈夫だった?』
 何を考えているか分からない彼女だが、どうやら長いこと話をしていたことは気にしているらしい。何故か、金魚の絵文字で締められている。
 返信しようとするが、何を打てばよいのか分からない。折角出来た「彼女」に格好悪い態度はとりたくないと思うが、気の利いた言葉も思い浮かばない。
『大丈夫だ、心配するな』
と話す分にはまだいいが、文字にしてみるとやたら偉そうな文面しか思いつかず、それを送信する。
 ――だから、付き合うって、何すりゃいいんだよ。
 そんなことを考え頭を抱えたくなりながら、あさぎと二度ほど他愛のないメールのやりとりをした。
 
 ざわり。ずくん。
 立てた膝に、額を当てる。この電波の向こうに、これまで気にしていた相手が現実に居ると思うだけで、妙に胸が騒ぐ。せいちゃん、と四年ぶりに呼んでくれた高く甘えた声まで、蘇る。
 一度、実体を思い出すと止まらない。
 思わず、そのさらさらの髪に触れたくて、最後に頭を撫でてみた。それだけで気持ちがよかった。
 ――やばい。絶対に、やばい。
 心の中では、ざわざわざわざわと闇の中で伸びた枝が激しく揺れ、警鐘を鳴らしているのに、その豪風は収まることなく、竹林に迷い込んだ赤い金魚を甚振りたがる嗜虐心ばかりが焚きつけられる。魅惑の流線形が、怯えながらも彼の身体を包み込むように、溶けて広がる。
 ――限界だった。一瞬だけ、全てを忘れて、衝動と悦楽に身を委ねた。

 ・・・・・・・・・・

 散々高ぶっていた清矢郎の心が、波が引くように落ち着くと、その代わりに虚しさが一気に押し寄せてきた。汚れたものを片付けると、受験勉強を再開しようと、のろのろと立ち上がり部屋の電気を点ける。
 暗闇が消えていく。心のざわめきも多少は収まった。今は見ることすら恥ずかしい黒い携帯電話が、ベッドの上に呆然と転がっている。
 やや冷静になった頭で、清矢郎は考える。
 ――俺たちはこれから、どうなるんだろうな。
 それでも若竹は伸び続ける。沸き起こるエネルギーを抑えることが出来ずに、ただ、伸び続ける。迷おうがどうしようが、伸びることしか出来ないのだ。
 赤い金魚を、傷つけながら。
 
◇拍手&簡易メッセ◇

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