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第2章 自覚
第11話 「好き」という気持ち
 再会した清矢郎を思い出しながら自分を慰めてしまったという事実は、しばらくあさぎを落ち込ませていた。
 学校で友達と笑っている間はよいものの、退屈な授業の際や一人で乗っている電車の時間、入浴や就寝前など、ふとした時に蘇り自己嫌悪に苛まれる。そして自分が恐くなる。
 抗おうとしても、彼のことを考えている。金魚が見えて目を閉じる。それでも瞼の裏には、彼女を啄ばむ赤い光。
 四年前の忌々しい一件から、性的に意識している相手へのこの感情は、恋として成立するのだろうか。

 七月中旬の放課後、文芸部の部室――と称する国語科準備室にあさぎが入ると、丁度二年生の女子がホワイトボードに今月の部誌の締切日を書いたところだった。
「締め切り、今週末だよー。来週、夏休み前に七月号出すからね。文化祭で出す冊子の締切は七月中だから、覚えておいてー」
 今来たあさぎや他の一年生は、彼女の言葉に顔を上げる。ボードには日付が大きく書かれた横に、黒や赤のマーカーで人の似顔絵などポップなイラストが添えられていた。美術も得意でないあさぎには、それが十代向けの雑貨のデザインに十分使えそうなほどこなれたものに見えた。
 その眼鏡を掛けた二年生の副部長だが、彼女は文章よりもイラストを描くことが得意で、部誌の表紙を担当している。それだけでなく美術の授業で描いた絵が廊下に飾られていたこともあり、今年の文化祭のパンフレットのデザインも友達に任されたらしい。
 漫画を描いていると言うと「暗い」と後ろ指を差されがちだが、それなりに他の情報や周囲にも関心を持ち、なおかつその技術が一定のレベルを超えれば、このようにその腕を必要とされることもある。
 将来はデザイン系の仕事に就きたいと語っていたこの少女も、あさぎからすればまた「誰かに認められている」「自分の好きなことで自信を持って頑張っている」という憧れと羨みの対象である。もちろん人当たりがよく面倒見のよい性格も備わっているからこそ、人に好かれるのだろうが。

「中村、いるかー」
 そこで野太い男の声が、女子生徒ばかりの狭い部屋に響く。背後から現れたのは、隣の国語科職員室に居た顧問の荒芝。
「はーい! いますよー」
 長いストレートの髪に短いスカート、その割には子供っぽい返事をすると部長の二年生、中村琴音が笑って手を挙げた。
「お前さん去年の冬、なんか文章コンクールに出して、佳作とかとってたじゃん。遅くなったけど、今度の壮行会で春大会のと一緒に表彰するらしいから、覚えといて」
 うわあ、すごい、とあさぎはこれまた思ったものだが、琴音は「はーい」と気さくに返事をした。周囲の二年生もむやみに褒めず、「へー。運動部と一緒に表彰なんだねー」とだけと意外そうに言うと別の話をすぐに始めた。
「なんですか? コンクールって」
 そこであさぎと違うクラスの一年生が、イラストを描いていた眼鏡の二年生に質問する。
「先生に出してって言われたり、自分で見つけてきたりだけど、そういう賞みたいなのに時々出してるよ。一応、文化祭の冊子も対象。まあそっちは東高程度じゃ出すだけで終わるけどね」
 ちなみに文芸部だけでなく美術部はもちろん、化学部や生物部でも研究発表をするなど、文化系の部活でも体育系の部活の大会に相当する目標はそれなりにあるらしい。そのやり取りを聞きながら、あさぎはとりあえず自分も部誌に何か書いてみるべきだろうか、とふと思った。
 今質問した一年生の少女も、少々大人しい子だがポエムのようなものをきちんと書いていた。今日此処に居ない夕映も、琴音とはまた違う傾向の、迫力のあるミステリー作品を先月書いている。たくさんの年齢の人々と関わりを持ち、たくさんの本を読んだことがよく分かる内容の作品だった。アルバイトもして恋人もいるのに、彼女は実に精力的な女の子である。

 何も皆が特殊な能力を持っているわけではない。それぞれの少女が様々なことを前向きに受け入れ、好きなものを好きだと言って追いかけ、等身大に生きているからこそ、人からも居心地良く思われるのだろう。少なくともこの時のあさぎには、そのように見えていた。
 ――私だけ、何もしていない。
 あさぎはホワイトボードに描かれた手足の細い女の子のイラストを上目遣いで見ながら、唇を軽く噛んだ。文芸部の活動で頑張っても、と笑われればそれまでであるが、「その程度」の活動ですらしていないのである。それでただいじけているだけなど、それこそ馬鹿みたいではないか。
 ――こんな私じゃ、駄目に決まってる。これじゃ追いつけないよ……って、誰に?
 その時、あさぎの心に一陣の風が吹き、ざわりと緑の陰影を揺らした。しかし次に現れる赤いものを見ないよう、慌てて目を閉じた時、
「おーい、山本」
と荒芝に呼ばれ、はっと現実に引き戻された。
「暇ならちょっと手伝ってくれ。お前さんのクラスに配る分もあるから」
 「はい?」と訝しげに聞き直したあさぎだが、荒芝は此処にいる他の一年生の国語を担当していないようなので、渋々と彼の後に続いた。丁度金魚を見てしまいそうなところだったので、それが中断されたのはよかったかも、と思いつつ。

「悪いな。それ駄賃」
 荒芝はそう言うと、机の上に小さなビニールの包みを転がした。赤い大きなリボンの掛かった、イチゴ味の飴が入った袋。貰い物に手もつけていないという様子であったが、あさぎは大人しく受け取っておくことにした。
 荒芝が頼んできたのは配布するテキストの修正部分にシールを貼るというものだったが、こういう単調な作業は意外と嫌いではないあさぎ。実は文芸部での毎月の製本作業も好きな方だ。
「別にいいですよ。でも他にも人いたのにー」
 やり始めてみればさほど嫌なことでもなかったが、少しの冗談を込めてあさぎは荒芝に向け生意気そうに唇を尖らせた。男性は苦手でも、教師と言う公的な立場の恋愛対象でない人物とは話がしやすい。
 現に荒芝は女性にだらしない、手が早そう等々生徒の間では根も葉もない噂がありつつも、あさぎには彼の周りに金魚は見えない。二人の間には、微妙な空気がないからだろう。
「あれ? お前さん、あそこから連れ出して欲しかったんじゃないのか? そんな顔してたぞ」
 言わないほうが良かったかな、という表情をしながらも、荒芝は目の奥に見透かすような、悪戯を仕掛けるような光を置いて、あさぎの目を見た。
 これは生意気を言ったことへの仕返しだろうか、とあさぎは一瞬思ったが、間違ってはいなかったので目を伏せてしまう。しかし文芸部の生徒たちと仲たがいをしているなどと誤解されたくはなかったので、
「そんなこと、ないですよ」
と小さな声で言い返した。荒芝の「そうか」というあっさりした返事の後、二人は無言になったが、あさぎはふと顔を上げて再び問い掛ける。
「先生って……、去年まで北高にいたんですよね」
「そうだけど?」
 しかしその先の質問については口を噤んだ。

 ――加納 清矢郎って知ってますか? どんな生徒、だったんですか?
 思わず尋ねてみたくなってしまった。「従兄なんですけど、最近会ってないので」などと空々しい理由も考えたが、全て飲み込む。
 ――何でこんなこと、聞こうとするんだろう。
 学校での「外」の彼をもっと知りたいから? それは何のため? 彼のことを駄目な男だと証明し、嫌いになりたいから? それとも……?
 気にしないようにしていても、することが全て裏目に出て、清矢郎のことが頭から離れない。追い払ったはずの金魚も、国語科職員室にまでやってきた。いちごの飴に興味があるのか、近付いてはつんつんと突いている。
 何かを尋ねようとしたくせに黙ってしまったあさぎに、
「何、気になる奴でもいるとか?」
流石は「寝癖のある日はホテルから出勤した時だ」と女子生徒にからかわれているような教師だ。そんなことを、思春期の少女に単刀直入に尋ねてくる。教育委員会に訴えられるぞ、とあさぎは思いながら荒芝を上目遣いで睨む。
「……そういう質問、きらいです」
「そうか、悪かった」
と荒芝は再び苦笑すると、彼も黙って作業に戻った。

 ――悪いのは変な質問してきた先生の方だもん。私は何も、悪くないもん。
 しかしもっと可愛げのある切り返しは出来なかったのだろうか、とも考えてしまう。夕映や琴音だったら、どのように言い返しただろうか。ここで気の利く言葉が言えるからこそ、彼女たちは異性にも好かれるのではないか。男性を苦手とするのは、「女性」というものに対するコンプレックスの裏返し――。
 あさぎの悩みはいつの間にか、どうすれば年上の清矢郎に「女性」として見てもらえるのか、ということにまで派生していた。そして心で思い描いた相手を荒芝にも「気になる奴」と形容されたことに、妙にときめきを感じている。
 もう何をしても清矢郎を意識してしまい、「好きな人」相手に行動しているようになってしまうのだ。
 ――私は、せい……ちゃんのことが、好き、なのかなあ。
 唱えてみた「好き」の言葉。心がふうわりとしてくる、不思議な言葉だ。だが今の複雑な気持ちをその甘い言葉で言い表すには、何か違和感があった。そんな簡単な言葉で言ってよいものだろうか、と。
 現にたった二文字だというのに、その先を考えると恐くなる。それは従兄妹同士だからだけでない。子供の頃は、兄のような存在として「好き」だったのは確かだ。だがあの日から関係が狂った。男として意識するようになってしまった。今はあさぎの方が、能動的に求めてしまっている。
 「好き」という感情はきっと、この袋の中のピンク色の飴玉のように、胸の中でころころと転がる甘い想いであるはずなのに、あさぎの目に見えるのは燃えさかる炎のような赤い金魚。
 まだ「好き」程度の軽い感情の方がましではないか。もしもこの紅蓮に手を伸ばしたら、どういうことになるのか――。
 確実に、あさぎの胸の中で熱を持っている小さな灯火。それが己を内側からいつか焼き尽くすような気がし、あさぎはぞくりとした。その恐怖を誤魔化すように、彼女は慌てて包みを破ると甘いピンク色の飴を口の中へ放り込んだ。
 
◇拍手&簡易メッセ◇

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