置き去られた少女
四日目の昼になった。
大森林の入り口から二日でたどり着ける里の入り口には、まだ兵団の影はない。
その半分の地点で、五千の兵団はさまよっているからだ。
里への最短距離を罠で潰しただけでなく、襲撃を含めた誘導で里とは別方向へと向かわせている。
方角の目印となる太陽が木々で覆われ、方向感覚を失った集団は右往左往と場当たり的に罠を撤去していった。撤去作業自体にも人手と時間がかかり、また、繊細な作業でもある撤去作業は四日間の不眠状況では遅々として進まず、結果として足止めは成功していた。
ほとんど睡眠の取れない三日間は兵士の集中力と判断力を削る。
落とし穴やナイロンネットの罠にかかることも増えたけど、それ以上に効果を発揮したのが、ポータブルMP3コンポだ。
独立して持ち運びできて、スピーカーを内蔵するこのコンポで、録音した魔物の声などを大量に流す。すると、兵団は魔物の姿も見えないのに警戒態勢を取ってくれる。
疲労困憊の状況では魔物の集団の相手は出来ないと思ったのか、道を引き返して本拠地へ戻ることも多々あった。
状況はぼくらに有利と言える。おおむね作戦通りの効果が出ていた。
けれど、対処に困ることもあった。
魔物の襲撃と誤認して、脱水症状下と不眠状態では戦えないと判断した兵団が、奴隷の獣人を魔物への囮にして、その場へ置き去りにすることが頻発したのだ。
『ツナグ様、どうしましょう?』
インカムで尋ねられ、ぼくは頭を抱えた。
攻めてきているのは人族で、獣人は奴隷として随行させられているだけだ。労役と言うにもはばかられる家畜のような扱いを受け、あげく自分たちが逃げるための魔物のエサとして捨てられる。
これを森の中に放っておくのは、あまりにも人の道に外れる気がしたのだ。
「回収しましょう、村長さん。奴隷たちに敵意があるとは思えませんし」
「そうですな、ツナグ殿。放置して獣の声がハリボテだとバレてもいけません。置き去りにした奴隷の姿が消えたとて、魔物に食われたとしか思わんでしょう」
監視のエルフにその旨を伝え、隙を見て、ぼくが門で移動できるところまで運んでもらうことにした。後のことは、ぼくら本部が回収する。
連絡を受けて回収地点に向かったぼくは、言葉を失った。
置き去りにされた獣人奴隷と言うのは、まだ中学生にもならない女の子だったからだ。
身体を隠すにも心細い、服とも言えない布切れを身にまとい、顔や身体は土にまみれ、両手と両足はそれぞれ鎖に繋がれていた。
土に汚れた髪の上には小さな獣の耳がついていて、布が隠しきれていない小さなお尻には丸い毛玉のような尻尾がついていた。
「熊人族ですな。森に住む温厚な種族です。体格に比して非常に腕力が強いのが特徴ですが、この幼さですと、まだその力も無いでしょう……森ではぐれたところを、狩られたのかもしれませんな」
「とにかく、里に連れて帰って手当てしましょう。とても衰弱しています、奴隷にはほとんど水が与えられなかったのかもしれない」
ぼくは意識を失っている女の子を抱きかかえ、本部へと帰還した。
*******
「……ここは……?」
女の子が目を覚ました。
水分不足だったので、里に備蓄されてた塩と砂糖を溶かした湯冷ましを少しずつ綿で口に含ませていたのが、功を奏したようだ。
「目が覚めた? もう、心配はいらないよ。ゆっくりお休み」
「あなたは……だれ、ですか?」
女の子は不思議そうにぼくの顔を見る。ぼくが人族だからか、警戒と怯えの色が見えた。治療魔術で癒したけど、身体には青あざがいくつもあったから、弱いと言う理由だけで理不尽な扱いを受けていたのかもしれない。
その不安を和らげるように柔らかく頬を撫でると、少女はくすぐったそうに身をよじらせた。
「あれ、鎖……? 身体も、綺麗になってる……」
「うん。汚れてたから、お湯で拭いたんだ。身体を拭いたのはぼくじゃなくて、女性にやってもらったから。安心して」
「鎖……どうやって、外したんですか? あれは、魔術の鎖だって聞いてたのに……」
「ぼくも魔術士なんだよ。あんな鎖の魔術くらい、何でもないさ」
解析の結果、鎖には隷属の魔術がかかっていた。
所有者の命令に反することできず、命令に応じて動きを拘束するという魔術だ。
だけど、ぼくの制御魔術は魔術を掌握する魔術だ。刻まれた術式に介入して単純な術式を分解し、銀製の鎖自体は熱魔術で焼き切った。
この女の子は、晴れて奴隷身分から開放されたというわけだ。
そのことを話すと、女の子はぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「わ、わたし……自由……なんですか……? もう、ぶたれたり、蹴られたり、酷いことを言われなくても、いいんですか……?」
「帰る場所や、ご両親は?」
尋ねると、女の子はふるふると力なく首を振る。
その表情から、おおよその事情は察しがついた。たぶん、何もかも失って――奪われて、今の身分に落とされていたんだろう。
でも、それも今日までだ。
「ここはエルフの里だよ。今、人族が迫っていて、ゆっくりしていくと良いとは言えないけど。それでもきみは、もう自由だよ。何にも縛られなくて良いんだ!」
優しく頭を撫でる。女の子は、頬を染めて目を丸くしていた。
この子も可愛い顔立ちをしている。美醜の基準が逆のこの世界だと、容姿の点でも苦労してきたんだろうということは想像に難くなかった。
すると、女の子は声を振り絞るように、身を乗り出してぼくに言った。
「あ、あの! お願いです、優しい方。ご迷惑でなければ、わたしのご主人様になってください!」
「うん、そうか。……って、ええぇ!? 何で!?」
ご主人様って何!?
もう自由なんですけど! わざわざ奴隷じみたことはもうしなくていいんだよ!?
その点を言い含めると、女の子は泣きそうな顔をしてうなだれた。
「わ、わたし一人じゃ、生きていけないです……帰るところも、奴隷以外の仕事も覚えてないし……どうやって一人で生きていけばいいのか、わからないです……」
本心を告白されて、ぼくは自分の迂闊さを悔やんだ。
それはそうだ。この子はたぶん、この世界の基準でもまだ成人していない。
まだ両親の庇護の下で仕事を覚えて暮らしていくべき年齢の子が、親を失い、住処を失い、その手に何も持たずに女の子一人で生きていく、というのは無理があるだろう。
人間に追い立てられて窮地にあるエルフの里だと説明したにも関わらず、こうしてすがってきたのがその証拠だ。
無碍に断るわけにも行かず、ぼくはしばらく悩んで、そして了承した。
「わかったよ。一時的にだけど、ぼくが預かるね。ぼくの名は繋句、きみの名前は?」
「アルマと言います! その、体つきも、顔も良くないので、経験はないですけど……やれと言われるのなら、一生懸命、気持ちよくなってもらえるようにがんばります! だから、その……わたしを、捨てないでください……」
いや、それは別にがんばらなくていいですよ。
隙あらば同衾しようと迫ってくる奥さんが、もう二人いるし。
そう告げると、アルマは丸い熊耳をへにゃりとしおれさせて、しょんぼりした。
捨てないから! 大丈夫だから!