笑わない司書さんの幸福な日常
その日、自宅に届けられた封筒を開いたわたしは、ほとばしる喜びのあまり奇声をあげそうになった。
「や、やった……」
絞り出した声はみっともなく震えていた。でも、それは仕方ない。今日はどんな醜態を晒したって許されるはず。
だって、
「受かってる……っ!」
――今日は、憧れの図書館司書になれた、記念すべき日なのだから。
何度も何度も紙面を見直して、『リズ・ディラック : 採用』の文字を確認する。……うん、書いてある。わたしの名前もちゃんと記載されている。見間違いじゃない。わたしは、司書になれるんだ! しかも史上最年少記録と並ぶ十八歳での正式採用! 熱が出るまで勉強した毎日は無駄じゃなかった……!
この喜びをなんと表現しよう。今ならきっと神様が髭モジャのおじさんでも頬っぺたにキスできる。
勢いあまって玄関で踊り出すという奇行をなけなしの理性で押さえ込んで、わたしは採用通知を胸に抱いたまま、幸福の余韻を噛みしめていた。
「リズ、どうしたの? そんな所でボーッと突っ立って……あら、学院図書館に受かったの。よかったわねー」
後ろからあっけらかんと声をかけてきたのは、紛うことなき我が家の母である。
……母よ、もう少し娘の奇跡的な偉業達成を喜んでもいいんじゃなかろうか?
史上最年少記録に並んだんだよ? 倍率だってすごいんだよ? もうちょっとなにか反応の仕方があるはずだ。とびあがって驚くとか、思わず抱きつくとか。そんな、「あら目玉焼きの黄身が二つ入ってたのラッキーだったじゃない」的な雰囲気のふわっとした喜び方ではなくて。
「……それにしてもアンタ。憧れの仕事に受かったんだから、もうちょっと嬉しそうな顔したら? 採用通知もらって暗殺者みたいな目つきしてるとか、母さん実の肉親なのに娘が怖いんだけど」
――うん。お母さんがいまいち喜べないのはわたしのせいだって、わかってたけどね。
わたしは感情表現が苦手だ。気持ちがまったく表に出ない。それは近所の小さな学校に通っているとき、同い年の男子に「鋼鉄の処女」と恐れられ続けてから一層顕著となった。誰が拷問器具だ。鉄面皮の経験なしという点は当たってるけど。これまで恋人がいた時期なんて一度もないけれども。
そんなこんなでカチコチの表情筋と凶器のような目つきを抱えるわたしではあったけれど、憧れていた司書としての生活は順調だった。
さすがは「叡智の森」と謳われる王立クレイヴィール学院図書館で働く人々。物腰はいつも柔らかく、新入りで愛想笑いすら出来ないポンコツのわたしにも優しく仕事を教えてくれる。休日前には目ぼしい本を借りて、寮で心ゆくまで読みふける毎日。
こんなに幸せでいいのだろうか。働きだしてからの三ヶ月、とりあえず事故にだけは遭わないように気をつけている。この幸福な日々を手放してなるものか。
仕事にも早々に慣れて、いまは一人で大方の業務をこなせる。レファレンスに書庫整理、生徒さんの学費関連の書類整備までなんでもござれだ。表情筋が仕事をしない分、一般業務ぐらいは全力で頑張らねば。
「あ、あの……あの!」
後ろから呼びかける声が聴こえて、気合いの握りこぶしを慌てて隠す。
……見られてないよね? 見られてたらすっごい恥ずかしいんだけど。
動揺を押し隠すように深呼吸をして、ゆっくりと振り返る。
そこには、波打つ小麦色の髪を肩口でゆるく束ねた、可愛らしい男の子が立っていた。
「えっと……ノエルさん、でしたよね? どうかされましたか?」
「お、憶えててくれたんですか!」
名前を呼ぶと、途端にあどけない面差しがパァッと花開く。
うん、間違ってなかった。中等部のノエル・オーランシェット君。二ヶ月前に奨学金申請の書類について質問をしにきた子だ。初対面のときに逃げ出されたのも、ちゃんと憶えてる。
わたしの数少ない特技のひとつ。人の顔と名前は、一度見ればすぐに憶えられる。これは、おもに探偵ものの小説を読むときに培った技術と、友達が少なすぎて人間観察ばかりしていた学生時代の影響かと思われる。視界がぼやけるのはきっと初夏の熱気で滲む汗のせいだろう。最近は雨が降らないから暑くて困る。
などとわたしが遠い目をしている間に、ノエル君はなにやら顔を赤くしていた。やっぱり彼も暑いのだろうか? あと、どうでもいいことだけど、そうして震えているとまるで愛らしい仔犬のようだ。いつかそのふわふわの髪に触らせてもらえないだろうかとこっそり考える。わたしの硬い黒髪と違って、ずいぶん手触りが良さそうだ……まぁ、こんな陰気な鉄顔女になんて、指一本触られたくないだろうけど。
「あ、あの、司書さん」
「はい」
「えっと、その……こっ、この前は、ありがとうございました!」
がばっ、と頭をさげられた。
……どうしたことだろう。わたしはこれまで、唐突に謝られたことは数あれど、お礼をいわれたことなど一度もない。
彼になにかしただろうか。まるで記憶にないのだけれど。
「ごめんなさい。わたしはなにかしましたか? まったく覚えがなくて……」
「あ、で、ですよね! 実は、一週間くらい前に、ここで僕が、その……い、いじめられてるとき、司書さんが来てくれて……『図書館で騒いではいけません』って、伯爵家の子たちを追い返してくれて……」
一週間前といわれて、わたしはなんとなくその日の出来事を思い出した。
そうだ。たしかに、ここの一角で群がっていた中等部の男子たちにそんな注意をした記憶がある。あのときもやっぱり半泣きで謝られて、貸出しの受け付けを済ませていない本を抱えて逃げていった生徒を追い駆けるのに必死で、なにをしていたのかまでは確認しなかった。
あれはいじめの現場だったのか。そして彼らは伯爵家の子息だったのか。随分と謝られてしまったけれど、いまさらながらにゾッとする。わたしは軽く注意しただけだし、上流階級からの報復とか、ないよね? お願い。誰か大丈夫だといって。
「……おかげで、あの人たちにいじめられることもなくなりました。司書さんは、ホントにすごいです。あんな怖い人たちにも毅然と接して、彼らが伯爵家の人間だと知ったいまも平然としてるし……」
フッ、わたしの「鋼鉄」を侮ってもらっちゃ困る。ほんとは内心いっぱいいっぱいだ。ただ動揺が表に出ないだけで、逆上した貴族からの報復が怖くて仕方ない。
これは館長に報告した方がいいだろうか。……いや、でも何度か似たようなことやっちゃってるからなぁ。これ以上あの人の生え際が後退したら、どうお詫びしていいか分らない。
図書館での問題行為に直面すると、この『王立クレイヴィール学院』が貴族の子息たちも大勢通っている学校だということをついつい忘れて問答無用で注意してしまう。
もちろん寮や教室は区別されているけれど、図書館や医務局など共同使用を許可されている施設はいくつかある。勤務する職員も細心の注意を払うように指示されているのだが、やっぱりここはみんなが心地よく過ごせる空間であってほしい。わたしを含む庶民が高価な書物を読める場所なんて、図書館くらいしかないんだから。
「あの……ぼ、僕は、もっと男らしくなった方が、いいでしょうか?」
「……はい?」
話の方向が急転換した。いまの会話のどこにそんな質問へと至る要素があったのだろう? ひょっとして熱でもあるのか……と思ったら、本当にノエル君の顔は真っ赤だった。なんだか身体もプルプル震えている。
これは…………熱中症!
「大丈夫ですか?」
「ふぇっ!?」
俯いたノエル君の額に手をあてると、ビクッと震えてそのままの姿勢で固まった。やっぱり熱い。しかも顔がみるみる赤みを増していく。体温の割に発汗量も少なかった。
……マズい。末期症状の一歩手前だ。
「あの、体調が優れないなら医務局に行かれた方が……」
「あ、だ! だだだだだ大丈夫! 大丈夫です!?」
ズサーッと飛び退って、そのまま小柄な少年は出口へと走り去ってしまう。
「熱中症なら走らない方がいいですよ!」と声をかけたのだけれど、ノエル君が立ち止まることはなかった。
そんなに触られるのが嫌だったのだろうか。それとも、いつものように怯えられたか。
いずれにせよ、やっぱりショックだ。いろんな人から鋼鉄の顔面を怖がられているのは薄々気づいていたけれど、まさかここまでとは……。
傷心を抱えたままカウンターに戻ったわたしを、「本当にどうしようもないな、お前は……」となにかを諦めきったような職場の先輩が出迎えた。
◇
学院で過ごす日々の楽しみは、なにも本だけではない。
たとえば、数百種類の花々が咲き誇る広い庭園をゆっくりお散歩したり。休みの日には王都の大きなマーケットをあてもなくブラブラと歩いたり。西の通りにある古書店巡りなんて毎週通ってもまったく飽きない。あのうず高く積まれた古書の山から掘り出し物を探すときのワクワク感は、まさに宝探しのそれだ。娘の嫁き遅れを過剰に心配するお父さんには悪いけど、わたしは王都での生活を満喫している。
そんな中で日々の楽しみになっているのは、食堂のランチ。
落ち着いて食べたいからと学外に出掛ける職員さんも多い。しかし、わたしは圧倒的に学院の食堂推しだ。なんといってもメニューが豊富で安くて早くて美味しい。しかもコースを選べばデザートまでついてくる。
貴族の生徒向けの高級レストランもあるけど、そんな所には行かない。というより、行けない。庶民の新人司書が自腹で高級レストランとか、どう考えても自殺行為だ。
というわけで今日も安いオムレツとミートパイのコース料理を味わっているのだけど、
「それでね、オーメロッド様ったらひどいんですのよ……聞いてる? リズ」
「もちろんです、マグリール様」
……なぜか、目の前に大貴族のお嬢様がいる。
彼女の名はエメリナ・メイ・マグリール。ノエル君と同じ中等部の三年生で、驚くべきことにマグリール公爵家のご令嬢だ。眩いほどのブロンドの毛先は優雅なカールを構成し、睨まれれば思わずひれ伏さずにはいられない迫力満点の瞳は宝石のようなエメラルドグリーン。
身体つきもとても十五歳とは思えないほどメリハリがしっかりしていて、胸なんて三つ上のわたしより……やめよう。オムレツが塩辛くなる。
とにかく、「エルヴェイン王国一の美姫」という世間の呼称になんら恥じることのない、美しいお嬢様なのだ。――見た目はどちらかといえば女王様という雰囲気だけど。庶民向けの食堂がここまで似合わない人もそうはいまい。
「――リズ・ディラック」
地を這うような声が聴こえて、背筋がゾクッと冷える。
マズい。お嬢様がお怒りだ。なんで? 話はオムレツ食べながらちゃんと聞いてたのに!
「も、申し訳ありません。なにかお気に触りましたか?」
「……名前」
…………は?
ぼそっと呟かれた言葉の意味がわからず、首を傾げる。
「――だから、名前ですわよ! 名前! このあいだ、わたくしのことは『エミー』と呼んでもかまわないと特別に許可を出したはずでしょう! 庶民がこのわたくしの愛称を呼べるなんて、とても名誉なことなのですよ! ……それとも、あなたはわたくしの名を呼べないとおっしゃるの!?」
――それって許可ではなく強制なのでは?
と、自分の首が胴体から分離しかねない発言はなんとか喉の奥で押し留めた。
意味のわからないことに、わたしはなぜかこの大貴族のお嬢様に気に入られている。
そもそもの発端は、彼女が図書館で同級生らしき男の子につきまとっているのを軽く注意したことだ。そのあとやっぱり半泣きで逃げられて、しばらくするとなぜか一人で図書館に現れて迷惑行為を繰り返すようになり、その度に注意し、ちょっとした嫌がらせを受け、それをかわして……と珍妙な攻防戦をしているうちに、どういうわけか今の状況になった。
なぜだ。もう注意とかやめた方がいいんだろうか。
ちなみに、彼女が公爵令嬢であることは、わたしが気に入られたあとに面白がって秘密にしていた先輩から聞かされた。あの人だけは絶対に許さない。先に教えてくれてたら指導の仕方も考えたのに! おかげで、一連の出来事を後日に聞かされた館長の生え際が一センチも後退したのだ。もう額と呼んでいいのか迷う領域に入ってきている。
そういった経緯があり、わたしのお昼休憩には、必ずこのお嬢様が現れるようになった。……たくさんの使用人を引き連れて。
いいのか、これ。なんかわたしまで給仕されたりしてるんだけど。格安の食堂で給仕って。
あと、強面の護衛さんたちはなんとかならないだろうか。ただでさえ誰も近寄らない顔面鋼鉄女のまわりから、さらに人が遠ざかっていく。
「えっと、エメリナ様……?」
キュッと眉尻が吊り上がる。どうしろと。
「あー……エミー、様?」
つっかえながらも指定された愛称を呼ぶと、迫力満点の美貌がパァッと輝いた。
その予想外だった年相応の愛らしさに思わず見惚れてしまう。……ああ、こうしていると普通の女の子だ。出会ったばかりの頃はわがままで横暴なお嬢様だったけれど、現在ではその性格も鳴りを潜めている。最初に追い回していた男の子ともいまは正常な距離を保っているそうで、そのおかげかこの前ついに向こうから話しかけてもらったらしい。
……まぁ、その人、この国の第三王子だけどね。王族追いまわすとか公爵令嬢こわ。
「なにかしら? リズ」
「え……あ、その、早く食べませんか? 料理が冷めてしまいます」
「そうね。いただきましょう」
優雅に微笑んで、エミー様はナイフとフォークを手にとられた。その気品にあふれた所作は、とても年下とは思えない。……まぁ、召し上がってらっしゃるのはチーズバーガーだけれども。
おそらく、あれだろう。このお嬢様は対等に接する友達がいなかったのだろう。だから安易に媚び(てるように見え)ないわたしをお気に召されたのではないか、と分析してみる。恐ろしくてとても本人には訊けないけど。
「ねぇ、リズ?」
「はい」
「あのね? その……あなたって、お休みの……えっと、お、お仕事のない日って……」
珍しく口ごもったエミー様が、小さな声でなにか呟いている。
要約して推察すると、あれか。休日に一緒に遊びに行こうとか、そういう感じだろうか。
気持ちはわかる。はじめて友達ができたら、次は一緒にどこかへ出掛けてみたいと思うものだ。数はかなり少ないけど、奇跡的に友達がいるわたしにはわかる。
けど、いいのだろうか。エミー様は大貴族の子女で、わたしは由緒正しいド庶民だ。そんな二人でお出掛けなんて、公爵家では許され…………ああ、使用人さんたちがチラチラとこっちを窺いながら、「がんばれお嬢様!」って拳を握っている。この一ヶ月ほどで使用人さんたちとも打ち解けられたんですね。よかった。
「……エミー様、次の安息日に一緒にお出掛けしませんか?」
「へ? ……えっ、い、いいんですの!?」
「はい。わたしでよろしければ」
そう答えると、エミー様はとても嬉しそうに笑ってくれた。
……まぁ、喜んでくれるならいいんじゃないだろうか。彼女といて苦痛になることは特にない。最近はエミー様も本を読みだして、二人で感想をいいあえるようになったくらいだし。
本好きな人に悪い人はいないはず。――彼女がこの鋼の顔面を持つわたしと一緒にいて楽しいのかどうかはわからないけれど。
……それにしても、わたしの眼光は年を経るごとに鋭さを増しているようだ。
注意するごとに泣かれるのはなんとかしたいな、と思う今日このごろである。
◇
それなりに順調な生活ではあるけれど、問題がないということはない。
困るのは主に仕事中。忙しいときに図書と関係のないことで話しかけられると、それはもう非常に困る。
「やぁ、また会ったな」
返却された大量の本を書架に戻していると、後ろから声をかけられた。
いまの時間は授業中。ここに来れるのは職員さんか、授業時間の違う大学の生徒さんだ。
ただ、わたしは振り返って確認しなくても声の主が誰かを知っている。
「……なにかご用ですか? 先生」
「冷たいなぁ。俺の名前は教えたはずだろう?」
聞いた。けど、呼ばない。
この人はちょこちょこ仕事の邪魔をしてくるから苦手だ。なんかチャラいし。
高等部政治学科の教師、イアン・ブラント。肩口まで伸びた少しクセのあるチョコレートブラウンの髪、褐色の瞳はタレ目で色気満点。ピアスをジャラジャラつけたり、シャツの釦を三つも開けたりと、全体的に教職員としてどうかと思う格好をしている。わたしがいうのもアレだが、よくこの伝統ある王立クレイヴィール学院で働けたものだ。噂だと彼は貴族の隠し子で、そのコネを頼って就職したという話だけど、あながち間違ってないのかもしれない。
学院の中庭で彼が女性と一緒にいるところをよく見かける。それも毎日のように女の子が入れかわる。なんと高等部の生徒が相手のときもあるらしく、わたしの中で彼の位置づけは『教え子に手を出す危険人物』の栄えある第一位をブッチギリで爆走中だ。
そんな彼が、一ヶ月ほど前からよりにもよってわたしに絡んでくるようになった。もう性別が女ならなんでもいいのか。だったらそこらのメスの野良犬でも口説いてればいいのに。感情がわかりにくいという点において、難易度はそんなに変わらないはず。
「なぁ、リズ。君はいつになったら俺の誘いに応じてくれるんだ?」
「お食事の件なら丁重にお断りしたはずですが、聞こえていなかったのですか? それと、ここは図書館です。本をお読みにならないのでしたらどうぞお帰りください」
「ククッ、相変わらず気が強いな。だったら、君のお薦めを教えてくれよ。恋愛ものがいい」
……ホントにしつこい。
わたしの隣にある書物山積みの台車が見えないのだろうか。そもそも自分の仕事はどうした。政治学の教師というのはそんなに暇なのか。
「……なぜわたしなどに構うんです? 先生には美人な恋人がたくさんいるのでしょう? その方たちとお食事に行けばいいじゃないですか」
「彼女たちは自分から寄ってきたんだ。俺が口説いたわけじゃない。それに、君はあの傲慢なマグリール嬢を手懐けたそうじゃないか。そのクールで理知的な見た目も性格も俺好みだし、非常に興味深いよ」
クール。わたしの見た目が。たしかに、鋼鉄的な意味合いでは冷たいだろうけど。
――それより、この男は有り得ないことを口にした。
ああ、こういう教師が彼女を孤立させていたんだなと確信させられた。
「……いま、マグリール公爵令嬢を傲慢だと仰いましたか? ではお尋ねしますが、この世に傲慢ではない人間がどれほどいるというんです? ましてや彼女はまだ子供。過ちを犯したり、周囲と軋轢を生むことだって当然あります。公爵家子女という地位を考慮すれば、それは容易く想定できる事態でしょう。そんなときに彼女を正しい道へと導くことこそ、親や教職員といった周囲の大人の仕事ではないのですか? 『手懐けた』などと彼女を侮辱するような発言は撤回してください。彼女は、気兼ねなく会話のできる相手を求めていただけです」
そう、一息でいいきった。
あまりにも腹がたったのだ。勝手にあの子の性格を決めつけて、近づいて注意することもせず、遠巻きに眺めて悪態をついていただけの、この教師に。
身分の問題もあるだろう。しかし、ここは教育の場。現場を取り仕切る教職員にもそれなりの権限が与えられている。ちゃんと向き合おうとすれば、彼女の本当の心がわかったはずだ。
時間はかかったかもしれない。でも、一緒にお出掛けしようと約束したときのエミー様は本当に嬉しそうだった。
彼女は単に「普通」を欲していたのだ。普通に友達と遊んで、普通に好きな人と恋をしてみたかった。叱られない環境で育ってきたから、その正しい求め方がわからなかっただけで。
……けど、この男はそれを教えなかった。よく知ろうともせず、周囲と一緒になって馬鹿にさえした。
わたしは彼を教育者とは認めない。湧き上がる怒りに任せ、目の前の男を見据えた。
「ああ、いいな。そういう気の強い女はタイプだよ。……屈服させて、跪かせたくなる」
「っ!」
動きが予想よりはやかった。腕と首を掴まれて、逃げ場を封じられる。
「――でも、あんまり生意気が過ぎると痛い目をみるぞ?」
顔が近づいてくる。なにをするつもりなのか、考えなくてもわかった。そのあまりにも身勝手な行動の気持ち悪さに吐き気すら覚える。
せめてもの抵抗に目をきつく閉じて思いっきり顔を逸らしたけれど、覚悟していた不快な感触がやってくることはなかった。
「いだだだっ!?」
「――嫌がる女性に無理矢理なんて男の風上にも置けませんね……イアン・ブラント、ここは『叡智の森』です。女性を口説く場所ではありませんよ」
耳馴染みのある声が聴こえて、おそるおそる目を開けると、そこには腕を捻り上げられて悶絶するブラントの姿が見えた。……その後ろに、もう一人。
雪のように真っ白な髪と紺碧の瞳を持つ長身の青年が、冷やかな表情を浮かべて立っていた。
大の男を拘束しているというのに、その細身の身体はまるで揺るがない。やがて、彼は凍てつく光を瞳に浮かべたまま、突き飛ばすように掴んでいた腕を放した。
「ぐっ、ぅ……お前、ローランズか……」
痛そうに顔を顰めたブラントが呻きながら青年の名を呼ぶ。
クライド・ローランズ。クレイヴィール学院の大学に在籍する生徒さんで、この図書館の常連でもある。好きな小説の趣味があうので、図書の質問に答えつつ、読んだ本の感想などをよくお話しさせてもらっていた。田舎者のわたしでも聞いたことがあるくらい高名なローランズ侯爵家の嫡男だということは最近知ったのだけれど、以前から話していてもまるで気取ったところのない紳士的な男性だった。なんなら、身分を知ったあとも敬称を変えないで欲しいと頼まれたくらいだ。……だから、こんなに怒った姿なんて、はじめて見る。
ローランズさんは黙っていると冷たく見えるタイプの美人さんなので、ちょっと怖い。
「他に用がないのなら帰りなさい。もう二度とここには近付かないように」
「お前になんの権限がある。どこでなにをしようと、俺の勝手だろう」
「……懲りませんね、貴方も」
呆れたように呟いたローランズさんは、溜め息を吐いてブラントへと歩み寄った。まだ痛むのだろう腕を押さえたブラントの身体が、一瞬だけビクッと震える。……急に小物っぽさが増したな。いや、あの大貴族の御子息に余裕がありすぎるのか。
ゆっくり身を屈めたローランズさんが耳元で何事か囁くと、途端に顔がサァッと青褪めた。
「お、お前……どこで、それを……」
「さぁ。貴方には何か心当たりがお有りですか?」
明らかにフリとわかるとぼけた答えなのに、ブラントはなにもいえず、口を開けたまま放心していた。
……なにをいったんだろう?
気になったけど、聞かない方がいいような気がする。聞いてしまったら、もう後戻りできなさそうな……。
やがて、真っ青になったブラントは、そのままフラフラと図書館を出ていってしまった。
――すごく気になる。あの常に自信満々の色男が、あそこまで衝撃を受けるなんてただごとではない。
閉まった扉を呆然と眺めるわたしの視界は、しかし、長身の影に遮られた。
「申し訳ありません。図書館で騒動を起こしてしまいました」
「へ……? あ、そうですね。館内での乱暴行為は、ご遠慮ください……?」
つい、クセでそう答えると、目の前の美人さんがくつくつと喉を鳴らす。あの凍てつくような怒気はすっかり霧散していて、なんだかホッとした。
からかわれていることに気づいたのは、そのすぐあとだった。
「ブレませんね、貴女は」
「あ、その……失礼しました。助けていただいたのにお礼もいわず……あの、ありがとうございます。助かりました」
「構いません。大事になる前に見つけられてよかった。……でも、次にあんな場面に遭遇したら必ず大きな声で助けを呼んでください。いくら図書館でも、緊急事態なら少しの規則違反くらい許されるでしょう?」
そういわれて、ますます恥ずかしくなった。顔を俯けてコクコクと頷いておく。あまりこういう情けない表情は、他人様に見せたく……大丈夫か。どうせ変わらないもんな、わたしの顔。
すぐに気を取り直した。
「ローランズさんはなにかお探しですか? わたしでよければご案内させていただきます」
「次の論文の資料を探しにきたんですが……忙しそうですね。終わってからで構いませんよ」
「それだと長くお待たせしてしまいます。内容さえ教えていただければ、すぐにお持ちしますので」
「そうですか? では……」
論文のテーマを教えてもらい、その内容に沿う資料としてベーシックなもの、そこに細かな解釈を加えたものと、逆説を唱える中で主流と比較しやすそうな書物をいくつか見繕ってお持ちする。全部で十五冊ほど。この程度の探索なら、まったく業務の支障にはならない。
「相変わらず凄いですね……ひょっとして、ここにある本の内容をすべて把握しているんですか?」
「はい。司書ですので」
ポンコツなわたしの唯一の取り柄は記憶力くらいなので、働きはじめてから一ヶ月の間にすべての書物の概要には目を通した。『叡智の森』の番人の一人としてこれくらいは当然だ。愛想が壊滅的な分、それくらい頑張らないと、いつクビにされても文句はいえない。
「なんとも規格外というか、常識外れというか……貴女を見つけられたのはこの上ない幸運ですね」
「はい?」
「いえ、ただの独り言です……それより、これはいつもお世話になっているお礼です。よければどうぞ」
そういって差し出されたのは、一冊の本だった。
――その表紙に、わたしの視線は釘づけになった。
「こ、これは……っ!」
受け取る手が震える。滑らかな革の表紙。金箔でタイトルを印字されたその本は、王都の婦女子たちに大人気の探偵小説の最新刊だった。
つい最近発売されたばかりだというのに、どこの書店も売り切れが続出。購入予約は早くても半年後、というレアすぎる代物である。
競争に出遅れたわたしは、泣く泣く増刷を待つことにしていた。ただ、気になる前巻ラストの続きを半年も読めないというのはつらい。……そうして諦めていた幻の小説が、いま、目の前に。
「よければお貸ししますよ。僕はもう読みましたので」
「え、い、いいんですか?」
「はい。また感想を聞かせてください」
ふわああああ! な、なんていい人だろう!
思わず貸してもらった本をギュッと抱きしめる。感情の出ない顔面鋼鉄女のそんな姿はさぞかし気持ち悪いだろうけど、いまは許してほしい!
ローランズさんがこういう俗っぽい本も読むとは知らなかった! 趣味があうとは思ってたけど、この小説なんて探偵(♂)と助手(♂)と怪盗(やっぱり♂)のあれやこれがほんのちょっぴりだけど描かれていたりするというのに!
……それにしても、そういう背徳的な内容が一部の女子に人気の秘訣だったりするのでローランズさんには秘密にしていたのだけど、なぜわたしがこの小説のファンであることを知っていたんだろう? 不思議だ。
「貴女は、本当に毎日幸せそうですね」
ふいに、ローランズさんが綺麗な目を細めて、そんなことをいう。
表情筋が鋼鉄で、まったく感情の出ないわたしの働く姿は、彼の目には幸せそうに映るのだろうか?
……でも。まぁ、うん。
「はい。幸せです」
貸してもらった本を胸に抱いたまま、そう答えた。
仔犬みたいな男の子に怯えられたり、公爵令嬢とランチをご一緒したり、粘着質なチャラ教師やガラの悪い不良やちょっとなにいってるかわからない不思議な男の子に絡まれたりと、なんだか忙しいけれど、それでも――――いまのわたしの生活は、とても幸せだ。
「――リズさん、僕以外の人から欲しい本を借りてはいけませんよ?」
「え? な、なぜです?」
間もなく本格的な夏を迎える王立クレイヴィール学院図書館は、これから想定外の忙しさを増していくのだけれど。
……それは、また別のお話。