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メランコリックの囚人。
作:森本エリ




 いつも、フラフラと、何かしらステップを踏んでいるように、男は現れる。
 いつも道化師のような足取りで、踊るような男の、時折見せる、哀しいまなざしに、よりつく女は気づいているのだろうか。
 おれは、いつも、その哀しい道化師の男の側にいるだけ。
 道化師の男は、おれにいう。
「この街が揺れるから、俺はただ酔ってるだけなんだ」
と、苦み走った笑みを口許に浮かべ、舌打ちをした。
 その様を眺めながらおれは何も答えなかった。なにを言えばいいのか。

 恋を失った者に。
 恋人を喪失した男に。

 思いやり、曖昧な励ましを投げかけたところで、一ひらの慰めにもならない。

 グラスの海に溺れて、道化師はよく記憶喪失になった。
朝が来る度に、知らない顔の女が増えて行く。
 男が、暗い部屋のソファで落胆する。疲れ切った横顔を揺れる紫煙が霞ませる。
 おれは黙ったまま、その様子を眺めた。
 男の視線の先には、現実を超えた、歪の青。

 おれにその良さは少しも解らないのだが。

 やりきれない、焦燥と曖昧の海に沈む太陽のために、ピアノでも、奏でてやろう、という気持ちになったが、すでに売っ払った後だったので、バイオリンにしよう、と弓を松脂で撫でるように扱いた。

 男はサイドテーブルの酒瓶を手に、いつものように、飽きもせず、体内に注ぎ込む。

 おれは聴衆の居ない演奏会を、一人、始める。

 無為な朝日と音色の中で、道化師は揺れる。

 『終わった恋』の喜劇。
 おれは舞台を色づけるだけ。
 親愛なる道化師のために。

 神の名を呟き、零れる青達の唄がいなくなった恋人の名に変わる。
道化師は右目に掌をあてて、深く息を吐いた。
 彼と共にあるのは、悪魔なのだ。 失われた恋の幻影に憑ついた悪魔の影が、彼のくたびれた横顔に落ちる。

 ただ弓を滑らせた。
 おれは酔いどれピエロが再び、我が主にかえる様に。

 祈りの言葉を知らなかった。
だから、代わりにバイオリンを弾いた。
 去ってしまった彼女がよく徒に奏でていたピアノは、もうなくなってしまったから、おれの弾くバイオリンしかない。

 誤魔化しはもうなんの意味もなさないだろう。
 あまりにも、残り香が強過ぎる。 慰みも、慈愛も別の女の温みも、すべて無駄だ。

 おれは曲を一つ終わらせて、部屋を後にした。


『……………』


 彼が呟いたのは、名前だった。

 おれは振り返らず、バイオリンと部屋を出た。
 後ろ手で、ドアを閉めた。
長毛のカーペットの敷かれた廊下を歩き始める。


 銃声が響き、おれは目を閉じて、バイオリンを握り締めた。




心から尊敬していた男が、失った恋のせいでボロボロになっていく様を、結局眺めていることしか出来なかった青年の話でした。ご意見ご感想などありましたらお願い致します。













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