「これ、お二人とも好きだから……」
そういって妻は有名な老舗和菓子屋の芋羊羹の包みを持たせてくれた。きっちりと包装されたその箱は和紙の柄も美しく、紙袋にきちんと収まっている。
芋羊羹を供にして東京駅から新幹線に乗り込んだ。
やや厚手のコートを脱ぎ、座席の横のフックに掛けておく。東京はここ数日気温が上がっているので季節はずれの格好だが、私の実家は北東北の盆地にあり、三月でも雪が降る。
故郷の駅に降り立つと弥生の空は薄く灰色がかって、今にも雪がチラつきそうな顔をしている。思いのほか冷えており、コートの襟を立てて迎えを待った。この時、久しぶりの故郷の空気を懐かしむ余裕が私には無く、イライラとしたはがゆい気持ちを抱えたまま改札口に紙袋を提げて立っていた。
路面には雪が残り、冬枯れた木々の尖ったフォルムが寒々しく、その姿が私を一層陰鬱とさせる。
弟が迎えに来た。八歳年下の弟は、今年四十を迎える。久しぶりの対面だったが挨拶もそこそこに車に乗り込み、実家へ向かう。
「母さんの具合、どうなんだ?」
「徘徊すんだよ。久子が時々見に行ってるけど子供にもまだ手がかかるし……親父も腰を悪くしてる」
母の痴呆症が進み、徘徊がひどく、警察騒ぎになったと弟から電話が入ったのは一週間前だ。
同僚に侘びをいれつつ無理に取った有休で十年ぶりに実家へ顔を出す。今後の事を含めて弟夫婦と話し合うためでもある。
「親父は兄さんには絶対言うなって言ってた」
弟は若くして久子と結婚し、所帯は別に持っていた。私は三十歳の時、お嬢様育ちの恵子と結婚した。いずれ私の故郷で親と同居するという気持ちを確認してから結婚に踏み切ったはずだったが、都会育ちの恵子はあからさまに難色を示すようになった。
「私は、法務省に勤務する祐さんと結婚したのです。田舎で暮らす祐さんに嫁いできたのではありません」
十年前、本家法事の際に子供が出来ないことや、いつ田舎に帰ってくるのだなどの質問攻めに遭ったがため、感情の昂ぶりにまかせて親族の前で吐いてしまった恵子のこの言葉は、親族にも、そして恵子自身にも重くのしかかり、ほぼ絶縁状態となってしまった。
父親に至っては烈火のごとく怒り出し、その場で「出て行け」と恵子に罵声を浴びせた。
久しぶりの故郷ではあったが、私の心はこの今日の空のように薄ら寒い。
「母さん、ただいま」
十年ぶりに見た母親は、ベッドに腰掛けたままテレビを見ていた。私のほうへゆっくりと皺だらけの顔を向けると、驚いたように白く濁り始めた目を見開いた。白髪の髪は短く刈り込まれ、丹前を着せられた姿はどこかの知らない老人に思える。
「ああ、祐かあ?」
時々正常な時もあるというので、名前を呼ばれて少し安心した。
「学校、終わったのが?」
この瞬間、正直私は申し訳ないという気持ちよりも、面倒な事になったという感情が心を過ぎった。
自身の仕事で頭が一杯だったのである。法務省の仕事は激務が続いていたが、私は自分の立場に満足し、誇りに思っていた。田舎の埃臭い暗い部屋は、息が詰まりそうで、早々に帰りたくなる。
弟が腰の治療に行った父親を迎えに出て行き、私は母と二人になった。
いい加減、我が家のくたびれ加減には辟易する。今だに砂壁であったり、梁は煮しめたような濃い焦げ茶色になっていた。
母は無言でテレビを見ており、手持ち無沙汰の私は所在なく炬燵にあたってみかんを食べていた。
ドサドサと雪が雪崩落ちる音がして、古い家全体が身震いした。私は雪でも掻いてやろうと父親のヤッケと長靴を履き、外へ出る。溶けかかっている雪と顔を出している土がぬかるんで足場が悪い。庭から道路へ出て、雪を始末していた。半時ほど経つと、何やら玄関先のほうで物音がする。私は庭先までもどり、家のほうを覗いた。
すると母親が寝巻きのまま裸足で外に出てきていた。私は慌てて玄関のほうへ戻る。
「祐! 祐! 危ねえ……」
幼い私が道路へ飛び出したとでも思ったのだろう、必死な形相で声を振り絞っていた。母はすぐに泥に足を取られて雪の上に尻餅をついた。しかし、諦めることなく尻を引きずりながら私を迎えに来ようとする。ズズッ、ズズッという音と供に、泥雪に母の跡がつく。私は駈け寄り、母を抱えた。余りの軽さに少し恐ろしくなる。足や尻は泥水で汚れ、裸足だったがために泥は足の指にまで絡み付いている。
仕方なく玄関で簡単に足の泥を雑巾で拭い、ベッドに腰掛けさせて寝巻きのズボンを履き替えた。
次に盥に湯をはり、新しいタオルを持って母の前に座り、足を洗い始める。
足の指の泥を落し、踵を洗った。母の踵は皮膚が硬くなり、ザラザラで亀裂が入っていた。足の甲は真っ白で、静脈が青々と浮き上がっている。足首は折れそうに細く、皮膚には茶色いシミが点々としていた。
生まれて初めて、母親の足を洗った。
子供の頃、母親は病気をしないものだと思っていた。元気な姿が当たり前だった。
もちろんそれは子供の思い込みなのだが、母が風邪を引いたりするとひどく不安になって逆に無理を言ったり甘えたのを思い出す。
黄色く変色し、変形した爪の間も丁寧に洗う。母は無言だった。
働き者で明るかった母は、十年前の恵子の暴言に何も言わず、むしろ気遣っていた。
「授かりもんだから気にすることない。祐をよろしくね」
人気の無い所で、母が静かに恵子にかけた言葉を思い出した。
老いた足を素手で洗いながら、急に胸が熱くなる。老いた母を直視する事が怖い。ふいに頭の上で声がした。
「あれ、祐だが? いづ帰ってきたべ?」
母の顔を見上げると、その目の色は落ち着いている。
「たった今だよ。ただいま」
私は手を休めずに答える。
「こんなどこさ居ねえで、おめえはお国の皆さんのために稼がねばなんねえべ」
母が笑いながら私を見た。途端に涙が溢れてくる。老いた姿と、今この瞬間も息子の心配をしている母の想いが一気に胸に迫る。
私は涙が止まらなくなったが足を洗い続けた。小さな老いた足の感触を確かめながら。
ふと窓を見上げると暖かな日の光が部屋に入り込み、柔らかな影が母の上に重なる。
弥生の空が老いた背中を優しく見守っていた。
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