みるなのケータイ
本作は【第二回 犯罪が出てこないミステリー大賞】という企画の参加作品です。もちろん、参加されない方でも過不足なく楽しめる内容となっております。ご自由にどうぞ。
木枯らしが窓を叩く。
全館暖房という触れ込みとは対照的に、この生徒会室にはまともな暖房器具が存在しない。どこぞの部活が購入した随分と型の古い電気ストーブを、お下がりで使っているだけだ。
身じろぎ一つせずに窓際に座って本を読んでいる彼女からは衣擦れの音一つ漏れてくることはなく、遠くに聞こえる木枯らしのメロディーに乗って、時折ページをめくるペラリというリズムが刻まれるのみだった。
もとい、それは昨日までの話。
「うーーーん」
本日は下手糞なボーカルが彼女の向かいに座っていた。
「うーーーーーーん」
腕を組み、これ見よがしに唸っている。
「うーーーーーーーーーーん」
彼女は溜め息を吐き、来週には卒業する元会長に薦められた理系ミステリをパタリと閉じて、視線を持ち上げた。
「斉藤くんうるさい」
「え、何がですか?」
「そんなあからさまに唸っておいて、今更とぼけるつもり?」
「唸って?」
ちょっとアホの子斉藤くんは、生徒会にはあまり似つかわしくない癒しキャラである。しかし本人に自覚はない。むしろ彼としては、懸命に貢献していると自負している次第である。よく失敗をやらかす彼が周囲に咎められないのが、バ可愛いからだというのは彼を除いた周知の事実だった。
「……まぁいいわ。で、何か悩み事?」
「え、そんな風に見えました?」
「もしアレが隠しているつもりなら、浮気は絶対にやめといた方がいいでしょうね」
「いや、ボクじゃないですよ!」
大袈裟に手を振り否定する。
「だから、何の話?」
「何って、その……」
話しにくい内容なのか、聞く前から話し始める彼には珍しく、言葉を濁す。そもそも悩み事を抱えていること自体が稀有なことだ。悩みなど、あっても忘れるのが斉藤クオリティである。
「目の前で唸られたんじゃ、落ち着いて読書もできないっての」
「でも、生徒会の仕事とは何の関係もないですし」
「どーせ留守番しかすることないんだし、別に構わないでしょ」
一通りの行事を終えて新しい一年を待つ今の時期は本来、活動を停止していても不思議ではない。二人がここに居るのは、生来の生真面目さ故にである。
「じゃあその……ちょっと聞いてもらってもいいですか? 一人で考えていても解決しなくて」
「まぁ、その方が良いでしょうね。お互いの精神衛生上」
「実は昨日相談されて一晩考えたんですけど、全然良い考えが思い浮かばなくて」
「ふーん、寝不足なの?」
「いえ、がっつり寝ましたけど」
彼の一晩とは、布団に入ってから五分程度のことらしい。
「あっそ。まぁいいわ」
これは悩みそのものにも大した期待はできないと思いつつ、それでも退屈しのぎにはなるかと思い直して、彼女は姿勢を正した。
「えーと、どこから話したらいいものか悩むんですけど」
「さっき相談されたって言ってたけど、それって斉藤くん本人の悩みじゃないってことよね?」
「うーんと、むしろ姉貴は――あ、相談してきたってのは姉なんですけど、当人は何と言いますか、あんまり深刻な事態だと思ってないようなんですよね。それがむしろ問題と言いますか」
「要領を得ないわね。とりあえず、お姉さんには何と言って相談されたの?」
「えーとですね」
腕を組み、斉藤は昨晩の記憶を掘り返しながら続ける
「確か、男の人ってケータイを見られるのが案外平気だったりするのかって感じだったような気がします」
「普通は誰でも嫌がることね。斉藤くんは何て答えたの?」
「ボクもそう答えましたよ。でもそんなの、その人によると思いますから、どうしてそんなことを聞くのかって尋ねたら、彼氏が見てもらいたいのかもみたいな、おかしな返事が返ってきて」
斉藤くんをして『おかしい』と言わしめる事態は、真夏の街角に雪だるまが佇んでいる程度のレベルである。
「見てもらいたいって、どういう状況?」
「えっとですね――」
彼も頭の中が整理しきれていないのだろう。両手の人差し指でこめかみを押さえつつ、持っている情報を引き出していく。
「デートしている最中に突然いなくなることがあって、その時に必ず私物を置いていくんですけど、ケータイだけは見ちゃ駄目だと告げていくそうなんです」
「告げていくくらいなら持って行けばいいのに」
「ですよね。でも、必ず置いていくんだそうです。で、一時間くらい戻ってこないらしいんですよ」
「え、デート中でしょ?」
「と、少なくとも姉貴は思っています」
確かに奇妙な状況である。
「とりあえず、私なら速攻で別れ話を切り出すでしょーね」
「会長は時間にうるさいですからね……」
仮にそれほどでなくとも、一時間も放置されれば誰だって嫌気も差すだろう。
「話聞く限りだと一度だけじゃないみたいだけど、何度かされたの?」
「憶えているだけでも五回以上はあるらしいです」
「よくそんなのと付き合いを続けてると感心するわ」
「いやそれがですね、それ以外は凄くイイ人らしいんですよ。話はちゃんと聞いてくれるし、付き合いもいいし、気の利いたエスコートもしてくれるそうで」
「なるほどね」
「まぁ、貧乏らしくてほとんど姉が奢ってるそうですけど」
「全然駄目じゃん!」
「いや、奢るったって缶コーヒーとかファミレスでドリンクバーとか、そういうレベルですよ。遠慮して高いものは嫌がるそうで」
「何か、中途半端にイイ男ね」
「正直、姉の話を聞く限りにおいては、とても悪い人には思えないんですよね。出会いの話とか、どう考えても胡散臭いんですけど」
「胡散臭い?」
「何か、命の恩人だとか言われたらしくて」
それは確かに胡散臭い。濃縮果汁を還元しないレベルの濃厚な胡散臭さである。
「ちなみにお姉さんに心当たりは?」
「全くないそうです。斬新なナンパだと思ったって言ってます」
「そりゃそうだ」
「あと気になったのは……連絡は必ず向こうからで、姉からはその人――『チョーさん』を誘ったことはないそうです。電話をかけてもいつも留守電だし、メールアドレスも教えてくれないとかで。というより、例のケータイが使われているところを見たことがないそうです」
「ますます怪しい人ね。というかチョーさんって、名前も不明なの?」
「あーえっと、ちょうすけだったかな。ちょっと自信ないです。何となく古風な名前だったってのは憶えているんですけど。苗字は何だったかな……渋谷じゃなくて、墨田? 違うな……東京の地名だった気がします。あ、でも――」
「でも?」
「それ、本名じゃないかもって姉貴は言ってました。苗字で呼んでも気づかれないことがあるらしくて。でも『チョーさん』っていうのは多分本当の名前だろうって」
「もう胡散臭すぎて怪しいとかってレベルじゃないわね」
いっそ清々しいくらいである。
普通に考えれば姉を騙そうとしている詐欺師辺りになるのだろうが、それにしては遠慮が過ぎる。もちろん、信頼させておいて一気にという手口も考えられるところではあるが、信用を得ようという人間の行動にしてはケータイの話は不可解である。
「……もしもお姉さんが彼のケータイを見てしまったとしたら、斉藤くんはどうなってたと思う?」
「そうですねぇ。やっぱりそれを理由に何か注文をつけてきそうな気がします」
「まぁ、そう考えるのが普通よね。でも、だったら普段からもっと踏み込んでくるんじゃない? お姉さんは奢ることを大して苦にもしていないようだし。ケータイを放置して覗き見たら、なんて条件をワザワザつけるのは面倒でしょ」
「例えば、とても面倒なことだったり、罪悪感を感じるようなことを頼もうとしているとかだったらどうです?」
「だとしても、よ。こんな奇妙な行動をとるくらいなら、とりあえず頼んでみるでしょ。それとも君のお姉さんは、迂闊に頼みごとができないほど日常的にピリピリしているとか?」
「いえ、むしろ姉は頼まれたら断れない性分と言いますか、面倒なことを抱えて一人でテンパるタイプです」
つまり俗に言う良い人である。
「でもだとしたら、何でそんなことをするんでしょうか?」
「さぁねぇ」
「さぁって、少しは考えてくださいよぉ」
会長は頬杖をつき、目を細めて面倒臭そうに口を開く。
「そう言われてもねぇ。これだけの情報でわかるワケないでしょ。当人に直接確かめなさいよ、そんなの」
「それができないからこうして相談しているんじゃないですか。何でもいいから、何かないんですか?」
「そうねぇ。強いて言えば……」
ふと天井を見上げて考えてから、会長は彷徨わせた視線を正面の本棚に固定して立ち上がる。そして記憶を辿りつつ二段ほど本を探し、一冊の薄い絵本を持って戻ってきた。
「これは?」
「見ての通り、昔話よ」
表紙には『みんなのむかしばなし その四』と記されている。
「えっと、これをどうしろと?」
「その二つ目の話、とりあえず読んでみて」
「二つ目……?」
絵本を手に取り、斉藤くんは開いてみる。どうして生徒会室にこんな絵本がとか、ひょっとしてここにある本の全てを会長は把握しているのかとか、様々な疑問が頭の中に浮かびはしたが、この絵本を差し出した彼女の思惑により強い興味を引かれ、それらについては押し留めることにする。
「二つ目はえっと……これか」
それは『見るなの座敷』という話だった。
一人の男が森で道に迷い、途方に暮れて彷徨っている最中、一軒の屋敷を見つける。そこには女性の主が暮らしており、一晩の宿を申し出たところ歓待を受けた。
その宴も終わろうかという頃、女性は外出せねばと席を立つ。そして、こんな言葉を残していった。
「ここには全部で13の座敷がありますが、13番目の座敷だけは覗いてはいけませんよ」
奇妙に思いつつ約束を交わした男は、興味を引かれて座敷を巡ってみることにする。襖を開けるとそこには、とても室内とは思えないような美しい景色が広がっていた。どの部屋も甲乙つけがたく、男は夢中になって座敷を渡り歩いた。そして12の座敷を一通り見終えると、禁止されていた13番目の座敷がどうしても見たくなった。
男は約束を破り、その座敷の襖を開ける。そこには花を咲かせた一本の梅と、一羽のウグイスがいた。
男に気づいたウグイスは一声高らかに鳴くと、青い空に向けて飛び立った。そして不思議なことに、男は彷徨っていた森の中で立ち尽くしていたのである。
屋敷はもう、どこにもなかった。
と、このような話である。
「……なるほど」
さすがの斉藤くんも、会長がこの話を読ませた意図はすぐにわかった。
「関係ない話で気持ちが落ち着いた気がします!」
全くわかってなかった。
「いやいや、お姉さんの話と似てるでしょーが」
「いや、ウチの姉は森で迷ったりしてませんし」
「そこじゃなくてっ。一方的な約束とか素性が謎なところとか、いくらでもあるでしょーに。特に、絶対に見るなと言いつつ、まるで見て欲しいかのような状況を作る辺りは、根底に同じような意思があるように思わない?」
「そう、ですか?」
「仮にそうだとして、お姉さんが彼のケータイを見てしまった場合、どうなると思う?」
「鳴きながら飛んでいきます!」
「……もし彼がウグイスだったら、そうでしょうね。違うと思うけど」
「えー」
斉藤くん渾身の回答を会長はヒラリとかわした。
「それとも何? 君のお姉さんはかつてウグイスを助けたことがあるとでも?」
「まぁ、なくもないですけど」
「まさか、マジで恩返しじゃないでしょうね」
「どうでしょう。五年くらい前ですかね。春先に庭で怪我をしたウグイスを拾って世話したことがあるんです。ボクも少しだけ手伝いましたから、よく憶えてます」
「で、そのウグイスは助かったの?」
「はい、もちろん。一週間くらいで元気になって飛んでいきました。そういえば、ホーホケキョって一度も鳴かなかったなぁ」
「なるほどね」
奇妙な符合に少しだけ考えを巡らせてから、それでも表情を変えることなく続ける。
「まぁ、仮に恩返しであったとしても、よ。というより、恩返しであったなら尚のことと言うべきかな。普通に考えると、ケータイを見られた彼は姿を消すか別れを切り出すってところかな。フェードアウトする方が幾分確率が高いと思うけど」
「つまり、言い訳のためにケータイを放置していると?」
「そういうことね」
斉藤くんの眉根が寄った。どうやら納得がいかないらしい。
「自分からこれ見よがしに置いているってのに、そりゃあまりにも自分勝手なんじゃないですか?」
「そりゃそうよ。それこそが『見るなの座敷』の肝だもの」
微笑みながら頷き、会長は向き直った。
「斉藤くんはこの昔話、不思議だと思わない?」
「ウグイスが座敷を持っているとか、凄く不思議ですよね。どうやって建てたんでしょうか」
「いや、そういうことじゃなくて……まぁそれも不思議ではあるけど、そういうのは昔話ってことで大目に見なさいよ」
「じゃあ、一体何が不思議だと?」
「ウグイスって、何の為にこんなことをしたのかってことよ。基本的に、この話の主人公には落ち度がないの。幾つの類型や派生はあるんだけど、恩返しなどの持ち上げられる理由がみられることはあっても、そこから叩き落される理由はないのよね。ワザワザ良い目を見させて、あえて落とすという結末では一致しているの」
「どういうことでしょうか?」
首を捻り、斉藤くんは口をへの字に曲げる。
「そうねぇ……例えば斉藤くんがウグイス――つまり、もてなして叩き落す側の存在であったとするなら、どんな理由が考えられる?」
「理由? うーん……」
天井を見上げて唸る斉藤くんは、腕を組んで上半身を左右に大きく振ってから、ふと思いついて視線を戻す。
「どっきり、とか?」
看板を抱えて梅に留まっているドヤ顔のウグイス可愛い。
「何の為によ!」
「じゃあじゃあ、えっと、実は嫌いだけど仕方なくもてなしている、とか?」
「仕方なくもてなす理由は?」
「誰かに命令されて、とか?」
「割と良い線はついていると思う」
物事の筋がようやく見え始めて、会長の言葉が軽快に走り出す。
「つまりね、恩返しであるにせよ神様の命令であるにせよ、何かしらの理由によって男をもてなす必要に迫られたウグイスは、偽りの屋敷を用意して男を歓待し、禁忌という条件を残して立ち去ったの。その目的は恐らく――」
「最後の座敷を見せるため?」
斉藤くんもようやく理解が進んできたらしい。
「その通り。ここまでくれば、何の為にウグイスが面倒なプロセスを講じたのか、予想はつくわよね?」
「恩返しを終わりにする為、ですか?」
「そうね。更に言えば、相手に罪悪感を持たせることにより自らの悪意を隠す意味もあるかもしれない。禁忌を犯した側は、そうしなければずっと楽園にいられたかもしれないと勘違いするでしょうからね」
「実際には、違うと?」
「そりゃそうでしょ。男が最後の座敷を覗くまで、この物語は終わらないんだもの。ウグイスはただ、座して待てば良いだけ」
「最初からそのつもりだったんなら――」
斉藤くんは口を尖らせる。
「ウグイスってずいぶん汚いヤツですねっ」
「まぁ汚いというよりも、基本的に臆病なんだと思う。ウグイスっていう鳥はね、とても警戒心が強くてあまり姿を見せない鳥なのよ。そういう基本的な習性を考えると、この『見るなの座敷』に出てくるウグイスっていうのは結構納得がいくのよね」
「それにしたって……」
見るなの座敷という昔話には派生も多く、恩返しという体をなさないものも少なくはない。そういった事情を知らない斉藤くんにとって、ウグイスはすっかり悪役になってしまったようである。
「まぁ、この話におけるウグイスが乗り気じゃなかったのには、別の理由もあると思うけどね」
「何ですか、それ?」
得意げな笑みを浮かべて、会長は言葉を紡ぐ。
「極めて簡単な理屈よ。あの話の最後、憶えてる?」
「最後ってええと……一回鳴いて飛び去ったってところですか?」
「そうそう、ウグイスと言えば鳴き声ってどんな?」
「そりゃ、ホーホケキョですけど」
その程度は常識中の常識である。
「そのホーホケキョって鳴き声はね、オスが縄張りを主張する為のものなの。メスがそんな風に鳴くことはないと言われているわ」
「え、それってつまり――」
「そう、男をもてなしたのは男の娘ってことね!」
もう少し言い方というものがなかったのだろうか。
「いやまぁ、確かにそうかもしれませんけど――」
言いかけた斉藤くんの声が、ふと何かに気付いて途切れる。
「じゃあもしかして、姉の場合は百合ってことですかっ?」
「いや、そうじゃないと思うけど、まずはその荒い鼻息をやめなさい」
「あ、すいません。つい」
斉藤くんは隠れ百合萌えである。
「君のお姉さんの場合は、少なくともウグイスとは思えないわね。ウグイスにしては人が良すぎるというか、もしそれが『見るなの座敷』のウグイスだったとしたら、ケータイの中身を見るまで戻ったりしなかったと思うもの」
「何だかんだで姉のワガママに文句も言わずに付き合ってくれているらしいので、基本的に悪い人には思えません。それに、姉の話を聞く限りでは人懐っこい人っていうイメージなんですよね」
「人懐っこい……」
何かが引っかかるのか、会長は口の中で小さく呟く。
「あ、ボクだって別に相手が本当にウグイスだなんて思っているワケじゃないですよ?」
「でも、普通の人だとも思っていないんでしょ?」
「うーん……何て言うんですかねぇ。直接会ってないんでハッキリとは言えないんですけど、姉に合わせてくれているのがよくわかるんですよね。どこをどう切り取っても良い人そうで、恩人って話も姉が忘れているだけで、まんざら嘘じゃないのかなって思えたんです」
「その印象を聞くと、むしろケータイの一件だけが浮いてるみたいな感じね」
「ホントそうなんですよ。あんなに正体不明じゃなかったら、素直に応援したいくらいなんですけどね」
得体の知れない相手が、もしかしたら家族に加わるかと思うと二の足を踏むのは無理からぬ話であろう。
「せめて名前くらいわからないの?」
「そうですねぇ……じゃあ、ちょっと姉に聞いてみます」
「そうしてちょうだい」
苗字が東京の地名で古風な名前、その事実が彼女の思考に奇妙な可能性を示唆していた。あり得ない、その一言で終わってしまうハズの可能性を確かめたいと、今は純粋に思っている。
「今メールしましたんで、向こうが気づいてくれればすぐにでも――って返事はやっ!」
「で、何だって?」
「ええっと……あぁそうそう、目黒ですよ、目黒!」
「目黒……」
「フルネームは、目黒長兵衛だそうです」
東京の地名にチョーさんという略称は、確かに納得のいくところだ。だが、それを聞いた会長は視界を両手で覆うと、俯いてブツブツと何やら呟き始めた。
「か、会長?」
「……ふふっ」
不意に笑い声がこぼれる。
「くくくくくっ、くふっ……アハハハハハハハハハ!」
突然腹を抱えて笑い出した。
「ちょちょちょちょっと! 一体何がっ、誰か呼んで……そーだ保健の先生を!」
「失礼ね。気が触れたみたいに言わないでくれる?」
「あれっ、違うんですか?」
ボケてもいないのに突然笑い出したら、誰だって怖い。
「当たり前でしょ」
「じゃあ、何で突然?」
「繋がったからよ」
「繋がった? えっと、何がですか?」
キョトンとする斉藤くんに、会長はニンマリと笑って見せる。
「まぁ、正直信じられないことではあるんだけど、筋は通るのよね」
「何言ってるのかわかんないんですけど……」
首を傾げて真横になった斉藤くんの顔をしばし眺めて満足してから、会長は自分のケータイを取り出すと何やら検索を始め、その結果を表示して彼の方へと滑らせる。
「斉藤くんのお姉さんが世話したウグイスって、コレのことでしょ?」
そこには鮮やかな黄緑色をした鳥が、梅の枝先に留まっていた。
「あ、はい、そうです」
あぁやっぱりとばかりに大きく頷いてから、会長はニヤリと笑う。
「この鳥はね、ウグイスじゃないのよ」
「はっ?」
彼が驚くのも無理はない。ウグイスの実物を目にすることのない現代人にとって、この勘違いはあまりにも当然のことだった。
「さっきも言ったけど、ウグイスという鳥はとても警戒心が強くて、人前にはなかなか姿を現さないの。それに主食が虫だから、藪の中にいることが多いのね。でも知っての通り、その鳴き声は極めて有名でしょ?」
「ホーホケキョですね」
「そうそう。その鳴き声が聞こえて枝を見れば、そこには梅の蜜を目当てにしているメジロがいると、そういうことよ。しかもこの色、現代人はこの鮮やかな黄緑色がウグイス色だと思っている人が多いのよねぇ」
「え、違うんですか?」
「大違いよ。本来のウグイス色っていうのは、もっとくすんだ色なの。少なくとも、鮮やかな黄緑とはとても言えない色ね」
そういった勘違いに至る理由には染物であったり糞であったりという紆余曲折があるのだが、それはまた別の話である。
「まぁ要するに、君やお姉さんがメジロをウグイスだと思ったことが、始まりなのかもしれないわね。ちなみに言っておくと、ウグイスと違ってメジロは比較的人懐っこい性格をしていると言われているわ」
「へぇ……でも、名前だけでよくわかりましたね」
「ウグイスらしくないという経緯があったこともあるけど、咄嗟にメジロと名乗りかけて目黒に変えたのかなと思ったし、それに――」
検索した動画を再生すると、スズメにも似たチュルチュルと鳴く声が響き始める。
「昔の人は、このメジロの声を『長兵衛、忠兵衛、長忠兵衛』と表していたそうよ」
「……そう聞くと、何だかバレバレな感じですね」
「命の恩人と言っていたことからしても、あるいは本人は名乗りたかったのかもしれないわね。でも、お姉さんはウグイスを助けたと思っている。だから、ウグイスとして恩返ししようとしたんじゃないのかな。でも彼は、ウグイスほど事務的にはなれなかった」
「もし……もし相手があの時のウグイス――いやメジロだったとしたら、どうするべきなんでしょうか? 見るなの座敷の終わりをなぞって、ケータイを見るべきなんでしょうか?」
それは恐らく、酷く滑稽な質問であったことだろう。本来であれば、シャレで返すことこそ正解であるところだ。しかし会長は少しだけ考えてから、極めて真剣な表情で口を開いた。
「相手がメジロであるにせよ違うにせよ、いずれ終わることだというのは、覚悟しておくべきでしょうね。ただ、本当に相手が昔助けたメジロだったとしたら――」
会長がふと、いつもの仏頂面からは縁遠い笑顔を浮かべる。
「ロマンチックな話じゃない。素直に恩返しを受けて、笑顔でお別れができたら最高でしょうね」
「ボクもそう思いますけど、どうしたら……」
「そう難しく考えることでもないでしょ。要するに――」
回答は極めて単純かつ安易なものだ。
彼は一抹の不安を抱えつつ、その言葉を持って帰ることにした。
そして一週間後、いつも通りの明るい声が生徒会室に響き渡る。
「お疲れ様ですっ。会長!」
「無駄に元気ね。斉藤くんは」
「聞いてくださいよ。姉の話なんですけど――」
「進展があったの?」
「はいっ!」
彼の笑顔を見るだけでも、その顛末が『見るなの座敷』と違うことはわかる。
「会長の言葉を伝えたら、明らかに態度が変わったそうです」
「そっか」
あなたらしい恩返しをして欲しい、それが彼女の口にした言葉である。
「最後は席を外すことはなかったらしいです。一緒に高台の公園まで歩いて満開の梅の木の下でケータイを見せられたって言ってました。そこには姉への電話の履歴しかなかったそうですよ」
「そう」
「そして、深々とお辞儀をしながら『ありがとう』と『ごめんなさい』を告げてから、消えたそうです」
「ホントに恩返しだったのかもね」
「姉もそう思っているようです」
真実はどうあれ、納得のいく別れを迎えられたことは事実である。
「あー、そういえば――」
ポケットからスマホを取り出した斉藤くんは、数回画面をタッチして画像を呼び出すと、画面を会長へと向けた。
「今朝、庭の梅の木にウグイス――じゃなかった。メジロが留まってたんです」
その鮮やかな黄緑色は、梅の桃色によく映える。
春は本当に、すぐそこまで迫っているようだった。