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シュトラント王国異聞 〜雪解けの魔女と呪われし王〜 作者:山本 風碧
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13/22

13 野薔薇とクレマチス

「うぅ……眩しい。あと、暑い」
「文句言わない!」
 ぶうぶう文句を言うヴィルに、ティナは帽子を深くかぶせようと、そばに寄る。
「ちょっと屈んで。届かない」
 ヴィルは額の汗をハンカチで拭うと頭をそっと下げる。艶やかな黒髪が背から流れ落ち、ティナはその美しさにため息をついた。
「いいわね、ヴィルのその髪。サラサラですごくきれい」
「そうか? 暑いだけだが」
 ヴィルは鬱陶しげに髪を一房持ち上げる。
「ついでに結ってあげようか? 首に風が通れば少しはましよ?」
 ティナがそう提案すると、ヴィルは大人しく頷き、少し先にある東屋を指差した。
「あそこなら少しは涼しそうだ」
「そうね、日焼けは肌の天敵だもの」
 ティナは力強く頷いて、頬のそばかすをこっそり撫でる。

 庭に備えてある東屋までの道には、色とりどりの花が整然と植えられている。残暑が厳しいというのに、花達は夏の日差しの中、生き生きと輝いていた。
「へえ、こんな風に植えるとまた綺麗ね」
「あの紫の、なんていう花?」
「ルピナスよ、多分。でも森にあるのとちょっと種類が違うかも」
「ふうん」
「でも、綺麗よね」
「ああ」
 他愛も無い会話をしながら、二人は花で作られた道を歩いた。今日は衛兵も、ライムントも傍にいない。庭は人払いをされていて、しんと静まり返っていた。そんな中、耳に届くのは、蝉の声、微かなせせらぎの音、それから、二人分の足音だ。
 東屋は四方に木の柱が立てられ、その上に木の屋根が乗せられた簡単な造りだった。本当に雨と日差しを遮るだけのもの。長く使われなかったのか、天井は所々朽ちて木漏れ日が鋭く差し込んでいる。その下に小さな木の椅子が四つ置かれていて、ヴィルがそのうちの一つを選んで腰掛ける。ヴィルが帽子を脱ぎ背を向けると、ティナはそばに寄って彼女の髪をそっと持ち上げた。
「本当に長いわね、いつから伸ばしてるの? ずっと?」
「ああ……幼い頃からずっと。だけど、これでも十二のときに一度ばっさり切ったのだ。それからは切ってないな」
「へえ」
 さらっと出て来る記憶にティナは感心する。
「そんな事まで覚えているの。私、前にいつ髪を切ったかとか覚えてないわ」
「…………ちょっと色々あったから、覚えている」
 少しだけ声に重みが増した気がして、ティナは思わずヴィルの顔を横から覗き込む。しかし、彼女は普段通りに涼しい顔をしているだけだった。
「サラサラで纏まらない」
 そう言いつつもティナはヴィルの髪の毛先を取ってなんとか三つ編みにすると、途中摘んで置いたシロツメクサの細い茎で纏めた。
「確かに、こうすると、涼しいな」
 ヴィルは振り向いてティナに微笑みかける。そして、何を思ったか「お前もやってやろうか?」とびっくりするようなことを言う。
「え、いいわよ」
「いいからそこに座って」
「なんで。あれ? もしかして汗のせいで爆発しちゃってる?」
 ティナの髪は湿度があると、とたんにうねって膨張するのだ。ひょっとしたら纏めた頭が膨れてしまっているかもしれない。鏡を探すけれども、屋外だ。当然見当たらなかった。
「まあ、そんなところ」
 ヴィルは吹き出しながら、ティナに交代を促した。ティナが膨れつつも大人しく座ると、ヴィルは辺りを見回して、東屋の柱に伝っているオレンジ色の野薔薇に手を伸ばした。
「あ、それ茎に細かい刺があるから、気を付けて」
「お前の図鑑で見たから知っている」
 しかし彼女の手は野薔薇の前を通り過ぎ、隣にあった紫色の花を摘む。野薔薇ほど華やかではないけれど、柔らかく愛らしいクレマチスの花だった。
「こっちのほうがお前らしいかな」
 そう言いながらヴィルは笑うと、ティナのふわふわの髪をひっつめていたリボンを一気に解く。そして、そのまま花をどこに挿そうか悩みだした。
「なにしてるの? リボンは?」
 広がりっぱなしの髪の毛にティナが慌てると、ヴィルは「こっちの方がふわふわで、可愛いだろう」と真面目な顔で言う。
「やだ、もじゃもじゃで人参の葉っぱみたいで、嫌いなの!」
 ティナは『可愛い』という人生で初めての褒め言葉に激しく動揺しつつ、ヴィルの手からリボンを取り返そうとする。しかし、ヴィルはリボンを高く上げて、それを阻んだ。飛び跳ねてみるものの、やはり届かない。からかい混じりの眼差しに、ティナはかっと赤くなる。
「前に見たときから思っていたが、お前にはそっちのほうが似合っている」
「え、いつ見たの――」
 と言った後に、初日に寝坊して大爆発の頭で出仕した事を思い出した。
「ぎゃっ、忘れて!」
「忘れられない、あんな強烈なもの」
 ヴィルは遠慮なく声をあげて笑っている。腹が立つものの、先ほどの言葉が気になって本気で怒れない。
「と、とにかく! この髪、実験の邪魔になるもの。やっぱり返して!」
「今日は実験じゃないからいいだろう?」
 なんで頑にそう言うのだろうか。ぷうと膨れながらも、ティナは仕方なく飛び跳ねるのを止めた。するとヴィルは満足そうに手に取ったクレマチスをティナの髪に差し込んだ。そして、その手はそのままティナの髪を一筋さらい、指で梳いた。
「落ちない。すごいな、癖毛というのは。私の髪じゃそうはいかない」
 感心してるのか馬鹿にしてるのか分からない。ともかくティナは髪に触れたヴィルの手が妙に大きく感じられて身体を硬直させるばかりだった。


 結局は髪をそのままに、ティナは麦わら帽子で押さえ付ける。けれども、纏まっていない髪では、帽子がすぐに浮いてきて、安定しない。仕方なくティナは帽子を乗せているだけの状態で庭をうろついた。一方ヴィルは大きなつば付きの白い布帽子を被っている。長い三つ編みがそこからちらりと覗き、随分と可憐だった。
(ああ、替わって欲しい)
 天は二物を与えないというのは嘘だと、ヴィルを見ていると思う。しかし、あんなに恵まれているのに彼女がどこか苦しそうにしているのはなぜなのだろうと、ティナは不思議だった。
 将来女王になるという重圧なのだろうか。それだけの責任を負うということが、ティナには想像できなかった。
 しかし、〈シュメルツェの魔女〉を継ぐことを思うと、小さな村の長と比べては駄目なのかもしれないけれど、ヴィルと比べて自分がどれほど甘いのか、分かる気はしていた。
 彼女は女王になる為に様々な努力をして、そして、様々な我慢もしている。恵まれているかもしれないけれど、生まれ持ったものに胡座をかかないのだ。長の娘だからと胡座をかいているティナとは大違いだった。
 シュメルツェの直系であるということ、アエナという素晴らしい母を持つということ。それらの自らの才とは関係ない事を、自分の手柄のように考えて、いずれ長の座を継げると楽観視していた。困っていてもきっと誰か助けてくれるしと、甘えた心で適当に仕事をこなしていた。母たちはティナの形だけの努力など全部お見通しだったのだ。そんな自分を恥じる気持ちが今のティナにはある。
 ここに来た時はアエナを恨んだティナだったけれど、今は感謝したい気持ちでいっぱいだった。
 学ぶ事は楽しい。それが一番の理由だった。そして、それと同じくらいに、初めての友達――親友と言っていいだろう――といる時間がティナにとってはあまりにも貴重だったのだ。
(でも、あと少しになっちゃった)
 約束の期限まで、いつの間にかあとひと月ばかり。夏が終わって、秋が来れば、あっという間だ。
 その事を考えると、ティナは寂しくて仕方がなくなるのだ。あれだけ家に帰りたかったのが嘘みたいだった。
 ヒルデガルドにいた時のように、大好きな草花を摘みながら、庭を散策しているのに、気分が全く晴れないのはきっとそのせいだった。
「ほら、これでいいのか?」
 ヴィルが自分で摘んだカモマイルを束ねてティナに差し出す。この花は、病害虫を防ぐために薔薇の隣に植えられているようだ。見つけて喜んだティナを見て、ヴィルも摘むのを手伝ってくれたのだ。
 ティナは花の束を受け取り、その林檎に似た甘い匂いの中に溜息を吐いた。
「ありがとう。これはお茶にして後で飲みましょう?」
 ヴィルはティナの浮かない表情に気が付いたのか、首を傾げる。
「どうかしたのか」
「あ、実験の事考えてて……期限が迫っているなって」
「確かに、あとひと月だな」
 とたんにヴィルの顔も曇り、庭には沈黙が落ちた。僅かに鬱屈した顔は、この頃よく見る表情だった。それを見ていると、ティナは余計に寂しくなってしまう。これ以上しんみりすると泣きそうで、慌てて明るい話題を探す。
「あ、そういえば。近々、私、ヒルデガルドの近くにある北の森に出かける予定なの。プエラリアを取りに行くのよ」
「へえ。里帰りか」
 ヴィルが表情を和らげたのを見て、ティナはほっとする。
「うん。何かおみやげに欲しいもの無い?」
「ヒルデガルドでは何が名物なのだ?」
「うーん、今の季節だと桃か梨かなあ。……でも傷みやすいし、持って来る間に悪くなっちゃうかもしれないから、ジャムにしてくるしかないかも」
「ジャムも良かったけれど……美味しいのか、生の方が」
 ヴィルは不思議そうに問う。
「そりゃあ! お料理でもなんでも作り立てが美味しいのと一緒よ。新鮮なものの方が美味しい事が多いわよ。特に秋は旬のものが多くていいの。林檎もたくさんなるし、柿と葡萄と蜜柑と栗も採れる。あと――そうそう、言い忘れたわ。産卵しにシュプルングを登って来る鮭が最高なの! ああ、ヴィルにも食べさせてあげたいのに!」
 ティナが力説すると、ヴィルは耐えられないといった調子で笑う。
「食べ物の話になると饒舌だな。しかも顔が輝いている」
「もう! またからかうの」
「いや――本当にうまそうだと思っ……」
 ヴィルはそこではっと口を押さえてティナを見た。
「うまそう?」
 その口調がなんだかくだけすぎているというか……でも――妙に似合っていたため、ティナは驚いた。
(なんでかしら?)
 前から固い口調で話す事を不思議には思っていたけれど、ティナの母の例もある。それにライムントへも、他の使用人にも同様だし、王族はそういうものかもしれないと突き詰めて考えなかったのだけど……。
「もしかして」
 ティナがひらめいた考えを口にしようとすると、ヴィルは珍しく慌てた様子で目を見開く。
「あぁ、ええと」
「――私、ヴィルの言葉遣いも注意しなければならなかったの? ヴィルも女王様に言われたでしょ? より王女らしくなるようにって」
「…………」
 ヴィルは目を見開いたまま、頬を僅かに引きつらせている。
「あれ? でもやっぱりなんで、私? 私だって、女らしい言葉遣いはあまりできていない気がするんだけど」
「…………」
 ヴィルはやはり黙り込んだままだったけれども、やがて、大きく息を吐く。
「あーあ…………やっぱり鈍いんだな、お前は」
 なぜかがっかりした様子のヴィルが不思議で、ティナは首を傾げる。
「鈍い?」
「なんでもない。言葉遣いには気をつけろと、母にいつも言われている。今後も気をつけることにしよう」
「優しい口調で話せばもっと素敵なのに」
 するとヴィルはひどく不快そうな顔で「『気をつけるわ』、とでも言えば?」と口にする。
 ティナはなぜか悪寒を感じて、そんな自分に驚いた。しかし、さすがにはっきりとは言えずにぼかす。
「ヴィルの声は大人っぽいから……今までの方が似合ってるような気もする……っていうか、その話し方に慣れちゃったわ。半年近くいればさすがにね」
 中性的な声、とでも言えばいいのか。落ち着いた重みのある声には、女性らしい言葉遣いはあまり似合っていないのも確かだった。
「でも、『うまい』なんてのは、ちょっと似合わないかもね」
 ティナはそこで話題を変えようとする。だが、ヴィルにとっては、話題が脱線しただけのようだった。
「私も、付いて行きたくなったな。ヒルデガルドの森に」
「え?」
 真意を測りかねて、ティナは首を傾げる。
「忍びでどこかに出かけるのも面白そうだ」
 “忍び”という言葉が不穏に響き、ティナはぎょっとする。
「怒られるわ、ライムントに」
「ばれないよ、少しの間なら」
「でも、少しって言っても往復で一日はかかるわよ。作業によってはもっとかかるかも」
「一日ならなんとか誤摩化せる」
「ええ? でも」
「もう決めた」
 引き下がらないヴィルが不可解だった。
「なんで」
「お前の育った森を見てみたい。……それから、自由を失う前にどこかに出かけてみたい。今のこの目で世界を見てみたいんだ」
「自由を失うって――」
 大げさなと笑おうとしたけれど、それは全く大げさな話ではないことがすぐに分かる。
「――私はもうすぐ結婚するから」
「え――」
 表情を固めたティナをヴィルは斜めに見下ろした。大きな帽子のつばで顔に影ができて、その表情がひどく寒々しく見える。
「聞いていなかったか? 来月私は十七になる。今は国内からも国外からも多く申し込みがあるが、そろそろ逃げるのを止めなければ、婚期を逃しかねないからな。西のカストックからも書状が届いたそうだ。お前も言っていたけれど、どうやら私が美しいと噂が広まっているらしい。王子からの熱烈な愛の言葉が添えてあった」
 そう言って、ヴィルは口を歪めて笑った。しかし、その磨いた刃のような笑顔はティナの胸を突く。
「あ、女王陛下が急がれていた理由ってそれでなの。でも、そ、そんなに早く」
「……早くないだろう」
 ヴィルは呆れ顔だった。
「う、確かに」
 ティナの村でも十七で結婚はごく普通のことだった。早い者では十五で結婚する事もある。村に男性が少ないというのもあるのだけれど、婚期を逃すと本当に結婚できなくなるのだ。だから縁があれば皆あっさりと嫁いでしまう。ティナだって、相手がいればそうするだろう。
「……お前には、そういう相手はいないのか?」
 躊躇いがちに問われた瞬間、ティナの頭になぜかこの間見たヴィルの笑顔がぽんと浮び、かっと頬が染まった。そんな自分に驚き、邪念を振り払うように慌てて「いないわ」と、否定するとヴィルは寂しげに笑った。
「私は相手を選べないが、お前には……いい相手が現れればいいな。“友人”として、そう願っている」
「“友人”?」
 硬く響いたその言葉に、ティナは思わずヴィルを見上げる。しかし、彼女はティナから顔を逸らし空を見上げていて、その表情を読む事はできなかった。

 ◆

「あ、もう! こぼしちゃった……」
 机の上にはプエラリアが数粒置いてある。ライムントに言って取り寄せてもらったものだ。けれども、ヒルデガルド産でないためか、ティナが知っている実よりも随分痩せていて、魔術書に書かれているバケツ一杯ほどの分量にもほど遠い。別の良く似た実が混入されていたため、半分以下に減ってしまったのだ。
 それでも十分の一の分量で作ってみて、手に入りやすい蛙のような小さな生き物で実験をしてみる事にした。時間が無いのだ、来週までぼうっとしているわけにはいかなかった。
 ティナは珍しく焦っていた。
 散歩を終えティナが部屋へ下がろうとした時、ヴィルは『しばらく忙しくて一緒に実験ができない』と言った。追い込みの時期だけど、予定が立て込んでいてあまり時間が取れないとの事だった。
 突然の申し出に、ここに来て急にそんなの困る――と、ティナは思わず文句を言いたくなった。けれど、彼女が随分申し訳なさそうなのに気が付いて、結局は何も言えなかった。
 そして部屋に戻った後、いつの間にか随分ヴィルに頼ってしまっていた事に気が付いて、自分にがっかりした。王女であるヴィルが忙しいのは当たり前なのに。あくまで手伝ってもらっているだけなのに。
 これはティナの仕事だ。なのに文句を言うなんてお門違いだった。言わずに済んでほっとした。
 しかし、事は深刻で、あとひと月でなんとか実験を成功させなければならないのに、優秀な助手――いや、もしかしたら助手はティナの方かもしれないが――を失ってしまったのだ。
 いつの間にか人に頼りきってしまう悪い癖が出ていたことに気が付いて、ティナは落ち込んだ。
 そして、自己嫌悪に陥るティナをさらに落ち込ませるのは、彼女が忙しい理由なのだろう。
「結婚、かあ」
 いつしか、ティナは実験の手を止め、魔術書をぼんやりと見つめていた。
 実験を進めなければ、そして、薬を完成させなければ。そう思うのに、気を抜くとすぐにヴィルの婚約者の事を考えてしまう。
 この半年ほどで、ヴィルとティナは一緒にいる時間が増えたけれど、どうしても都合が付かない日というのが週に何日かあった。何があるのか尋ねたけれど、答えてもらった事は無い。きっと、そういった日は、婚約者との時間を過ごしていたのだろう。
 そう考えると、胸に吸込む空気が重さを増すような気分だった。
(あーあ、憂鬱……)
 ティナは相変わらずこの感情に名前を付けられずにいた。それが彼女の心を曇らせている大きな要因だった。結婚に対する憧れなのかとか、先を越される寂しさなのかと言われると、ピンと来ないことは分かるのだけれど。
 あえて言うならば、やはり嫉妬なのかもしれない。自分より親しくしている、そしてこれから彼女の一番近くで過ごす人間に対する嫉妬。――それが一番当てはまりそうだった。
 もともとティナがここにいるのは半年という期限付きの仕事のため。任期が終わっても、仕事で世話になったのだから、今後も手紙のやり取りくらいは許されるだろう。だけど、会って話す事はもう難しいかもしれない。今ティナがいる場所は無くなってしまう。そして婚約者がそのままここに居座るのだ。いや、彼女がいる距離よりもさらに近くでヴィルを支えるのだ。考えれば考えるほどティナは、寂しくてたまらなかった。
 外を見ると、ティナの心のように曇り空だった。灰色の雲が空をどこまでも埋め尽くし、漂う。先日の晴れ空は一体どこへ行ってしまったのだろうか。陽光に輝いていた花の道も今は色褪せているのだろうか。
 珍しく感傷的になっていることに気が付いて、ティナは自分に驚く。
「手を動かさなきゃ」
 そう呟きながら、大好きなヒルデガルドの景色を思い浮かべる。久々の我が家をティナは楽しみにしていた。途絶えることの無いせせらぎの音。若草の香りのする甘い空気、太陽を反射する朝露。ティナの大好きなものたちを思い出そうとする。しかし、輝いていたはずの風景は、今日ヴィルと歩いた庭の景色に比べて色褪せてしまっていた。
 頭に浮かぶ風景はいつの間にか王宮の庭に咲く花々に代わり、鼻にはヴィルが摘んでくれたカモマイルの香りが蘇る。視線をあげると、そこにはヴィルの笑顔が太陽のように輝いているような気がした。
 鼻の奥がつんと痛んで、ティナは慌てて頭を振って目の奥に浮かんだ像を追い出す。取り寄せてもらったウミナナフシを一匹、すり鉢に入れる。食べ物だと言い聞かせつつ、すり棒でごりごりと潰す。すり鉢の中身はやはり虫だった。しかし、叫んでも誰も助けてくれない。一人での作業は辛かった。
『いちいち叫ぶな、海老だと思え』
『え、海老じゃないわよ、こんなの!』
 そんな風にヴィルとオオクゾクムシで練習していた事を思いだした瞬間、ティナの目から一粒の涙がすり鉢の中に落ちた。
 窓の外では小雨がひっそりと地面を濡らし始めていた。

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