狂化の赤鬼
……止めろ!
と、ハザマが心中で叫ぶ。
人馬が、突進してくる最中の姿勢で、いきなり静止した。
奇跡的に、倒れ込んだりはしなかった。
「……ふぅ」
楯を構えていたハザマは息を吐く。
バジルの能力に十全な信頼を置いているとはいえ、こんなデカい相手が正面から突っ込んでくる場に居合わせるのは、やはり心臓に悪い。
「後は……こいつを簀巻きにして、身動きを封じて……ってぇっ!」
異変を察知したハザマが、大声をあげた。
人馬の全身が、瘧がかかったかのように小刻みに震えているのだ。
……硬直化が、解けかかっている!?
ハザマは、慌てて楯を構えなおして退こうとする。
それとほぼ同時に……。
「……小賢しいわぁっ!」
大男がそう叫ぶ同時に、馬が、一気に距離を詰めた。
たかだか三十メートル前後の距離など、この大きな馬にかかれば瞬時に縮めることが可能だった。
……やべぇ……と、そう思ったときには、ハザマは楯で大鎚をまともに受け止め、体ごと背後に吹き飛ばされていた。
その直後に、ハザマの体は背後にあった小屋の壁に激突し、その壁もまるで紙でできているかのように粉々に砕け散る。
ハザマの体はそのまま空中を直進し、五メートルほど先にあった壁にぶち当たって、ようやく停止した。
大鎚を受けた衝撃だけで、肺の中の空気がすべて抜けた。
その後、二回、まともに壁に背中を打ちつけた衝撃で、気が遠くなる。
ハザマは、朦朧とした意識の中で、
……嘘だろ……。
と、呟く。
こうしてハザマは、はじめて、「バジルの能力が通用しない相手」に出会った。
『シャッキリせんかぁ!
このタワケがぁっ!』
エルシムの声が、脳裏に響く。
ハザマは慌てて跳ね起き……その直後に、それまでハザマがいた場所に巨大な蹄鉄が振り下ろされた。
……あっぶねぇー……。
あやうく踏みつぶされるところだったハザマは、意識を朦朧とさせたまま、冷や汗をかく。
とにかく、まず、この窮地をなんとか凌ぐのが先決だ。
「……避けたか」
詰まらなそうな大男の声が、頭上から降ってくる。
ハザマは、声の主を見上げた。
底光りでもしているかのような、真っ赤な双眸がまともにハザマの目を見据えていた。
「どんな呪いか魔法か知らないが……小細工は通用せんぞ」
その大男は、いった。
「おれは、ヴァンクレス!
狂化の力によって、いかなる呪詛も弾き返す者なり!
この力を使うと見境がなくなるから、味方がいる場所では使えぬのだがなっ!」
……バーサクモードで全補助魔法キャンセル、ってところか……。
ハザマは、この窮地にあっても意外に冷静にそんなことを考えていた。
……さて。
どうすっかなぁ……これ。
ハザマが思考する間にも、ヴァンクレスは大鎚を振りかざしてハザマに打ちつけようとする。
ハザマは、足が思うように動かなかったので、地面を転がってそれを避けた。
大鎚が、廃屋の壁を易々と粉砕する。
……バジルの能力は使えない。
援軍は……望み薄だなあ……。
こんな化け物相手に、どうやって……。
洞窟衆は歩兵しかいないのだ。
しかも、熟練の兵士はほぼファンタル一人といっていい。
ゆらり、ゆらりと、ヴァンクレスの大鎚を避けながら、ハザマはぼんやりと考えている。
……しかし、まあ……騎兵というのが、こんなにデカくて怖いものだとは……。
この馬だけでも、軽く一トンを超える。
……そんな巨大な物体が地響きを立てて走ってきたら、そりゃ、正面にいるやつは、普通に腰を抜かすよなあ……。
……テレビとかでみるよりも、ずっと大きく感じるもんなあ……。
ヴァンクレスは、廃屋を解体しながら、のらりくらりと逃げつづけるハザマを追いつづける。
相当な重量物である大鎚を振り回しているから、勢い、その動きも大振りなものとなる。
それと、ハザマとその人馬との距離は詰まっていることが、ハザマに幸いしていた。
馬上から攻撃するには、標的であるハザマの位置が低すぎるのだ。
こうまで密着していると、騎乗である利点もあまり活かせない。
そして、狂化の力により半ば理性を失っていることが、ヴァンクレスからまともな思考能力を奪っていた。
距離を開けて機動力を生かす攻撃に切り替えようとする判断力も、この時には失われていたのだ。
ヴァンクレスはただ執拗に、当面の敵と認識したハザマのみを追いつづける。
同じ頃、緑の街道をゆく馬車を止める者がいた。
ひゅん。
と、音をたてて、矢が、御者の頬を掠めて飛んでいく。
「……止めろ!」
どこからか、女の声が聞こえてきた。
「次は、当てるぞ!」
「止める止める!
止めるから撃たないでくれっ!」
御者席の男は、即座に手綱を放して両手を高く掲げた。
「後続の馬車も仲間か?」
「仲間か仲間じゃないかっていったら、そりゃ……」
また、矢が、御者の頬を掠める。
「……わかった、わかったっ!
全員、仲間ですよぉ!」
「では、全員、馬車を降りろ!」
「ちょ……追い剥ぎですかぁ?」
「追い剥ぎはうぬらであろう!
先の廃村はすでに解放したぞ!」
「……や……やぁ。
それをいわれると、弱いんですけどねえ……」
「抵抗しても構わないが……後悔することになるぞ。
われらは、すでにうぬらを取り囲んでいる」
「わかった、わかったっ!
聞こえたかっ!
全員、おとなしく馬車から降りろ!」
「降りたら、両手をあげて地面に伏せろ!」
「……このぉ!」
また、ヴァンクレスが振りかぶった大鎚が空を切った。
先ほどから、この敵は、瀕死に見えるほど弱り切っているのにも関わらず、ちょこまかと大鎚を避けつづけている。
ここまでしぶとい敵には、はじめて出会った。
たいがいの敵は、大鎚のひとふりで決着がつくのが。
たとえ楯で受けたにせよ、ヴァンクレスの大槌を受け止めて動いていられるのだから、この敵は十分に賞賛に値するといえる。
その楯は、一撃を受けただけで、壊れて砕け散ったようだが。
とはいえ……。
ここまで手がかかるとなると、流石に、目障りだ。
「……降りろよ……」
ヴァンクレスがそんなことを考えていると、掠れた声でその敵が、なにやら、呟く。
「降りて来いよぉ!」
……なにを考えているのだ、こいつは……。
と、ヴァンクレスは、鼻白んだ。
「命のやりとりをしているのだぞ、われらはっ!」
ヴァンクレスは、その敵の言葉を笑い飛ばす。
全身全霊をもつて潰し合うのが、楽しいのでないか。
その殺し合いの場で、騎乗という有利な立場をみずから捨てるわけがない。
「……そっか」
その敵、ハザマは呟いた。
「なら……こっちから、いく」
ハザマの体が、ふらりとヴァンクレスの方に近づく。
敵の方から近寄ってくることをまるで想定していなかったヴァンクレスの反応が、遅れた。
その隙を逃さず、馬のすぐ横まで移動したハザマは……その場で、垂直に飛び上がった。
「……なに!?」
助走なしに鞍の上に飛び乗ったハザマの動きは、完全にヴァンクレスの予想外のものだった。
ヴァンクレスは知らなかったが、大量の木登りワニを平らげたバジルに引きずられる形で、ハザマ自身も位階とやらの上昇を果たしている。
武芸やらなんやらの技術に関してはまるで素人のままだが、そのハザマも基本的な身体能力だけは、以前と比較するとかなり向上しているのだった。
鞍の上に乗ったハザマは、素早く手にした小刀でヴァンクレスの喉を掻き斬ろうとする。
その刃が届く直前に、ヴァンクレスは、大きく首を反らして背後にいるハザマに打ちつけた。
よろけたハザマは、鞍から再び地上へと落とされる。
……面白い……。
と、ヴァンクレスはそう思う。
……こんなしぶとい敵は、はじめてだ!
落下しながらハザマが太股に突き立てた小刀のことも、狂化の影響下にあるヴァンクレスは気にならなかった。
『……今だ!
撃て!』
ヴァンクレスには聞こえない、ハザマが心の中で発した号令が洞窟衆の仲間たちに響きわたる。
何十、何百という矢が、ただ一人、馬上のヴァンクレスへ向けて放たれる。
ヴァンクレスのプレートアーマーは、革鎧の上に板金を打ちつけたものだ。隙間は多い。
それに、この闇夜の中で飛来する矢を感知することなど……。
「……うぉぉぉぉぉぉっおぉっ!」
ヴァンクレスの反応は、ハザマの楽観的な予測を裏切った。
狂化によって五感が鋭敏になっていたヴァンクレスは、矢の風切音を敏感に察知し、両腕をかざして露出していた顔と喉を守る。
プレートアーマーの板金の部分に当たった矢は跳ね返されたが、革の部分には突き刺さっている。
それと、プレートアーマーや兜で覆われていない背中などには、無数の矢が突き刺さった。
今のヴァンクレスは、急所こそかろうじて守ることはできたものの、ハリネズミのような状態だった。
再度の斉射が、ヴァンクレスを襲う。
ヴァンクレスは、なす術もなく、防備を固めてなすがままにされている。
「貴様ぁ!」
ヴァンクレスは、叫んだ。
「なぜバンガスを、馬を狙わぬ!」
「馬が暴れると、おれが蹴られるじゃないかっ!」
本当は、事前にタマルから「馬や馬車は高価なんですから、くれぐれも無傷で確保してくださいね」としつこいくらいにお願いされたからなのだが……ハザマは、虚勢を張ってそう叫び返す。
「……おかしな男だ!
このヴァンクレスを追い詰めて、なお保身を考えるか!」
矢の雨の中で、ヴァンクレスは叫ぶ。
狂化の影響で痛覚は鈍化しているが、これだけの矢が体中につき刺されば、もちろん、無事では済まない。
事実、脇の下や腕の内側など、装甲の薄い部分に無数の矢がつき刺さっているおかげで、大鎚を持つ握力も保てなくなっていた。
「貴様!
名は、なんという!」
「はぁ?
あんた……まあ、いいか。
ハザマだ。
ハザマ、シゲル!」
「ハザマか!
この矢を止めよ!
お望み通り……馬を降りてやる!」
「へ?」
「一対一の勝負を所望するといっておるのだ!」
「……なにそれ、怖い」
「……なにを考えておるのだ、あのタワケは……」
森の中で成り行きを見守っていたエルシムは、憮然とした表情でぼやいた。
「あのまま矢で攻め続ければ、確実に仕留られたものを……」
結局、ハザマは矢の斉射を止めた。
『だって、矢がもったいないでしょう』
ハザマの声が、エルシムの脳裏に響く。
「あの化け物とまともにやり合うつもりか!
あれは、今のお前様よりも数段、高い位階を持っているぞ!」
『……あー。
高レベル者なのかあ……道理で』
「それで……勝算はあるのだろうな」
『いやあ……やってみないことには、どうにも……』
「……大丈夫か、本当に……」
ハザマの目前に、ハリネズミのような有様のヴァンクレスが立っている。
こうして地上に立っているところを見ると、実に大きい。
身長は二メートルオーバー。
厚みのある体。
鍛えられたプロレスラーか何かが、プレートアーマーと兜で武装しているようなものだ。
「その……矢、抜いた方がいいんじゃないか?」
とりあえずハザマは、そう声をかけてみた。
「今、この矢を抜けば……血を失いすぎて立てなくなるな」
ヴァンクレスの声は、意外に落ち着いていた。
「それより……礼をいう」
「礼?
なんの?」
「このバンガスが助かる道をつけてくれたことの、だ。
こいつはいい馬だ。
こんなところで道連れにするのも惜しかったのでな」
「馬って、あんた……」
なんだろう。
ハザマは、価値観の断絶を思い知らされた気分だ。
「……まあ、いいや。
それがお望みなら……一対一の勝負とやら、やってみましょうか」
ヴァンクレスは、よほど大鎚の威力に自身を持っていたのか、帯剣さえしていなかった。
そのため、素手でハザマと相対することになる。
ぶぉん、と、ヴァンクレスの太い腕が宙を切った。
意外に俊敏な動きだったが、今のハザマならなんとか避けられる。
やはりな、と、ハザマは思った。
この世界では……素手による格闘術は、あまり発達していないらしい。
ファンタルによる訓練も、基礎体力の向上と武器を持つことを前提としたものだけだった。
ヴァンクレスの攻撃も、打撃ではなく、ハザマの体を捕まえようとしたものだ。
おおよそ、洗練されていない動きだった。
「まず、武装しろ」
というのは、一般的にいえばとても実践的な方針なのだろうが……。
……知識だけなら、豊富なんだよね……。
ハザマには、前にいた世界で見聞した多くのプロスポーツの知識があった。
素人がいきなり真似しても役に立たないものがほとんどであったが……相手となるヴァンクレスは、ハザマ以上に素手の格闘に関する知識を持っていないのだ。
……それと、前よりはずっと向上した今のハザマの身体能力を併せて考えると……。
試してみる価値はある……と、ハザマはそう判断した。
腕を大きく振り回してハザマの体を捕まえようとするヴァンクレス。
その腕を掻いくぐり続けるハザマ。
「……ちょこまかとぉっ!」
ヴァンクレスは、次第に苛立ってきたようだ。
頃合いかな……と、ハザマは判断し、腕の下を抜けるついでに素早くヴァンクレスに移動する。
失血による疲労もあったのだろう。
この頃になると、ヴァンクレスの足許は、かなりおぼつかなくなっていた。
気力を振り絞って、なんとか動き続けているような状態だ。
そして、その弱ったヴァンクレスの背後に回ったハザマは……両腕をヴァンクレスの腰に回し、ヴァンクレスの腰のあたりでがっしりと手を組んだ。
これで……臍に力を込めて……だったかな。
うろ覚えのマンガの知識を素早く検索して、ハザマは、ヴァンクレスの巨体を持ち上げる。
「……お、お、お、お、お……」
ヴァンクレスが、感嘆の声をあげる。
装備も合わせて二百キロに迫る重量をこのような形で持ち上がられるのは、ヴァンクレスにしてもはじめてなの経験であろう。
ハザマはそのまま背を反らし続け……弓なりになって、ヴァンクレスの巨体を頭から地面にたたきつけた。
弱っていたところに、自重をモロに脳天に叩きつけられたヴァンクレスは、そのまま昏倒する。
決め技……ジャーマンスープレックス。