今度は一夜が頭を掻く番であった。源二のTシャツを引っ張ったまま、反対の手で頭を掻く。それでも彼のTシャツは離さない。離してしまったら彼が消えてしまいそうな気がしたから。砂のように手から零れないよう、祈るように。
己の問いに対し、予想以上の答えが返ってきたことに一夜は驚いていた。
心配していたことは見当違いではなかったものの、源二はとうにふっきれているようであった。男性だからか一夜とは違い物事を現実的に考え、振り返っても仕方のないことはもう考えないのだろう。
言われてみれば、確かに彼は昔からそういうところがあった。それに嘘もつかない。滅多に笑わない彼の笑顔は、この言葉が真実であることを示している。
「じゃあ源二は、それで、いいんだよね……?」
一夜はTシャツを更に引っ張ると、今度は近い距離で源二を見上げる。
「何度も聞くな」
彼はもう元の仏頂面に戻っていた。しかしそこで突っぱねることはなく、もう一度一夜を見るとこうも言った。
「不安なのは俺も同じだ。でもそればっか言ってたら、いつまでも進めねえだろ」
「……うん」
一夜は再び頷いた。きっと他の男では駄目だろう。彼女の場合、源二の一夜の速度に合わせた、彼にとっても等身大の答えが、心地好いと感じているのだ。
出会った八年前は想像もつかなかったが、源二とこうした関係を築け、彼が誰よりも自分を信頼してくれることが一夜には嬉しかった。
不安もある。だがそれを見せてくれる。それでも前に進もうとしている。やはり彼に話してよかったな、と彼女は思った。しかし、
「でも……」
まだ何かを言おうとする一夜に、源二は視線を送る。
それでも肉体的な不安は残る。だがこの男の子供を産みたければ、その順序で家庭を作るのが確かにベストなのだ。
「もう、その選択肢しかないんだけど、それって結局、私たちの都合じゃない。子供を犠牲にしてはいないよねえ」
源二はまた眼を瞬かせたが、今度は直ぐに彼の考えを口にした。
「その年齢で産んでる女だっていくらでもいるんだし、よかったかどうかなんて結果論でしかわかんねえだろ。でも現実問題、金の掛かることだから、年齢気にしないで責任持つならもう入学しちまった以上、普通に卒業した方がいいんだし。――お前が年行ってしんどくなるのは悪いと思う。でも絶対に大丈夫なんて保障は何歳で産んでもねえだろうし、このまま考えたとおりにやってくのが、一番俺たちが心配しているようにならないと思う」
子供に不自由をかけないように、自分たちのように泣かせないように。
親の愛情を欲していた二人が願うのは、ただそれだけなのだ。
「とりあえず、子供泣かせたくないなら、俺らが後悔しねえことだろ。こっちが自信もってないと、子供のほうが不安になるんじゃねえの?」
「――」
一夜はまじまじと源二を見た。一体誰が、彼をこんな風に育てたのだろうか。それとも彼の元々持っている魂の輝きだろうか。児童館に勤めて長い一夜でさえも、ここまでのことは言えないのに。
そろそろTシャツを握っていた手が汗ばんできたので、彼と心を通わせた安心感からそれを離すと一夜は感嘆のため息をついて言った。
「源二は、すごいねえ……」
その言葉に源二は表情を変えずにいたが、彼女に子供扱いされたくない彼としては、そう言われて少々嬉しいようであった。
一夜も茶化したような言い方をしたものの、己を包み込むような彼の答えに、半袖Tシャツから伸びる逞しい腕や締まった身体に、珍しく衝動的に縋りつきたい気分になっていた。
もうこういった関係なのだから遠慮せずにそうすればよいのだが、逆に生活共同体として毎日一緒に居るからこそ「恋人」時代と違い、そうしづらいと思っていた。日常の淡々とした生活の様子とのギャップが、妙に照れ臭いのだ。
――ちなみに、昨日は「して」いないが。
源二は一夜を見下ろした。その視線に思わず彼女は俯いた。
「どうする」
沈黙の後、髪を掬われてあからさまに尋ねられる。一夜は首を竦めた。確認されてする時と、何も言われず行動に出られる時があるが、今日は前者らしい。そして彼は一夜の長い髪が好きだと言ったことがある。だからこうして撫でるらしい。
「確か、今って『大丈夫』な時なんだよな」
俯いている一夜はぶつぶつと言う源二の表情は見えないが、彼の言葉の意味を悟り彼女は思わず眼を見開く。
「別に、将来そういうつもりなら――」
ついさっきまで格好いいこと言ってたのに、何言っちゃってんの!?と彼の言いたいことを更に察した一夜はこの男を張り倒したいような気分になった。それでも下手に動けば、手足をとられるような気がして動けない。さらりと彼の手から髪が落ちる。
「……って、冗談だけど」
その言葉にほーっと身体中の力が抜ける。
確かに子供ができては困る。しかし源二の言っていることは、恥ずかしながら一夜も気になることだった。
「大丈夫な日なら」……それは、避妊具を使わないということだろうか。確かにそんな風に結ばれたら、どんな気持ちになるのだろうか。どんな感覚が生まれるのだろうか。そんな好奇心を、この一夜でも持ってしまう。そんな誘惑には負けたくないと思うものの。
一夜の細い肩に手が掛かった。「きた!」と例のシグナルを感じ取った一夜は、慌てて口を開く。
「ごご、ごめん! 実は今夜――生理、きた」
実は密かに夕方頃から兆候を感じてはいたが、それが訪れたのはつい先ほど、風呂上りのこと。
「……あっそ」
それを聞きつっけんどんにそう言った源二だが、どこかがっかりしたような響きに聞こえるのは、一夜の気のせいではないかもしれない。なので思わず彼が可哀想になり、今夜の会話からなんとなく気分が高まった彼女は思わず口走る。
「じゃあ、て、手とか……?」
また彼女らしからぬことを言う一夜を、源二は驚いて見た。その表情に一夜の方が照れてしまう。
肉体的には抵抗があっても、精神的には珍しくそういう気分だからだ。しかし源二は彼女が自分に同情してそう言うだけだろうと思ったらしい。今度は彼が首を竦めて苦笑した。
「なんか昔、思い出すな」
一夜の顔が再び赤くなる。確かに昔は「それ」だけで終わっていたこともあった。
それは源二の年齢から繋がることを恐れ、それでも我慢できずに互いの身体や性器に触れていた、彼がまだ高校生の頃のこと。青臭く乳繰り合っていたことを罪悪感と共に思い出してしまい、一夜はまた恥ずかしくなる。
しかし相手を怒る気になれないのは、やはりわだかまっていたことが解けたからと、その頃のときめきを忘れないどころか今はその頃以上に互いを理解し、想っているからであった。
一夜はおずおずと源二を見上げた。
源二の顔は既に近くにあり、息が近づいてきた。
その顔が重なった。
――その後、二人がどうしたかは、二人のみぞ知る……。
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