「……お帰り」
とりあえず一夜はそう言ってやる。怒鳴ってやるのは彼が風呂から出てくるまで待つことにした。
ちなみにこの家では、後に風呂に入った方が風呂を洗い洗濯機のスイッチを入れることになっている。一夜よりも帰りが遅くとも、彼は疲れたとも言わず毎日黙々と風呂洗いをしてくれる。
そんな優しい源二を風呂上りに怒るのは悪いと少々ためらいつつも、やはり言わねば今後の為によくないと、一夜は居間に戻ってきた彼に声を掛けてみる。
「あ、あのさー」
ソファの上に顎を乗せて己に声をかけてきた一夜を、源二はむすりとした顔で見下ろした。
「えーと……」
今までにこういう例があったわけではないので、言いづらい。源二は一夜の話を聞いてやるべく、言いよどむ彼女の横に腰を下ろした。
「あ、あのね、」
一夜はそこで俯いた。冬以外はパジャマを着ない主義だ。就寝前なのでジャージの上にキャミソールを着て、カーディガンを羽織っている。その胸元をいじって言葉を詰まらせるが、やがてやはりこの若者に、はっきりと言ってやらねばならんと口を開いた。
「痕、が見えちゃって、た……」
しかし怒ってやるつもりが恥ずかしくて声が小さくなり、ただ恥じらっているだけのような勢いのないものとなってしまう。
「……」
源二の顔は見ていないが、眼を瞬かせているのか無言のままであった。一夜がまた何か続きを口にしようとすると、
「どこの?」
と彼は尋ねてきた。一応、自覚はあるらしい。
「……こ、ここ」
一夜は少し間を置いた後、キャミソールの上から胸元を指差した。
「見せて」
その言葉に情けないながらも、三十路を迎える女はどきりと胸を波打たせた。
肌を見せたことがないどころか昨晩見せたばかりである。しかも数年来そうしてきている。それでも改めて言われると妙に照れ臭いものだった。一夜は一瞬胸元の布地をきゅっとかき寄せた。
しかしことの原因はこの目の前の当人であるし、互いに照れる年齢でもない。そう思った一夜は照れている自分の方が情けない気がしてきて、唇をへの字に曲げるとキャミソールの襟を引っ張った。
そこを源二に覗き込まれる。洗いたての短い髪から石鹸の香りがし、湿った毛先のくすぐったい感触が、一夜の顎に僅かに伝わる。息遣いまで聞こえるようだ。
風呂上りなので、一夜は下着をつけていない。おそらくキャミソールの中では白い膨らみが、下手をすれば先端の影まで見えているだろう状況に、また気恥ずかしい感覚を生み出す。
そう思い一夜の身体の一部がずくんと疼いた時、キャミソールをつまんでいた手を源二の大きな手にとられた。反射的に彼女は身を引こうとしたが手を服ごと引っ張られ、今一度覗かれてしまった。
恥ずかしい!と咄嗟に思った一夜は源二の手を完全に払うと、
「もう、分かっただろ! こっちは仕事の時とかに見られると困るの! だからもう、こんなことないように――気をつけて!」
そう叫びながらキャミソールの上から身体を抱き締めて後退した……と言っても小さなソファでのことなのだが。
一瞬、どう言おうか迷った一夜だが、「もう絶対にしないで!」とは彼のプライドや気持ちを考えて言えなかった。そもそも源二は嫌いな女にわざわざこんなことをする男ではない。その逆だからしてくれたことくらいは分かる。それに一夜もその行為自体は嫌ではないので、こんなことで彼に嫌われたり溝を作ってしまう事も嫌だと思っていた。
しかし自身の性癖を咎められた源二は、ぶすりとした顔をしている。
「……悪かった」
その顔で不躾にぼそりと謝ってきた。
彼の機嫌が悪いのは叱られたからと言うよりは、若さゆえに興奮に任せ大切な彼女に恥をかかせてしまった、そんな己の幼さと思慮の浅はかさが許せなかったのだろうか。意外とプライドが高く負けず嫌いの源二なので、年下である劣等感からそんな己を恥じているところはありそうであった。
しかしいつまでも気にしてぐずぐずとする源二でもない。彼はそこで、ふと何かを思い出したように一夜を見た。
「つうか、なんでそんなとこ、見られてんだよ……」
今度は一夜が冷や汗をかく番だ。どうして、とは彼女が聞きたいくらいである。
今日のカットソーは実は昨年購入したもので、生地自体が古びて若干たるんでいたかもしれない。それにしても和田もそんなところに視線を走らせなくてもいいのに、とは確かに思った。
「し、知らないよ」
一夜は違う意味で不機嫌になりつつある源二から眼を逸らした。
「……」
妙な間が出来る。一夜はおずおずと源二を見上げた。
「気に、いらない……?」
まさか、こんなおばさんにな、と思いながら尋ねたのだが、彼はむすりとした視線を彼女に向けた。その視線に思わず胸が高鳴ってしまった一夜は、咄嗟にそれを否定するようなことを口走った。
「いいじゃん、もう気にする年齢でもないんだし……」
確かに自分でも若くもないくせにこんなことで照れているのが情けないと思うのであった。しかしこの、一夜が源二に対しての劣等感から呟いた言葉が彼には益々気に入らなかったらしい。源二は更に不機嫌そうな表情になると、彼女の細い身体をソファの上にあっさりと押し倒してきたのであった。
――え! え? えええー!?
「ちょ、ちょっと待って! 昨日も、したのにっ!?」
この体勢に彼が持ち込めば、何をしたいのか流石に分かる。と言っても回数は重ねているのだし、毎日するからと言って身体に支障があるわけではないが、こんななし崩し的なことでよいのかと一夜は焦ってしまう。
しかし彼女のキャミソールに再び手を掛けた源二は、その手に力を込めながらこんな言葉を投げつけてきた。
「気をつけろって……じゃあ、何処にするなら、いいわけ? 教えろよ」
「……」
睨みつけてくる視線の割にはやたらと甘いその台詞に、一夜は絶句した。
怒るつもりが、よく分からないが怒られている。そして源二はもう「臨戦態勢」に入っている。こうしていつも、朝には何の兆候も見せないのに、彼は突然スイッチが入ってしまうのだ。
そしてきっと、自分はまた流される。彼の視線と施される指から、逃れられない。一夜はそう予感する。だらしない、毎日こんな乱れたことをして――そう思うのに、やはり負けてしまう。この若い男の情熱に。
睡眠欲、食欲と共に沸き起こる三つ目の欲望を、未だ浅ましく日々満たそうとしている。満たさなくても構わないものなのに。
……くっそう……。
そんなさかりのついた動物のように感じられる自分への情けなさやら悔しさやらから、一夜は照れ隠しに八つ当たりの悪態をついた。
「こ……この、変態おやじ……」
二十歳の青年は朝から二度目のその暴言に、一瞬がっくりと脱力した――が結局その手の力は緩められることなく、昨夜以上に一夜の身体は甘く切ない攻めに翻弄されたという。
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