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第1章
その2 マーキング。(前編)
 仕事へ行けば、流石に朝から感じた妙な感情や夜中の甘い出来事も忘れられる忙しさが待っていた。
 そうは言っても一夜もこの職場は五年目になり、仕事の流れも体に染み付いている。そんな彼女もそろそろ来年あたり異動になるだろうと予想されるが、一夜がこの児童館を担当する部署に長くいる理由は、彼女よりも長くこの職場に居た一人の女性が先に育児休業で抜けてしまったからであった。
 よって今一番この職場での経験が長い一夜が、皆に色々なことを尋ねられる。
「鎌田さん、おととしの代表者会議の資料ってどこにあるか分かります? 京屋さん……じゃねえ、北條さんのファイルに入ってなかったんで」
 今質問してきたのは、その一夜よりも長く此処に居た女性と入れ替わりで配属された、和田という入社二年目の男性だ。背は源二と比べれば低いが、地毛だという茶色くさらさらの髪と人懐っこい笑顔で児童館に来る少女たちや母親たちの人気者となっている。
 元々頭の良い彼は既にこの部署に役立つ存在となっていたが、やはり過去のことは教えられなければ分からないのは当然だろう。
「ああ、それなら千菜の担当じゃなかったからね。あっちの書庫にあるかもしれない」
 和田の前任は、一夜のよき友人であり同期の京屋千菜という女性であった。彼女は職場結婚をして今は北條という姓になっている……その相手の男も、一夜には若干因縁があるのだがそれはさておき、
「北條さん、元気ですかねえ」
最初に覚えた結婚前の苗字をつい呼んでしまうという和田は、ゆっくりと千菜の新しい苗字を言い直した。
「今度の休みに会いに行くよ」
「そうですか。よろしく言っといてください。あ、ついでに県に送る書類どう誤魔化してたか聞いておいてほしいんですが」
「……分かった」
 一夜はその言葉に彼女らしい仕事ぶりを思い出して苦笑する。
 ちなみに千菜の結婚相手は、この部署の前室長の男であった。その室長も、昨年交代になっている。故に上司も新任であるため、益々一夜が頼られているのであった。その分彼女の仕事量は増えているが、そこは長年の経験で要領よくこなせる術を知っているので、残業が増えるというようなことはなかった。

 結婚後、すぐに妊娠し休業することになった千菜は、この状況を予測して一夜に何度も頭を下げてきたが、それは仕方のないことだろうと一夜も納得出来ている。職場の中には彼女達をよく言わない者も確かにいたが、職場恋愛そのものが禁止されているわけでもなく、逆に出会いもないので意外と多くの職員が職場内の人間とこれまでも結婚している。
 しかし今の一夜が千菜に理解を示せるのは、他の皆がしているからというわけでも、友人だから許せるという贔屓目でもなく、もっと単純な理由からであった。というのも、一夜自身が異性を好きになってしまえば止められない、男女のそれは仕方が無いということを体験してきたからこそ、そう思えるのであった。
 ――でなければ、高校生だった彼に手は出さなかっただろう……。
 友人のことを思い出していたはずが、妙な自己嫌悪に陥ってしまった一夜。既に過去のことであるが、児童館にボランティアとしてやってくる高校生などを見れば、自分は二年前、あの年齢の源二に、彼から誘ってきたとはいえ結ばれてしまったのかと、つい罪悪感を蘇らせてしまうこともしばしばある。
 こんなに苦しむほど真面目ぶるならば、彼を拒絶し続ければよかったのだが、一夜の心もまた止められずそれは出来なかった。彼が成人を迎えた今はもう、開き直るしかないのだが。
 一夜がそんな過去の己の行いにため息をつきながら和田にファイルの位置を示してやった時、ふと隣からの視線に気が付いた。彼女と十センチも変わらない視点から、和田が一夜の首元から胸元にかけてを何故かじいっと見ているのであった。
「……何……?」
「いえ、別に」
 彼は複雑な笑いをひとつ浮かべると、視線をファイルの方へと戻した。

「……?」
 ――まさか……!?
 嫌な予感が頭を過ぎり、一気に血の気が引いた一夜は、書庫に和田を残してさりげなくだがダッシュでトイレに駆け込み、洗面台の鏡の前で愕然とした。
 ……確かに、深めのボートネックの襟の間から胸元に掛けて……見えないこともなかった。

 鎖骨の下の、赤い痣が。昨夜の、情事の跡が。

 ……っ、クソ源二……!
 酷い言いようであるが、これは己の若い恋人の暴走によるものだ。社会人の一夜にこのように恥をかかせ、帰ったらあの若僧をどのように叱ってやろうかと、恥ずかしさから怒りを覚えた彼女だが、はっきりとこんな事実を言うのも気恥ずかしくどう言ってよいのかも分からない。
 源二は基本的にこういった「マナー」を守る男だと信じているが、昨夜に限ってどうしたのか。興奮からなのか悪戯心からそうしたのかは、分からない。それに確かに、そんなところは本来見えない筈の場所である。たまたま襟が緩み、比較的近い場所にいた和田に覗かれてしまっただけで……というよりも、和田も何故覗いたのかと言う話にもなり。
 ――やっぱり、男なんて嫌だ……。
 こんなおばさんほっといてくれよ……と朝は女性として年齢のことを気にしていた割に、今はそんな嘆きたい気持ちになりながら、一夜は手洗いから外に出た。
 ちなみに「次の日」はいつも用を足す時に局部に違和感を覚え、その異物感にもまた嫌悪を感じてしまう。個人差はあるだろうが、一夜には未だそんな感覚が残っている。仕事中であっても、その場所は生理的な現象を正直に起こしているという事実。

 理性と欲望。心と身体。
 真面目に勤務する一社会人としての自分と、一個の女――雌である自分。

 人として社会に生きるには、その本音と建前を常に両立させねばならない。それは毎日多くの人々が繰り返していることである。
 二年経った今、一夜もそれに大分慣れたものだが、その性分からかこんな風にしょっちゅう乙女のように、赤くなったり焦ってしまったりするのであった。

 ・・・・・・・・・・

 その日の夕方は残業も無かったため、一夜は定時で仕事を上がった。そして車で少々離れたデパートへと向かう。数日後の休みに千菜の家に持っていくための土産を買うためだった。
 子供が産まれてから初めて訪れるので、その贈り物を選んだ後、ついでに夕食の惣菜も買って帰る。
 今日、源二はアルバイトで夜遅いので夕食はそれぞれで取ることになっている。高校生までの時と違いもう成人となり、それこそ婚約者であるのだから、「夕食は必ず家で食べること」という約束事を強いる必要もなくなった。居候の彼は節約にもなるからと高校卒業まで律儀にそのルールを守り、一夜が遅くなる日は夕食を作ってくれたものだ。今でも休日はそのようにしてくれるが、基本的に夕食は一緒にならないことの方が多くなった。

 ちなみに彼は今でも金がないからと、誘われない限りは付き合いに参加せず、ひたすら学費を稼ぐためにアルバイトをしている。
 愛用の中古の原付はとうに寿命を迎え、持っていればもっと身入りのよい仕事が出来るからと、アルバイト先の紹介で中古車を買っていた。維持費以上に稼げるとのことなので、一夜は自分などよりもずっと先々のことを考えている源二の行動に何も文句は言わなかった。
 ――それだけしっかりした彼であるが、今日は一言言ってやらねばなるまい。
 金を掛けた分いつもよりも美味い夕食を口にしながら、一夜はそう決意して源二の帰りを待つ。
 夕食後、風呂に入って確認すると、やはり彼からの唇の痕はまだ残っていた。消えた箇所もあったが、和田に見られたらしい胸元のものはまだしっかりと残っている。これは一夜の経験からすれば、明日も残っているだろうと思われる。思えば、これをつけられた時は、確かに結構痛かったものだ。

 一体明日は何を着ていけばよいのか。ノースリーブならばハイネックでも季節的におかしくないだろうか。一夜は今度は別のことで頭を悩ませ始める。
 しかしそれでは既にこの醜態を知っている和田からすれば、あからさまではないだろうか。子供たちの前では襟首を出来るだけ引き上げ、申し訳ないが身体を高い位置に起こしておき、視界には入らないようにしていればどうにかなるが。
 そんなことを悶々と考える彼女が風呂から上がった頃、源二が家に帰ってきた。
 

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