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第3章
その28 家に帰るまでが旅行です。
 旅先という非日常は、人の判断能力を狂わせると言うが、自分も例に漏れていないな……と熱く沸騰していく頭の中で一夜は思う。
 やめて、と時に軽く抵抗しながらも――。まるで浴室の湯気が頭の中に入ってしまったように一夜の思考にもやが掛かっていき、目の前もかすんで行く。そのまま源二に腕を引かれて檜造りの浴槽へと誘われ汗を流せたのか、余計にかいたのか分からない身体を沈める。
 それでも飽き足らず、お湯の浮力を利用して身体を寄せたり離したりと言葉少なにじゃれ合う二人。本当にもう、いい年こいて何やっているんだろうと一夜は自分でも笑えてくるのだが、
 ――お湯の成分で、少しでも綺麗になれているかな。
 そうだといいな、と逆に年齢が行き過ぎているからこそ、若い彼に釣り合いたいと密かに少女のようなことを願ってしまう。
 そんなことを思う一夜が照れ隠しに相手にお湯をかければ、逆に源二から仏頂面でずいっと迫られてしまい、「もう、いいかげんにしろー!」と言いたくなるほどで。それでも楽しくないと言えば嘘になるのがやはり情けなくなる。そして額に額をぶつけられて、一言。
「嫌なのかよ」
「嫌……、じゃ、ない」
 恥ずかしいけれど、結局そう答えた。


「気持ち悪い……」
 そして三十分後。部屋の布団でぐったりと横たわる一夜の横に、どん、とコップに入った水が置かれた。
 一夜はうう、と苦しげな声を上げ、透明なコップの後ろで胡坐をかく源二の浴衣の脚にすがりつきながら身を起こすと、水をどうにか飲む。ロマンティックに口移し――などされても、今は一気に飲み干したいような気分であるし、これ以上の刺激は酸素不足になってしまいそうなので、流石に望まない。源二もそれを分かっているようで、一夜の身体を軽く支えて膝の上に上半身を凭れかけさせていた。
 予測出来ない結果ではなかったが、思った以上にぐったりとしてしまった。以前、シャワーで身体を洗ってもらっただけの時でも、疲れもあって最後はふわふわとしてしまったのに、今日は酔っていた上に湯船にまで長時間浸かっていたのだから、当然の結果であろう。
「情けないなー……」
 甘い夜だと言うならばいっそどこまでも甘く酔い痴れてしまえばいいのに、どこか決まらない。やはりこんな三十路など見限られやしないか、と一瞬不安になるものの、
「無理させて悪かったな」
先ほど膝枕をしてやった彼に今度は一夜が膝枕をする形となり、ぼそりとそう言われて髪を撫でられれば、ま、いっか、などとも思ってしまう。
 だから「あんなところ」まで「あんなもの」まで持ってきて「あんなこと」までして何やってるんだろうと、後から人には言えないような恥ずかしく愚かなことをしていたとしても、一夜も「ううん」と嬉しそうに笑って首を振ってしまうのであった。

 そして一泊二日の、旅の夜は更けていく――。

 ・・・・・・・・・・

 そして朝を迎えた。一夜が目覚めると爽やかな波の音が遠くに聞こえ、此処が旅先であることを寝ぼけた頭に思い出させる。
 しかし部屋の中は彼女一人で、隣の布団はもぬけの殻。日頃から朝に強い源二は既に床にはいないようだった。彼はこうして年寄りくさいところがあるので、寝汗もかいたからか、おそらく朝風呂にでも行ったのだろう。反対に昨夜遅くまで体力を消耗するようなことをしてしたうえに、年齢の問題だけでなく朝の弱い一夜は気力もなく、もう一度眠りにつこうとしていた。
 流石にあれからは肌を重ねることはなかった。浴衣姿で二つ並んだ布団の中で、眠った。正確には源二の膝の上で眠ってしまった一夜が、いつの間にか布団の中に入っていたようなのだが。
 ――幼い頃を思い出す。
 眠っているうちに布団へと運ばれている時の、無意識のうちの柔らかな幸福感を。
 そんな自分を守ってくれる大きな暖かな手が、今はここにある。
 安心した気持ちで眠りにつけるほど幸福なことはない。一夜がにんまりと微笑みながらもう一度目を閉じた時――、

「まだ寝てんのかよ。もうメシだぞ」

何故に、旅行先までも同じ光景が繰り返されるのだろうか。容赦なく掛け布団と敷布団を同時に引っ張り上げられ、一夜はごろんと畳の上に転がされた。
「……相っ変わらず強引だなー。いいかげん、もーちょっと優しく出来ないかなあ」
 一応目は覚めていたのでのそりと起き上がりながら、むくれて抗議する。一夜はそのまま胡坐をかき源二を見上げるが、彼は彼女の訴えを全く無視するとまたあっさりと一夜の前で浴衣を脱ぎ出し、今しがた汗を流してきた締まった裸体を着替えるために晒し出してきた。
 無頓着なだけなのだろうし、確かにもう何度も見ている身体なのだが、昨夜は昨夜でまた新たな「楽しみ方」をひとつ覚えてしまい、旅行先まで来て何を開発されているのかと複雑な気持ちになってしまう。
 一夜は若い男の身体から目を逸らした。浴衣一枚の彼女もまた、これから脱いで着替えなくてはいけないのだが、肝心なところを「寄せて上げている」ような姿は見せたくないため何処で着替えようかとそわそわと視線を泳がせた。
 誰よりも自然体でいられる相手だというのに、誰よりも嫌われたくないから格好をつけたいという気持ちになってしまうのが、何か矛盾しているなあと自分でも思いながら。

 そしてどうにか朝食時間に間に合い、家での朝食と同様、朝から二人で気持ちいいほど膳を平らげてきた。その後一夜が朝風呂を浴びた後は、することもないのでとりあえずチェックアウトをする。
 帰り際、旅館の入り口にあるしなびた土産物屋でも、漬物や怪しげな物産品などを真剣に眺めてしまう一夜。そんなものを誰に贈るのか、ぶつぶつと独り言を言いながら悩んでいる彼女に、
「ま、ごゆっくり」
既に慣れている源二はため息をついてそう言うと、二人分の荷物を持って玄関へと向かった。そうは言っても一夜も昨日から散財しているという自覚はある。それをきっかけに物産品は諦めて、「待ってよう」と源二の背中を追いかけた。
「ありがとうございました。またお待ちしております」
 二人を見送る何人かの従業員と一緒に、昨日から部屋などの世話をしてくれた一夜よりも十ばかり年上と見られる仲居の女性が、笑顔でふかぶかと紫色の着物姿の頭を下げた。
「あ、ありがとうございました!」
 既に頭を下げた源二に引き続き、一夜も長い髪を揺らして慌ててお辞儀をする。
 そんな彼女を見て、仲居の女性はもう一度微笑んだ。そして思わず、と言った風でこんな言葉を口にしたのだった。

「素敵な彼氏さんですね」

 ……それは源二に色目を使っているとかそういったものではなく、おそらく昨日からの二人の様子を見て言ったのだろうということは、彼女の笑顔から一夜にも伝わってきた。
 幸せが伝播したかのような、笑顔。源二くらいの年齢の子供でもいるのだろうか。彼女が二人の年齢差をどう見ているのか一夜には分からないが、何か温かなものを見つけたかのように穏やかに笑みを浮かべていた。
 それこそこの年齢差であるし、本来、客のプライバシーに触れるものでもないだろうが、思わず彼女は口についてしまったようだ。それくらい、印象的だったのだろうか。そしてそう言われた一夜も、恥ずかしいが嫌な気持ちはしなかった。

 ――それはやはり、彼のことが、自慢だったから。

 自分には足りないところばかりだが、源二のような男とあの日出会えたことは、本当に運が良かったと一夜は思う。
 他の女性に好かれれば心配にもなってしまうが、大切な相手が誰かに認められるのは純粋に嬉しい。それはその人を選び、その人に選ばれた自分も肯定出来るから、そんな自己満足のためだけかもしれないが。それでも。
 だから一夜は源二に聞こえていないことを横目で確認しながら、素直に笑顔で答えたのだった。
 「はい! ありがとうございます」と。


 帰りの予定は特に何も考えていなかったが、「もう一度海を見たい」という一夜の要望で再び海岸へと降りた。しかし今日の二人は、無言で海を見ていた。源二にとってはいつものことだが、一夜は疲れもあってか、黙ってぼーっと、潮風に髪を靡かせていた。
 そのまま海沿いにあった、適当な美術館のような建物に入りぶらぶらと歩くと、車に乗る。帰りは一夜もはしゃぐことなく、ぐったりと助手席のシートに凭れていた。
「年のせいかなー。つかれたー」
「……」
 はー、とため息をつく彼女に対し、源二は無言だった。ここで同意をすれば、自分から言った癖に隣から車の運転に支障があるほどの攻撃を受けることは必定であったし、彼にも昨夜彼女を疲れさせるようなことをした覚えがある以上、否定の言葉を言うわけにもいかなかった。
 一夜も答えを求めてはいなかったようで、シートに身をもたせかけたまま、無意識のうちに軽く右手を挙げていた。
 車のウィンドウ越しの夏の太陽にきらめく、銀の光。
 一夜の大切な銀の指輪は、海ではしゃいでも温泉の時に外しても、失くすことはなくしっかりとその指にあった。
 恥ずかしさや仕事の際に気になるということもあり、何より失くすことが怖くて今までもそれをしてこなかったのだ。――隣の年下の彼から初めて貰った、その贈り物を。だけど今日は少女趣味と言われようとも、彼と行く初めての旅行であったから。

 ほっとしたように一夜が手を軽く握り、膝に置いてそのまま眠ろうとした時、前を見て運転をしていた源二からぼそりと呟きが聞こえてきたのだった。
「して来たんだな、それ」
「――」
 途端に眠ろうとしていた一夜の目が見開かれ、見る間に顔が赤くなっていく――のは日焼けのせいだけではないだろう。
「い、いつから……」
 気付いていたのか、と彼女は一人で焦るが、特に隠していたわけでもなく、目ざとい源二が気付かないわけがない。一夜はそこでぐっと唇を噛むと、「知らない! ばかっ」と相手に失礼な一言を吐き捨て、そのまま無理やり目を閉じて横を向いた。
 源二は何も悪くないと一夜にも分かっている。だが、彼の顔が恥ずかしくて見られなかった。彼がまだ高校生の時にくれたようなものをずっと大事にしていて、今日のこの日を特別だと楽しみにしていたからこそ、これを嵌めてきた。
 そして源二もまたそんなことを言うということは、彼も日頃から一夜が指輪をすることを待っていたとでも言うのだろうか。
 そんなことを想像するだけで、車から飛び出したいほど恥ずかしい。こんな年齢なのにと思うが、逆にこんな年齢で十代のような恋愛ごっこをしていることが照れ臭いのだ。

 ちくしょー、ちくしょーと、一夜は心の中で誰に対してかそう叫ぶと、源二と顔を合わせないためにも無理やり居眠りを決め込むことにした。
 しかし実際、疲れた身体に車の振動は心地よく、いつの間にか本気で深い眠りに落ちていた。昨夜の膝枕や布団に運ばれた時と同様に、最も信頼出来る相手の隣で、安らかで幸せな眠りへと。

 それこそ、三十路のネムリヒメだったけれど。
 それでもやはり、幸せだったのだ。

 ・・・・・・・・・・

 充足感に溢れた夏の一日が終われば、社会人である一夜には巷がまだ夏休み中であろうとも再び仕事の日々が待っている。
 明けた月曜日、前の席の和田と会うのは非常に気まずかったが、源二があのように堂々としてくれたことに応えたいと、一夜も覚悟を決めた。
 落ち着かなさを必死に隠すと、先輩として余裕を持った態度で「おはよう」といつもどおり彼に声を掛ける。
「おはよう、ございます」
 和田もにっこりと笑い返してきた。あの日一緒にいた他の職員に会うこともあろうが、何を噂されてももう胸を張って堂々としていようと一夜は腹を決めた。
 過去の二人のことを知る者はいないのだ。確かに二人の関係を知られた時に、どうせ過去に淫行していただろうと蔑まれることはあっても、今は源二が成人して全ての行動の責任を取れる以上、あのバッティングの時のように、彼の傍に居られることを誇りに思うしかなかった。たとえ自分に自信がなかったとしても、彼のことだけは信じていようと。

 怯えつつもそう覚悟を決めた一夜と目を合わせた和田は、彼女のそんな気持ちを察しよく汲み取ったか一夜の横を通り様、肩を竦めて笑うとこう言ったのだった。
「マジで、今度彼氏さん交えて飲みに行きましょーよ。なんかすげえ、面白そうだから」
 先輩に対して失礼だとはあの場を和ませてもらった以上、文句は言わないが、和田のそんな発言に一夜は目を見開き、改めて彼を見上げた。
 和田は後輩なので、もちろんこんなプライベートな誘いは断ることが出来る。しかし「面白い」というのは、あの無口で年齢の割に落ち着きすぎている源二のことか、それとも一夜自身の変化か――人に言いふらしたりするどころか、そんなことを言い出した和田の真意が彼女には相変わらず掴めず、首を捻るのであった。

 まるで焼き過ぎた肌の染みのような、そんな跡をひとつ残して、暑い夏は終わっていく――。
 

◇拍手&簡易メッセ◇

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