その19 青年よ、嫉妬を抱く?
さほど大きくはない規模の財団法人の運営。市の委託を受けて設立したもので、一夜の話や勤務条件を見ても給料はさほどよくはないが、準公務員のような扱いと公立に近い施設である。
だからこそ一夜のような年若い女性でも職が保障され福利厚生や諸手当もよく、源二をどうにか養えたのだろうと、彼も前から思っていた。
今年度も、来年度も大学卒業程度の条件で若干名の職員募集をしている。
今の時代、この施設にも就職希望者が殺到するだろう。一夜自身もこうした職場に滑り込めたのは幸運だったと苦笑していた。
源二の親しい先輩にはまだ内定取り消しや就職後、急に切り捨てられるなどの目に遭った学生はいないが、職が決まっても安定の保障はされていない。それは己の努力次第な部分あるが、いくら頑張っても報われず現代社会のうねりに飲み込まれることもある。
――どういう企業を、どういった観点で選べばよいのか……。
源二はその一夜の勤める施設――彼の通っていた高校の隣にあった懐かしい建物の概要を眺めながら、頬杖をついた。
入社した企業がどういうことになるかわからないならば、いっそ彼のアルバイト先の先輩である奥原などが薦めるように今働いている店の正社員になるという手もあり、そうしている仲間もいる。しかしそれは日雇いの体系と変わらない。
確かに企業に雇われるよりは、こちらは人情で繋がっている関係なので、突然仕事を辞めさせられるということは少なく、強い連帯意識もある。だからこの不況でも、全員で一丸となって力を合わせどうにか日々の収入をかき集めているというわけだ。
奥原などはそういった働き場所をいくつも掛け持ちしている。決まった女もいるにはいるらしいが、その荒稼ぎの方法で年を取ってからどうするのか。それは彼の人生であるので源二も尋ねはしないし、関与する気もない。問題は、自分と一夜のことである。
『水倉は頭がいーからなあ。目指せるんなら、上いけよ』
これは源二のアルバイト先の仲間――いわばごろつきたちが、「元締」と慕う初老の男性からの言葉だった。源二も高校時代からその男・西脇には世話になっており、息子のように叱られたこともあり、彼から学んだことは大きい。
選択肢を広げられる道を選ぶようにと、これは教師からも言われてきたことだ。きっと西脇の言いたいことも同じことだろう。大企業を目指し自身に投資してもらってそこでしか得られないスキルを身につけることも、その先に何があってもいいよう、未来への可能性をひとつ手に入れることになる。
一夜や家族を守るために、たくさんの選択出来る手段を持っていられるよう、高みを目指す。それがきっと一番後悔しない近道だろう。
若いんだから私なんかやめておいたらと彼女も彼を求めているくせにそんなことを言うのだが、もう約束は交わしたのだ。彼女とこれから家庭を築いて生きていく、家族の傍に居る。それが決定事項ならば、それを守る方向をそれなりに考えたい。そして女性だからと言って、一生懸命頑張ってきた仕事を簡単に辞めさせたくはない。
今の年齢でそう思うのはおかしいと、誰かに言われても構わない。頑固な彼はそう思っている。
――後悔はしない。きっと自分はあの春の日から、家族に死なれ孤独になった日から、そんな儚く甘ったれた夢を見ているのだ。それを、ただ叶えたいだけなのだ。そんな恥ずかしいこと、誰にも言えないが。
それはさておき、その時源二の中にふとした仮定が過ぎった。
いっそこの施設に就職したらどうなるのか、と。
無表情の彼だが、心の中で思わず苦笑する。
何処の誰が結婚を決めている女と同じ職場で働くものか。彼女の立場を悪くするかもしれないのに。第一、あの職場に勤めれば、仕方ないにしろ、昔彼女に言い寄っていた男に使われるかもしれないのだ。そうなればそれなりに上手く働くが、やはり御免被りたい。
――そうは言っても、確かにかなり条件のよい職場ではある。画面を見ては青年はひとり頷く。
源二とて彼個人の夢や希望がないこともない。あえて言うなら、今学んでいることで興味のあることを仕事にしたい。前述のとおり給料や手当、保障に変動が少ないことが何よりよい職場だが、仕事も多岐に及んでいるので、一夜のように児童関連の仕事に回されることもあるだろうが、源二の得意とするような施設管理や経理の仕事などもある。
逆に市の委託を受けているので営業などの業務はほとんどないようだ。やれと言われればどんな仕事でもするつもりではいるが、源二にとっては苦手といえば苦手な分野。また市内にずっと勤めることができれば、一夜や未来の家族と離れ離れになることもない。
どうしたもんかな、と彼は頭を掻く。
とりあえず彼女が働き続けられることを前提に、県内で仕事を探すとなれば意外と会社も選べないかもしれない。もしくは近県で仕事を探し、やはり一夜を離職させてしまうか、それとも……。
そこで彼は、更にぼんやりとあの施設に思いを馳せる。
あの施設には稀に配送のアルバイトが入ることがある。先日、再びその施設へ荷物を届ける仕事があり、家の近くで地理をよく知っているからと言い、源二はあえてその業務を請けたのであった。
意識はしていないつもりだが、どこかでしっかり意識しているのだろう。毎日顔を突き合わせている女であるのに。――それは強い独占欲かもしれなかった。どんな顔で仕事をしているのかとか、少しばかり気になっていた。
通っていた高校の隣に建つ施設。源二がそこへ久しぶりに向かったのは、約一週間前のことだった。今回は一夜の担当している部署に荷物を運ぶわけではない。彼女が勤めるのとはまた別の事務所へと頼まれた物を運んだ後に、わざと児童館の窓口の前を通ってみた。照れ臭いのもあり、一夜にはあえてこの場所へ来ることを言っていない。
源二がちらりと中を見ると、受付の窓ガラスの向こうで彼女は真面目に働いていた。
何か用があったのか呼び止められ、今の同僚らしい若い男の前で笑っている。彼も彼女に親しげに話しかけている。
一夜がぐうたらなふりをしていても責任感や正義感は中々強く、仕事にそれなりに取り組む女であることを源二は知っている。だから警戒心も同様に強くとも、同僚とある程度本音を言い合い信頼し合わねば仕事にならない。それは源二もアルバイトで経験している。だから協力し合い、修羅場を共に乗り越えるうちに親しくもなるだろうことも分かる。
それに彼女は綺麗と呼ばれる部類に入る女だ。男なら一緒に働いていて悪い気はしないだろう。一夜と話す男の表情を見て源二はそう思った。
そこで彼は自分の胸の内がもやもやとしていることに気付く。
一夜は源二の前でだけはへらりと力なく笑ったり、拗ねたり照れたりなど、色々な表情をする。もちろん楽しそうな表情もしてくれる……はずだ。
しかし今、その青年の前で見せているような、明るい笑顔はあまり見たことがない――?
源二はふとそんな気がしてしまった。
それは仕事の時にだけ見せるのだろう、愛想笑いと充足感が足し合わさった笑顔。誰でも当然持ちうる、「外」に見せる笑顔なのだが――、何故か気分が悪くなり、結局彼女に気付かれる前に彼はその施設を後にした。
その日、施設に配達に行ったことを、源二は一夜に言わなかった。
彼が出会う前から彼女はあの施設で働いており、図書館などに行った折には今までもああした「働く」顔を見てきた。――ずっと、彼女を見てきた。
その頃はまだ子供で、大人とはそういうものだと何も思わなかったが、ここにきてふと、そんな彼女の知らない表情に何か砂を噛むような思いを味わったのであった。
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