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第1章
その1 未だに恋をしています。
「……はよー……」
「――ん、」
 引き続き、朝の光景。着替え終わった一夜はリビングでがさりと新聞を開く源二に声を掛けた。振り向かれないが声だけは返ってくる。

 何年も一緒に暮らしていればわざわざ朝の挨拶をし合う必要もないかもしれないが、この辺りは普通のカップルとも少々違い、彼女が彼の保護者であった頃の名残だろう。
 引き取った当時、源二は小学生であったので、不良行動に走らないかと彼の心の闇を心配し、こんな一夜でも声だけは細やかにかけ続けたのであった。
 彼女は嘘のつけない性格だった。引き取ったものの、子供の彼に対し何をしてやればよいかも分からない。だからただ「対等」に源二と暮らそうとしていた。自然体でいることが互いにとって一番よいと思っていたし、演技をしていても何もよいことなどないだろう、と。
 心を閉ざしていた少年にもその考えは伝わり、また居心地も悪くなかったらしい。
 それに源二が器用で、一夜が少々不器用であることも幸いした。女手ひとつで金もない、腹が減れば死んでしまう、自分が居候だと思っているということから、いつの間にか源二がてきぱきと家事をこなすようになったのだ。
 いつしかだらしない一夜としっかり者の彼の立場は逆転し、それでも彼女に養われているという負い目も残り、二人の関係はこの状態で均衡を取り始めた。しかし結果としてそれは少年の居場所をこの家に作ることとなり、二人が良好な関係で生活し、彼もまっとうに成長できたといえる。

 だからと言って、一夜も源二を虐待のようにこき使っていたわけでもない。「ありがとう」の言葉やそれこそ今のような朝の挨拶ひとつとっても、これは彼女の育ってきた環境によるものだが、彼の存在を対等に扱い尊重してきた。それは姉弟とも親子ともまた違う関係だった。
 このような関係に発展した今、源二に尋ねてみれば、彼はおそらく最初から――、一夜に好意を抱いていたのだと言う。
 それには驚かされたものの、最初から男と女の関係であったと言われれば、妙に納得できるところもある。一夜もひとりきりになることを怖れて、年下の子供の彼に心の中では依存していたのだから。
 唯一自分の孤独を分かってくれる相手だと妄信していた。ずっと傍に居て欲しいと思っていた。
 その念願は、今、叶っている。

 昔から続いていた、空気を吸うように当たり前の関係。一夜はいつもどおり、源二の作った朝食をもぐもぐと頬張る。
 朝食をしっかり食べないと体が動かないと言う、早起きも得意で健康的な――少しばかり、じじむさいのではないかと思われる源二は、魚だの卵だの朝から品数を用意してくれる。
 ――本当に、嫁にするなら最高のやつだよな……。
 無愛想な青年を照れ隠しに「嫁」とたとえたものの、結婚相手として実に申し分ない。自分のようなどうしようもない女よりも、ずっと気は利くし手際もよい。一夜はふっくらとした卵焼きを箸で摘みながら、そう思う。
 こんな風に男女の関係になる前――成長した彼への想いに気付く前は傍若無人としていた一夜だが、一人の女として彼に陥落してからは本当にこんな自分でよいのかと、少しばかり彼への劣等感も抱くようになっていた。
 元々一夜は恋愛を苦手とし、そういったことに心を砕かないようにしてきた。父親と母親が離婚したからという理由は大きい。しかし一人きりは寂しく、本来彼女には感情豊かな一面があったのだろうか。あれだけ奥手であったにも関わらず源二を奪われることを恐れ、自身の気持ちを急激に花開いていった。

 それはセックスにおいても同じであった。未経験であった割には彼を受け入れようと決めてからは、驚くほどそれにのめり込んだ。恥ずかしさや抵抗はあった。しかしこんな甘く痺れる感覚が世の中にあるのかと思い、その本能を拒絶しなかった自分には彼女も驚きを覚えた。
 しかし身構えていた彼女をこれだけ上手く誘導できたのは、自然の流れだけでなく、源二が一夜がそうしたことが苦手だと知っており、彼女を徹底的に大切にしたからであろう。
 寧ろ彼には年下と言う負い目があったため、彼女に頼りないと嫌われることを恐れ、慎重に爆発しそうな衝動を血の滲むような努力で堪え、砦を崩してきた。その賜物だろう。
 そうした関係になってから二年経った今なら一夜にもそれが分かり、やはり彼への感謝しか思いつかない。

 それはさておき、結局セックスをしてしまうのは、干物と言われる一夜でも一応は持っている三大欲求からもあるが、やはり女性よりも強い青年の欲求を満たしてやりたいという気持ちの方が大きかった。
 そうして彼を繋ぎとめようとしているのかもしれなかった。十も年上である不安は、彼女もまた、きっと一生続く。恋愛感情を持てば、こうして失うことが恐くなるのだ。父親や母親のように、子供を産んだ後にすれ違うこともある。それでも彼女は彼を選んだ。
 しかし既に夫婦になっている家族の話を聞けば、こんな切ない感情もいつかは消えていくものらしい。だが一夜たちの場合は、先に「家族」であったものが後から「恋人」になってしまったため、今の関係が未だに新鮮に感じているようだった。
 逆に既に家族であったからこそ、一緒に暮らす相手と生活習慣が合わず衝突することも経験済みだ。しかもその問題は、恋人になる前に解決している。普通に恋をして同棲や結婚をする恋人達とは順番が逆なのだ。

 それでも今までの関係と明らかに違う点は――。
 一夜は食後のお茶を飲み込む。彼女の視線に気付いたのか、源二がふと新聞を閉じながら一夜を振り向いた。
 昨夜の情交から、ここにきて改めて静かに視線が重なった。

 あの唇が、昨夜自分に触れていた。
 熱い手のひらを、思い出す。

 昔も今も、「家族」であることには変わりない。
 ただひとつ違うのは、性的な関係を結ぶか、結ばないか。端的に言えばそれだけのことである。
 勿論、それにより精神的な意味も変わってくるが、六年間の生活を経て婚約を期にしてから物理的に変化したことと言えば他に何もなかった。
「ごちそーさま……」
 一夜は手を合わせてそう言うと、茶碗を持って流し台へと向かった。また「ん、」と頷いた源二も空になったコーヒーカップを持って流し台へとやってきた。狭い場所なので、大人二人の腕と身体がぶつかり合う。
 一夜が食器を洗おうとすると、不意に大きな手にスポンジを取られた。彼女が横を見上げると、
「やってるとまた遅刻するぞ」
と言われ、洗おうとした茶碗が見る間に水に濡れていった。
 ――ああ。もう。
 一夜は頭を掻きむしりたい気持ちになった。
 短い髪の襟足から、首筋が伸びて広い肩幅に続く。それを隣からただ見上げるばかり。
 昨日この裸に抱き締められて、貫かれた。それが今朝はこんなにもつっけんどんで、あの興奮が信じられないくらい冷静で飄々としている。そして驚くほど、一夜に優しい。

 ――もしかしたら、慣れていないのは源二も同じなのだろうか。
 一夜はぼうっと佇んでいた。
 こうした関係になって二年経つのだから、普通はもう優しくなくなるのではないか。これはただ彼の角がとれただけなのか、逆に未だ一夜を失うことを怖れているのか――妙にあたたかい態度がやはりむず痒い。それでも一度このぬくもりを覚えると心地良く、冷たくされればきっと不安でたまらなくなってしまうだろう。
 言いようのない恥ずかしさと悔しさと不安に覆われた一夜は、この胡散臭いほどいいヤツ、な青年の脛を思わず蹴った。
「んだよ」
 茶碗を洗ってやったうえに蹴られれば彼も割に合わないと思うらしい。不機嫌そうに皺を寄せて睨まれた。
 週に数回抱かれているうちに、嫌でも気付く。二年前と源二の身体も変化している。元々成長は早いようでその頃から大人と変わらない体つきではあったが、内面から滲み出るものか、身体そのものの変化か、おそらく両方の理由で、彼の身体は確実に男らしく頼りがいのあるものに成長している。
 精神的なものも相まって、胸も背中も広く感じられ、太ってもいないのに重量感――言い換えれば貫禄が備わってきた。きっと社会に出ればこれがもっと、大きくなっていくのだろう。

 彼に包まれている、という安心感。
 それが今の彼女を、未だに甘く疼かせる感情の源。

 洗面所へと移動した一夜は軽くため息をつく。
 早く化粧をして、「外」用の自分に切り替えなくてはいけない。女として生まれた以上、身だしなみには最低限気を遣い、社会を渡り歩いていかなくてはいけない。まだ学生である彼との生活を守るために。昨夜の甘い出来事に浸ってばかりもいられないのだ。一夜はぱちんと頬を叩くと、気合を入れ直した。
 ――なんで交わった後の朝は、いつもこんな面倒臭い気持ちになってしまうんだろう。
 いつ、この「恋」は終わるんだろう。いつ、普通のカップルや夫婦みたいに慣れてくるんだろう……。
 一夜は気合を入れたものの、もう一度ため息をつく。
 言い換えれば、彼女は未だ成長を続ける彼に、ことあるごとに「惚れ直して」いるのであった。何度でもこの気持ちに気付いてしまう。それは狂おしく、情けなく、恥ずかしく、切ないもの。
 ――もう二年も経つのに。もう、三十路だというのに。
 それもまた情けないと嘆く一因。ただ若い男に溺れているだけのようで。
 洗面所を出れば源二はまだ家に居たが、一夜はもう顔も見ずに出勤することにした。
「おい、忘れてる」
 しかし玄関先で呼び止められ、ずいっと忘れ物の弁当箱を差し出される。
「――っ! お、おやじくさっ!」
 よく出来た男であるにも関わらず、余りに優しくされれば気恥ずかしくなり、意味不明の言葉を投げつける。それはやはり父親の居なかった一夜だからこそ父性的な優しさに余計に惹かれてしまうのか、彼女にもよく分からない。
「あぁ!?」
 一夜の複雑な乙女心も知らず、親父呼ばわりされれば二十歳の青年も眉のひとつも吊り上げて、柄悪く聞き返す。
 こんな風に小競り合いばかりする二人であるのに、どうして夜になればあの甘い時間が自然と始まるのか。それもまた一夜には男と女の営みが不思議で異様なものに感じられる所以である。

 ――シグナルなど、見えやしない。彼の若さに任せて二晩連続のことになるのか、数日お預けになるのか、今の朝の状況では分からない。分からないのに、夜、彼は変化する。
 目には見えないものなのに、確実に二人を繋ぐ、逃れられない何かが間に横たわっている。
 夜の絡みつくような閨の空気も異常であるが、それを嘘のようにかき消すこの朝の爽やかな空気もおかしなものに思い、一夜は身をぶるりと震わせながら、やっぱり変なことを考えないよう仕事に行った方がいいや、と慌てて家を飛び出した。
 

◇拍手&簡易メッセ◇

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