その18 青年よ、大志を抱け?
あの熱い夜から二週間。緊張して生理予定日を待っていた一夜であったが、意外にあっさりと数日遅れでそれは訪れた。
トイレで赤い染みを見て、ほーっと深いため息をつく。こんなことならば性欲に負けるべきではなかったと改めて思う。命を軽んじているわけでは決してない。寧ろその逆であるが、だったら尚更軽率な行動をしてはならなかった。
もうするつもりはないが――それなのに、いつかはまたこんな風に何も間に隔てない状態で繋がりたいとも思ってしまうし、この前は彼の「全て」を受け入れることはできなかったが、そんなことも本当は、興味がある。そんなことを思った一夜は、家の個室でひとり赤くなった。
さりとてこのことを源二に教えてやるべきか。身体を求められた時は生理の有無は彼に教えるが、そうでない限りそんなことをわざわざ話すのもおかしい。しかし、真面目な彼もどうなったかと心配しているだろうか……。
丁度、就寝前にそれは訪れた。一夜がトイレから出てくると、源二はクーラーのきいた居間でまだ新聞を読んでいる。中年くさいようにも見えるが、就職を控えた学生としては必要なことだろうと彼女は思う。小さなテーブルの上に置かれた広告を目の端にとらえながら、一夜はその横に座った。
「あのね……」
やはり、言うのは恥ずかしい。一夜は広告の束を見るともなしに漁り始めた。
「何?」
源二はちらりと一夜を見た。彼女はそのまま彼の顔を見ずに、広告を見ている。
「んー……」
彼女は曖昧に返事をしたが、やがて広告を見ながら、ふと思いついたように口を開いた。
「なんか、どっか行きたいなあ」
話を逸らしたいような気持ちもあったが、出不精な方だが夏という解放感からどこかへ出かけたいような気もしたのであった。彼女が見ている広告は旅行会社のものだった。
「海行ってー、美味しいもの食べてー」
言っているうちに、話を変えるつもりが彼女は楽しくなってきた。それも面白いかもしれないと思い始める。
「誰と?」
しかし源二の問いに、一夜は彼を見た。彼は新聞から顔を上げて、ぶすりと一夜を見ている。
――確かに、職場の仲間に誘われないこともない。彼らと話をまとめたっていい。しかし……。
「誰とって……」
行きたい相手は一人なのに、どうしてそんなことを聞くのだろうか。自分とは行きたくないのだろうかと一夜は不安に思ってしまう。
現に婚約した後もまだ二人で旅行に行ったことがないのだ。無事に生理がきたという安心感からか淡白な一夜だが、急にそんなことを思いついた。
しかし彼女は源二の冷たい反応に頬を膨らませて俯き、「嫌なら、いいよ」と小さな声で言う。いつも同じことを言ってるな、と思いながら。
「行かねえとは言ってねえだろ」
だが新聞を畳む音と共に、ため息混じりにそんな声が聞こえてきたので彼女は再び顔を上げた。
「お前のことだ、俺とじゃない奴らと酒飲んで羽目外したいって意味で思ってるかと思った」
源二は苦笑した。おそらくへべれけになるまで飲み会に参加していた自分を揶揄してのことだろう。なんだよ、それは! と一夜は源二の胡坐をかいている足を拳で叩いた。
「源二はバイトとか、忙しくないの?」
彼の夏休みは、住み込みのアルバイトが毎年入っている。結局いつもそれが気になり誘ってこなかったところもある。しかし即答が返ってきた。
「先のことなら、なんとでもなる。また予定見とくし」
「……」
一夜は再び源二をまじまじと見た。
――なんか少し、雰囲気が変わったな、と思った。どこがどう、とは言えず何がきっかけだとも言い切れないが、何処となく源二の雰囲気が柔らかくなったような気がしたのだった。
その優しさが、くすぐったい。
「行きてえとこ、考えとけよ」
源二はそう言うと立ち上がった。眠るのだろうか。一夜はその背の高い姿をぼんやりと見送ったが、彼は立ち上がった後にもう一度彼女を振り向いた。
「来たの?」
「へ?」
「……生理」
まっすぐに彼女を見て、唐突に直接的な言葉をぶつける彼に、一夜の方がまたしても恥ずかしくなってしまう。
変わった、と言っても……確かに彼は昔から愚直とも言えるほど正直者であったが、こうもはっきりとものを言うようにならなくても。だが自分からは切り出せなかったことであるし、彼が自分を心配してくれたことは嬉しい。そう想った一夜は無言で何度も頷いた。
「ふーん」と彼は素っ気無く頷く。その返事の裏で何を考えているのかは分からない。しかし最後にこう言った。
「来てないって、話かと思った」
また、少しばかり苦笑して。一夜はその大人びた表情にどきりとしたが、きっと彼ならば万が一そうであったとしても受け入れてくれるのではないだろうか、という信頼感を今なら持っていた。
そしてまたその笑顔に毒気を抜かれて、「おやすみ」という彼の広い背中をただぽうっと見送ったのであった。
・・・・・・・・・・
さて次の日、源二は大学の図書館でインターネットを閲覧していた。
家にデスクトップのパソコンもあり、授業用にも一台、小型のノートパソコンを持っていたが、今日はそれを持っておらず中途半端に時間が空いてしまったため、テスト期間中というのもあり彼は図書館へと向かったのだった。
彼が見ていたのはいくつかの企業のホームページ。いよいよ就職のことも考え始めねばならない時期にある。高校生の時からアルバイトをしており、仕事仲間の知り合いが多い源二は、配送業から接客業から水商売まで正社員にならないか、紹介してやるなどと皆に冗談交じりに言われている。
それには彼を気に入った男たちの本気も交じっているらしく、自分を信用してもらえていることは、彼もありがたいと思っている。しかし反面、彼らから多くのことを学び尊敬もしているが、色々将来のことを考えると大きな企業で働いてみたいという夢も抱いてしまう。
源二がそう思うのは一緒に生きていくあの女に苦労をかけたくない、彼女よりも経済的にも社会的にも優位に立って守りたいという意地が第一にあった。また幼い頃から彼自身が家庭のことで苦労したり、一夜にずっと面倒を看させてしまった負い目もあった。
そう思えば金銭面の問題からも、やはり先日のように避妊をおろそかにするような行動は慎まねばならないと改めて思った。――たとえそれが、やけに甘美な思い出だったとしても。
それはさておき、と源二は煩悩を振り払うように首をぼきりと鳴らし、現実に戻る。
彼女があの市内の施設に勤める以上、源二の就職する場所の条件も制限される。長年よい条件のところに勤めており、給料も上がっているのだろう。彼女に仕事を続けさせてやりたいものだ。
しかし彼がそう思うことで、一夜も結婚はしたいが彼の未来に制限を設けてしまうのが心苦しいと心配していた。だが源二としては彼女と共に生きることは絶対条件であるため、苦しいだとか足枷であるだとかは、全く思わないのであった。だから何を彼女がこだわっているのかすら、彼には理解出来なかった。
それに就職の条件は結婚だけでない。実家を継ぐことや家族の借金や病気のこと等で就職先を悩んでいる同級生や先輩も、源二は見てきている。そんなことを言い出したら、きりがないのだ。
源二は一夜の言うそういった「制約」まで含めて、彼女を選んだ。そう決めた以上、あとはその範囲で自分のやりたい希望を叶える。それだけのことだと彼は思っている。
それは親がいなかったという事実と少し似ている。現状をしのごの言ってももう仕方がない。そこで自分がどうするか、どう出来るか、それだけである。
―― 一夜が気にすることではないのに。
彼女の気遣いは分かるがもっと信用してくれないかとも、彼は少し思う。年の差が不安なだけで源二自身のことは信じていると彼女は言うが、それこそどうにも出来ない部分を気にされても困ってしまう。
そんなどうにも出来ないことは忘れ、「俺」だけを信じろ――そう言ってやればいいのだが、源二にはそれも照れ臭い。しかし言わないままでは不安にさせたままなので、最近は恥ずかしくとも彼女が満足するようにしてやれと、吹っ切れたように直接的な言葉も言うようにしている。それでもきっとまた同じことを繰り返すのかもしれないが……。
だが一夜を安心させるためにも、早く働きたい。目に見えるそれが、一番彼女の信用を得るに早い。
社会人になれば信じてもらえるだろうか、対等になれたと自分自身も自信が持てるだろうか。
そんなことを考えた後、源二は再び企業研究に専念した。いくつかのサイトを見て回っていたが、そこでふと思い付き、ある施設を検索する。
それは一夜が現在勤めている交流学習センターだった。
◇拍手&簡易メッセ◇
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