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第2章
その17 日々是好日。
「おい、起きろ――」
「ん……」
 二人別々に目覚めた、次の日の朝。いつものとおり、一夜はシーツを引っ張られその反動でベッドから転げ落ちて起こされる。
 昨夜の避妊具を使わなかった性行為により「その恐れ」がないことを祈ってるわけなのだが、万が一にもそうなるかもしれない女性の身体に対してなんと乱暴なことかと、一夜は不服そうな顔を上げる。
 しかし源二は逆に、昨日までと同じように接しようとしてくれるのだろう。朴念仁とした表情や仕草も、彼なりの優しさなのだ。そんな彼がきっと自分は愛しいのだ。一夜は眠い頭を徐々に覚ましながら、そう思った。
「何?」
 源二は訝しげな顔をする。一夜はぼりぼりと床の上で頭を掻きながら、そのようなことを考えじいーっと彼を見上げている。彼はいつものTシャツにジーンズといった軽装で、彼女はキャミソールにハーフパンツといったいで立ちで。
 昨夜素っ裸で、何の繊維も隔てずに熱く抱き合い繋がったことなど、彼の素っ気無い態度からは嘘のよう。だが、昨日は長い一日だった。嫉妬して怒鳴ったことから始まり、後輩に慰められたり、それが誤解と分かり源二に驚くほど甘く、優しくされた。
 それが興奮剤となったか、久々のセックスは馬鹿みたいに燃えて、初めて何も使わずに接合してしまい――。

 そして今、それらが夢の中の出来事のように、からりとした朝が訪れている。
 そのギャップにいつも以上に首を傾げたくなり、その不思議さがくすぐったい。しかしそれが、いつまでも彼にときめかされる所以なのかもしれない。
 これはもう、恋なのか愛なのか。彼は一夜を「好き」だと言ってくれたが、二人の間に横たわるこの気持ちは、一体何なのか。
 婚姻関係を結んでいる以上、深く考える必要もないのだが、この狂おしく見えない気持ちはやはり不思議なものである。恋人になる前の関係ではないのに、相手に何処までも手を伸ばしたくなる。

 ――あなたを想う、日々是好日。

 源二の上半身から下半身までを見ては、昨夜舐った裸体を思い出し、一夜の白い顔がほんのり赤く染まる。何を赤くなっているのだろう。だが、あの一線を超えたことを思うとやはりどきどきとする。胸が、身体が疼いてしまう。
 彼女は慌てて「なんでもない」と言うと、彼から目を逸らして黒髪をいじり始めた。
「そんじゃ、早くしろよ」
 源二はつっけんどんにそう言い、一夜の部屋から出て行こうとした。
 ――ああもう! ゆうべはあんなに優しくて燃えてたのに、やっぱり可愛くないなあ、と彼がいつもどおりにしてくれるのも思いやりだと言い聞かせつつも、女心としては複雑な気もしてしまう。
 その後ろ姿に舌でも出してやろうかとしたところ……急に源二がぐるりと振り返った。そして床に座り込むネムリヒメの前に、勢いよくひざまずいたのだった。
「な、なに?」
 更にはいきなり頬に大きな手で触れられ、予想もしなかった行動に今度は彼女が驚いてしまう。しかし彼は表情を変えないまま、こう言ったのだった。

「何、照れてんの?」
「え……」
 一夜が薄い唇をあんぐりと開けていると、更に一言。
「ゆうべは、よかった」
「……」
 更に一夜が彼の言葉に赤くなって絶句すると、源二はこれまた珍しくふっと笑い、今度こそ部屋を出て行った。

 ……って。……なんだ、ありゃーー!!!
 数秒後、一夜は力が抜けたようにばたんと床に転がった。
 早く準備しないと遅刻してしまう時間だというのに、仕事に行く気などなくなりそうだ。何やらこちらの方が恥ずかしくなってしまったが、それでも、嬉しい。朝になっても優しさを見せてくれた、彼の態度が。
 珍しいことをした源二が、一夜をパニックに陥れる。 
 まだ昨夜のことを悪いと思ってくれるのか、それとも逆に昨夜彼を苛めた自分への報復がまだ続いているのか、それともあんな風に繋がれて機嫌がいいのか、何かふっきれたのか――。一夜には、分からない。
 それでも今の笑顔と台詞が、頭の中を回っている。仕事に行けば見目のよい後輩もいるのだが、他の男など眼中入らないほど毎日一緒に居る男のことが気になって仕方ない。

 何度でも何度でも彼に惹かれて、やまない。次に何をしでかすか、信頼しているのに予想もできない。
 自分たちがこれからどう進化していくのかも、予想つかない。
 未だに恋をしていると思っていたが、これは既にそれを遥かに超えた何かではないだろうか――。
「源二の、ばかたれ……」
 ドキドキと胸が苦しい。真っ赤な顔で天井を見上げる一夜の口から、弱々しい言葉が零れた。

 そのドアの向こうでさっきの笑顔は何処へやら、しかめ面で少々赤い顔をした青年が、髪をぐしゃりとかき上げていることを彼女は知らない。
 ちくしょー、もう二度と言わねえからな、とただ一夜を喜ばせたかった源二が、いつもと違ってもう一押し優しくしてみたその精一杯の背伸びを、彼女は知らない。
 一夜の顔などもう見れず、源二はまだ早いが学校へと行くことにした。――それでもやけに心が浮き足立っていた。
 しかし昨夜のあの官能は忘れねばならない、と彼もまた思っている。
 一夜の身体も立場も傷つけたくはなかったから。自分を立派に育てたいと頑張ってくれた、その思いを無駄にしたくなかったから。欲望に任せて、あんな危険なことを続けてはいけない。
 それでもあの禁忌の、そして心密かに憧れていた快楽を経験し何処かすっきりしたからこそ、こんな風に彼女に優しく出来たのかもしれない。自分の身勝手さ、浅はかさを呪いながらも、この妙な愛しさを源二もまたどうにも出来ずにいるのであった。

 こうして何気ない毎日をただ幸せに過ごしていく彼らに、今年も暑い夏が訪れる――。
 

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