忘れられない痛み
ここからはエルの回想で過去編が進みます。
レイド、まだ出ませんw
夜半、薄い部屋着のままバルコニーで月を見上げた。
その腕にはめたままの細いブレスレットを、指で探りながら。
今でも忘れられない面影の代わりに、慰めるように。
エルサーナが結婚できなかったことは、貴族社会では知らない者はいないほど有名な話だ。何せ、筆頭貴族である公爵令嬢が、3人もの婚約者を仕立てておきながら結婚まで至らなかったのだ。当然、噂好きの貴婦人たちの間では、事の真相について様々な憶測が飛び交った。
同情的な意見もあったが、大抵は邪推や悪意に彩られた根も葉もない批判ばかりだった。噂好きの貴婦人たちの興味を引くのは、スキャンダラスで刺激的な話題なのは当然のことだったから。
エルサーナが王城に上がったのは、社交の場でのひそひそ話や、好奇に満ちた視線に耐えられなくなったからでもある。下手に騒ぎ立てたり否定すれば、逆に噂の方に真実味が増してしまう。なにより、誰かに真相を話して、それがまた尾ひれがついて広まらないとも限らない。エルサーナはそれが怖かった。人の目が怖かった。
出かけた先で誰かがこそこそと話していても。自分をちらりとでも見られても。使用人たちが柱の陰で話していても。誰かが話しかけてきても。そのすべてが、自分の噂をしているのだ、自分をうかがっているのだと思い込むようになってきて、一時は外出すらもままならなくなった。
そうして、エルサーナはすべてを心の奥に閉じ込めて、沈黙を守った。一切誰にも、自分の心情を話さなかった。そして、エルサーナから事情を聞き、心配した王妃シェルミラの手配で、逃げるように王城の専属侍女となったのだった。
王城に上がってしばらくは、シェルミラの配慮もあり、華月宮から出ることなく、ひっそりと専属侍女としての務めに専念していた。
華月宮は女性ばかりの職場ではあったが、シェルミラの人柄か、それとも女官長が侍女たちのしつけに厳しいせいか、外にいたときに比べて圧倒的に雑音が少なく、エルサーナの追い詰められた心も徐々に回復していった。
それでも、腐っても女性社会だ。数人女性が集まれば、どこにでも派閥はできるし、嫉妬やドロドロした愛憎劇が渦巻いている。そんな中で、エルサーナが心を開ける友人など作れなかった。作る気もなかった。誰も信用できなかった。何も話せなかった。今まで一度も。
だから、他人にあの時の気持ちを吐露したのは、初めてのことだった。
何より、その相手であるアーシェは、自分よりももっとひどく傷ついてきたはずのライトが、あのひねくれた弟が、全幅の信頼を持ってそばに置いている女性だ。それだけで、信用するに足る人物だと判断できる。
ライトの行動を許して、受け入れて、それでもなお笑顔を絶やさないアーシェの懐の広さを、猫の姿の時にも真剣に聞いてくれていた彼女の誠実さを、エルサーナは信じたいと思ったから。
今までためてきた思いを少しでも吐き出したからか、幾分心はすっきりしたような気がする。
それでもあふれるほどのレイドへの想いは、今なおエルサーナの中で渦を巻く。
結婚がうまくいかなかったことは仕方がない。今でもその気持ちは変わっていない。
3回のうち2回は、特別な感情を持たないまま、どこか遠くでことが終っていた。相手に対する感情は今もない。悲しいこともあったけれど、今では消化できている。
けれど、3回目の失敗は、今思い出しても胸が痛む。それほどにエルサーナの傷は深い。
出る予定のなかった夜会に急遽出ることになったのは、その家の婦人が、エルサーナを招待することで、周囲にウォーロック家と懇意にしていると思わせたかった思惑があったせいだ。たまたまお茶会で知り合ったその家の娘と親しくしていたために、政治的な意図があると知りながら、断りきれずに出席した。
けれど、そこに3回目の婚約者である彼が招待されていると知って、エルサーナはその姿を捜し求めた。初めて『愛しい』という感情を持った相手。好きで好きで仕方がなかった。もちろん会いたかったし、驚かせたかったのもある。
ホールに姿は見えず、緞帳の陰になったバルコニーをのぞいた時、二つの人影が重なっているのが見えた。
くすくすと笑うその声は、紛れもない、彼の声。
不躾だと知りつつ、一体誰と居るのか、少しの好奇心で耳をそばだてた自分を、エルサーナは激しく後悔することになる。
「まったく、あなたが結婚だなんて。あれだけ私に熱を上げておいて、それはないんじゃない?」
「何言ってるんだ、僕にはあなただけだよ。結婚なんて形だけだ。なにせ、ウォーロックの姫君と結婚できるって言うんだからさ。ウォーロック家と親戚になりたがっている男は多い。僕はその幸運を射止めたってわけだ。そうなったら、ウォーロックの名前で色々便宜を図ってもらえるだろう? 今の仕事だって、もっと上の官職をもらえるだろうし、今の事業にだって、出資してもらえるだろう。彼女に頼めば、支援してもらうなんて造作もないことだ。君にはハイランドに屋敷を上げるよ。仕事と偽って家を出るなんて、きっと簡単さ。お人形みたいな女なんだ、僕に逆らうような度胸なんてない。愛しているのはあなただけなんだ。あんな面白味のない女に興味なんかないよ」
衣擦れの音の合間に、彼がつむぐ言葉は、ケーキを切り分けるナイフのように、たやすくエルサーナの心を串刺しにする。
「まぁ、ひどい人。…あ、だめよ、こんなところで」
「いいだろう、誰も見てやしないさ、ね…」
「ダメだったら…。ウォーロックのお姫様にしてもらったらいいじゃないの」
「やきもち焼くなよ。大体、あの女、させてくれないんだ。お高く留まりやがって、結婚まで待てとか、ふざけるなっていう話だよ。婚約してもう3ヶ月がたったって言うのに、キスだけってありえないだろ? いくら顔がきれいでも、させてくれない女に用はないよ」
「あら、じゃあ、私はその人の代わりってこと?」
「痛いよ、噛むなって…。違うだろ? あなたを愛してるから抱くんじゃないか」
「もう、あなたはすぐにそうやってごまかすんだから。ん、あ、…あぁ…いや、そんなところ、触っちゃ…」
「いいじゃないか、少しだけ。ね」
「そんなこと言って、少しで終わったためしがないじゃない。もう、しょうがないわね…」
「ああ、ベス、愛してる…」
次々と刺さる言葉たち。
信じていた。好きだった。この人となら、幸せが結婚が出来ると思っていた。相手もそうなのだと信じて疑っていなかった。それが。
すべて、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
そのままエルサーナは会場から逃げ出し、屋敷の自室で泣き崩れた。
それからしばらくは、部屋に引きこもって泣いてばかりの日々が続いた。見舞いに来た彼にも、一度も会うことはなかった。彼から、弁解も真実も聞きたくなかった。
その後一月ほどで、エルサーナの申し出で婚約は一方的に破棄された。
父には、もう結婚はしない、したくない。私のわがままです。それだけをかたくなに言い張り、破棄の理由については口を閉ざした。父はため息をついて、エルサーナのわがままを受け入れてくれた。今まで一度もわがままや、両親の意向に逆らうことがなかった娘の初めての姿だったから、そこには相応の理由があると察してくれたのかもしれない。
父の謝罪と少なくない額の慰謝料で、3度目の婚約は終わりを告げた。
けれど、このまま家にいれば、次の縁談が来るのを待つだけだ。それだけはもうごめんだった。どうにかならないかと、王妃のお茶会に招かれた折に相談すると、
「それなら、わたくしの侍女になればいいわ。そうそう男性とかかわることも少なくなるし、わたくしもエルがそばにいてくれたらうれしいわ」
その一言で、エルサーナは王妃付きの侍女に納まった。もちろん、通常は公爵家の令嬢が侍女になることはない。異例中の異例だ。だけれど、周囲の説得を押し切り、エルサーナは逃げるように王宮に移った。
王族付きの侍女は、華月宮にとどまり、結婚せずに勤め上げるものが多い。女性の職種としては、ほぼ最高峰に当たる名誉職でもある。職務に誇りを持ち、全力を傾けていると、なかなか男性との出会いがないからだ。
そして何より、下手な男性が、侍女を通じて王族の女性に近づかないよう、男性との付き合いに厳しいのが、エルサーナが奥に入った最大の理由でもあった。
男性と近づかずに済む。出会わずに済む。そうすれば、私も、誰も傷つかない。
ウォーロックの名前を捨てられないエルサーナには、こうして隔絶された世界で自分を守るしか方法がなかった。