完全敗北
少し前に2人で街に出かけた日、レイドは団長室でエルサーナを抱きしめながら、「愛している」と何度も何度も告げた。「お前が欲しい」とも。レイドが求めているのは、その時の返事だ。
けれど、と、エルサーナは思う。
「よく考えると、逃げ道をくれたようで、逃がすつもりはないですわよね…」
結婚の返事こそ先延ばしにされてはいるものの、こうまで外堀を埋められて逃げ切れるとは思えない。逃げた先は、袋小路だ。脇道は、ない。
そのことに気づいてレイドを睨めば、鋭い瞳が甘く溶ける。
「もちろんだ、逃がすつもりはない。返事は? …エル」
レイドがいないと、さびしい。そばにいたい。いて欲しい。いつでも触れていたいし、顔も見たい、声が聞きたい。エルサーナの返事は、決まっている。
ゆるぎなく立つその胸に、エルサーナはそっとその身を添わせた。すがるように、見上げる。
「キスをください、レイド様」
その一言に、レイドの目が見開かれる。さすがに、エルサーナの口からそんな言葉が出るとは予想外だったのだろう。
とても恥ずかしいことを言っている自覚はあった。いつもレイドを待っているばかりで、こうして自分から求めるなんて、ほとんどなかった。口にするにはとても勇気がいったけれど、小さな声で、続ける。
「唇へのキスは、返事が聞けるまでお預けだっておっしゃったわ。私は、あなたのキスが欲しいの。…レイド様、愛しています。心から、あなただけを」
すがるような、それでいてねだるような視線に、身の内にくすぶる熱が荒れ狂う。暴走しそうになるのをかろうじて押さえつけて、けれど、性急な手を止めることができず、少し乱暴なほど強く、エルサーナを抱きしめた。
「くそ、お前は俺を試しているのか…!」
「なぜ?」
獰猛なうなり声に、エルサーナは戸惑う。けれど、少し体を離したレイドは、焦れた表情を隠しきれずに、またあの日のように、唇の端に小さな口付けを送っただけだ。途端、希望がかなえられずに眉を下げる彼女に苦笑して、レイドはやさしくその頬を撫でる。
「そんな風に攻めてくるとは思わなかったな。理性が持たん。…このままキスしたら、口紅がすべて取れてしまうぞ」
「取れたら、直せばいいのですわ。理性は…この場でしたら、何が何でも持たせるでしょう? あなたなら」
だからキスをして欲しいと、頬を染めながらも引かないエルサーナに、珍しくレイドは困り果てたように空を仰いだ。
「あの、レイド様?」
「まったく、お前は無茶を言う…」
「ごめんなさい…」
「俺を煽るようなことばかりしやがって、お前は今自分が危険な目にあっていると気づいていないのか」
「危険、ですか?」
ふう、と大きく息を吐き、レイドは困惑するエルサーナの頬に手をかけて、紅を引いた唇の下を親指でゆっくりとなぞった。期待に震えるそれに今すぐ噛み付きたい衝動を必死で押さえ込みながら、甘えるように見上げるエルサーナの瞳と視線を絡ませる。
「もっとはっきり言わなければ伝わらないか。…今キスをはじめたら、止まれる自信がない。俺の舌でぐずぐずに溶かされた顔を、招待客に見られたいと言うなら今すぐしてもいいが?」
すると、かぁっと頬を染め、きゅっと唇をかんで、エルサーナの手がレイドの胸元に沿うようにすっと滑らされて。危うく理性のたががはじけ飛びそうになる。
「それは、嫌です。…レイド様にしか、見せたくありません…」
「だから、そういう煽るようなことを言うなと何度言えばわかる…」
だめだ、と、レイドは早々に白旗を上げる。人気のない場所で手も出せずに2人きりでいるなど、拷問だ。今までどんな戦場でも、どんな苦痛を受けても屈したりなどしなかったのに、生まれて初めて、レイドは完敗した。
何の武器も持たない、腕の中の愛しい恋人の愛らしさに。
「会が終わったら、覚えていろ。お前が嫌と言うまで…嫌と言っても、存分にキスをしてやる。泣いても抵抗しても逃げられないくらい、どろどろにしてやるから覚悟しておけ」
「やっ…!」
わずかに恨みがましい声でそう言って、レイドはエルサーナの耳に唇を押し付けた。戯れに、耳に軽く歯を立てるおまけ付きで。
小さく悲鳴を上げて震えたエルサーナに多少溜飲を下げて、レイドはまた大きなため息をついた。
その後、ホールに戻ったレイドは若干疲れたような様子を見せていたが、すぐにそれを消し去ってエルサーナをエスコートした。
しかし、それはバルコニーへ出る前の節度を持ったそれとはがらりと様相を変え、腰に手を回して自分にぴたりと引き寄せて、片時も離したくないという親密さを持ったものに変わっていた。
「あの、レイド様、近い…のではありません?」
恥ずかしそうに聞くエルサーナにを、レイドはいとおしげに見下ろす。
「何にはばかるものもないだろう、今は、もう。それに、ここに入る前に、俺は言わなかったか? どういう関係かはっきりしないから、憶測を呼ぶのだと」
だから、人々はあれこれ想像し、噂をするのだ。
「だが、俺たちの関係はすでにはっきりしている。あとは、周囲に知らしめるだけだ。誰もが知っている話題は、噂にもならん。面白くないからな。それに」
「それに?」
「不埒な輩が、お前を見ている。虫除けだ」
わずかに憮然とした一言で、レイドはますますエルサーナを引き寄せた。
うれしいけれど、恥ずかしいし、人目が気になる。困惑して助けを求めようと会場を見回しても、ライトはすでに去った後だし、目が合った母は生ぬるい笑みを浮かべて見ているだけだ。父はこちらをすごい形相で見ているけれど、貴族の壁に阻まれて近寄ることはできなさそうだし、大叔父は満足そうに笑ってうんうんうなずいている。
味方は、いない。
あきらめたように嘆息し、エルサーナはエルサーナはレイドの肩の辺りにそっと頭を寄せた。
「今日は、なんだかレイド様のことで頭がいっぱいで、ほかを気にする余裕がありませんわ…。もしあとで嫌な思いをすることになったら、また泣いてわめいて逃げ出すかもしれません。そうなっても知りませんからね」
「大丈夫だ、今度は地の果てまで追いかける。それ以前に、逃がすつもりもないがな。俺もさすがに待ちくたびれた。逃げられるくらいならしばりつけておく」
「…はい」
物騒ながらも甘い言葉に頬を染めながら、エルサーナはうなずいた。
その二人の前に、ドレスの婦人が近づいてきた。その二人の姿を見て、エルサーナはさっと緊張を走らせる。
「エルサーナ様、ずいぶんお久しぶりですわね!」
「夜会に出てくるなんて、珍しいこと!」
以前にも付き合いのあった、親族の女性達だ。礼儀作法はきちんとしているが、なにせその目は好奇心に満ち溢れ、じろじろと下世話な視線が美しい装いを台無しにしている。
一瞬ひるんだけれど、レイドの腕にかけた手に力を込め、エルサーナは背筋を伸ばした。この程度のことで、負けるものか。
「ええ、王妃陛下のおそばを離れられず、ずいぶんと大叔父様に不義理をしてしまいましたので。今年は節目の年ですから、ぜひお祝いを申し上げたかったのです」
「そうですの。それにしても、本日のドレスはとても素敵ですわ!」
「よくお似合いですこと! ため息が出るようですわ!」
「そうですか? ありがとう」
ひととおり通過儀礼的な会話を交わしたあと、一人の婦人がさりげなく二人を見比べる。
「今夜はグランツ騎士団長様とご一緒なのですね。お二人はそういう関係ですの?」
「そういえば、以前にもお二人で出席していらっしゃったように記憶しておりますわ」
「まぁ、それなら、ずっと前からお付き合いなさっていたということ!?」
興味津々に聞いてくる婦人たちだが、その答えは、彼女らのみならず、近くにいる誰もが耳をそばだてているような気がして、体が震える。昔のことはあまり追及されたくない。どう答えればいいのだろうかと、迷うけれど。
「彼女は私にとって、とても大切な女性だ。最近ようやく振り向いてもらえたので、こうして挨拶に伺った次第だ」
と、レイドがあっさりと答える。今までの経過はきれいに飛ばして、今を強調する言葉は、反論を許さない強さがあって。
そして、それを証明するように腰を抱き寄せられ、密着させられてエルサーナの頬は赤く染まる。
「まぁ、そうなんですの!」
「お二人ともお似合いですわぁ」
あまりにも堂々としたその態度に気おされてか、引きつった笑みを浮かべて二人は離れていった。
遠巻きに見ている視線も、怖くない。
エルサーナは、詰めていた息を深く吐いた。緊張したのか、手袋の下の手のひらが湿っていて恥ずかしい。そっと体を離そうとするが、腰に回っている手がそれを許さない。
「レイド様、あの」
「なんだ」
「は、離してください…」
「なぜだ」
「恥ずかしいんですっ」
「俺は離したくない」
「わ、私は離れて欲しいんです!」
「我慢しろ」
「ひどいですわ!」
朱に染まった顔で抗議されてもかわいいだけだと内心でつぶやきながら、レイドはエルサーナの髪に口づけを落とした。途端に、必死に身じろいでいた細い体が固まる。
「よく頑張ったな」
見上げる瞳が、潤んで揺れている。絶対的な信頼と、安堵と、艶と、愛情を込めて注がれるそれは、レイドの理性にあっさりひびを入れる。
「レイド様がついていてくださったからです。逃げようなんて、逃げたいなんて、かけらも思いませんでした。そばにいてくださって…嬉しかった。ありがとうございます」
「それは、…何よりだ」
エルサーナの言葉に、レイドはそう返すのが精一杯だった。エルサーナは、恥じらいながらもふわりと微笑み、レイドの肩にそっと寄り添う。
ああ、ここが夜会の真っ最中で、ホールの真っ只中でさえなかったら。
今すぐ、エルサーナを押し倒して思う存分抱きしめてしまえるのに。
内心で舌打ちと盛大なため息を量産しながら、レイドはもう一度、エルサーナの頭にキスを落とした。
その二人の中むつまじい様子は、あっという間に会場の注目をさらった。
好奇心に負けた婦人や貴族が、入れ替わり立ち替わり2人の関係を探りに来たが、それに対し、レイドは堂々と「恋人だ」と言い放つ。
そのたびに真っ赤な顔を隠すようにレイドへ身を寄せるエルサーナの姿と、それを気遣うように腕に囲い、耳元に何やらささやきを落とすレイドの姿に、2人の関係が知れ渡るのに時間はかからなかった。
レイド様、「待て」ですよ!