告白
連れ出されたのは、緞帳で仕切られたバルコニーだ。火照った体に夜風が気持ちいい。きれいに結い上げられたうなじにかかった後れ毛を、風が揺らす。
ほっと息を吐くと、無防備なうなじに不意に口付けが落ちてきた。
「っあ!」
びく、と肩が震えた。そこがかっと熱くなって、うろたえる。
「な、何を…っ」
抗議しようと振り返ったとたん、レイドに引き寄せられて、抱きしめられる。
「レイド様…?」
「俺はお前に、さびしい思いをさせていたか?」
「え…?」
不意の問いかけに首を傾げるが、レイドはますます深くエルサーナを抱き込み、腕の力を強くしただけだった。
「アーシェの気持ちがわかる、と」
それは、あの広い部屋で一人ぼっちで待っているアーシェを思ったからだ。
彼女がまだ猫の姿だったとき、ライトが仕事で一週間ほど不在にしたときの憔悴振りは見ていられないくらいだった。だからきっと今夜も、ライトの帰りを待っているだろうと、何の気なしに思っただけだった。
けれど、そこに無意識に自分の姿を重ねた。誰かが迎えに来てくれるのを、華月宮でずっとずっと待っていた。こうしてレイドに言われて初めてそのことに気づいて、エルサーナは顔が熱くなった。
「いえ、あの、それは…」
「言ってくれ。俺がそばにいなくて…お前はさびしかったか?」
じわりとしみるような声が、胸に落ちていく。
さびしくなかった日なんて一日たりともなかった。レイドから送られた腕輪がなければ、夜も過ごせなかった。眠れなくて、ベッドの中で何度も寝返りを打ちながら、必死にレイドを忘れようとした。お茶を入れるたびに、ふわりと立ち上る湯気に、2人で行った茶店を思い出して涙をこらえた。城で夜会が開かれるたびに、レイドと踊ったひと時を思い出して体が震えた。
町にいても、城にいても、どこにいても。忘れられなかった。自分から手放してしまったくせに、そばにないぬくもりが恋しかった。
「お前の本音が聞きたい。俺を…想ってくれていたか?」
まるで懇願するかのような、確かめるような声に、胸がいっぱいになる。
エルサーナは、レイドの背中に手を回して、ぎゅうっとしがみついた。今までずっと胸に押し込んできた気持ちが、堰を切ったようにあふれ出した。
「さびしかった…さびしかった、さびしかったわ! そんなの、決まっているじゃない!」
我慢できずに零れ落ちた言葉は、後は怒涛のように流れるばかりだ。ためにためていた想いが、決壊して止まらなくなった。
「あなたがそばにいなくて、何度も泣いたわ。これでいいなんていいながら、本当はいやで、後悔なんてずっとしてた! いつも想うのはあなたのことばかり、夜も眠れなくて、あなたの姿を見れば胸が高鳴って、声を聞くだけで体が震えて…。私は何をしているんだろう、どうして別れたりしたんだろう、こんな思いをするくらいなら、別れなければよかったのにって、もう何度思ったのか知れないわ! あなたが好きで、好きで、好きで、でも…怖くて…逃げたくて…好きになんかならなければとまで思って、でも、忘れられなかった!」
言いながら、エルサーナは胸が痛くなる。こんな自分勝手な理由でレイドを拒絶したくせに、今また手を差し伸べてくれたレイドに甘えて、その腕の中に戻ろうとしている自分が、ひどく虫のいい人間に見える。
本当は、戻るべきではないのかもしれない。けれど、自分の気持ちもごまかせない。
レイドは、いつでも誠実で、まっすぐに自分を思ってくれていた。それを手ひどく裏切って、傷つけた。信じる努力をせずに、背を向けて、耳を塞いで、拒絶した。最低だ。わかっている。
「私は弱くて、逃げるばかりで、もうあなたにすがることも出来なくて、好きだなんて言えなくて…。今もまた、好きだと言ってくれるあなたに甘えて、あなたのところに戻ろうとしている。私は自分を哀れんでいただけで、あなたの思いを裏切ったのに。本当に傷ついたのは、あなたのほうなのに、それでもまだ自分を守ることがやめられなかったの…。自分勝手でごめんなさい…」
途中から、エルサーナの声が涙に震えた。
あの頃は自分ばかりがつらい思いをしていると思い込んでいて、レイドを思いやることが出来なかった。それが、レイドの気持ちを置き去りにすることなのだと、気づきもしないままに。
甘えるだけ甘えて、突然逃げ出して、行き場がなくなって宙に浮いてしまったレイドの心は、ひどく傷ついたはずだ。申し訳なくて、情けなくて、レイドを見られなくて、結局逃げ回ることしか出来なかった。
けれど、今。ようやくエルサーナの心は決まった。
何をしても、どんなことをしても、何があっても。
苦しくて、つらくて、悲しくて、嫌な思いをしても。
自分の恥をさらしても、プライドも何もかもかなぐり捨ててでも。
レイドが、欲しい。
レイドは全身でしがみつくエルサーナからそっと体を離して、黒曜石のような瞳で優しく見下ろした。
「すまん。もっと早く迎えに来るべきだったな」
「悪いのは私です。レイド様は何も悪くありません。もう一度手を取ってくださって、私を好きでいてくださって、それだけで、私は…っ」
「そうか」
ほろりとこぼれる雫を指先で掬い取り、レイドはそのままそれを口元に持っていって口付けた。舌に触れた雫は、ひどく甘かった。
怒涛のように告げられた彼女の本心が、レイドの体を歓喜で震わせる。
エルサーナの秘めた想いを感じてはいたものの、4年という時間は短くはなく、その間にもう無理かと思ったこともあった。このまま忘れるのがお互いのためだと思い悩んだこともあった。それでもほかの女性にはどうしても目が向かない。なぜこれほどまでに惹かれるのか、どうしてエルサーナでなければだめなのか。そんなことを考えて手をこまねいているうちに、4年もたってしまった。
結局、理屈ではない。エルサーナしかいらない。何があっても、どんな障害があっても、エルサーナがどう思っていようとも。それに気づくまでに、今までかかってしまった。
実のところ、また拒絶されることを恐れていたこともある。そうしてまたエルサーナが自分を責めるくらいなら、これ以上自身の想いを押し付けるのは迷惑なだけではないかと怖気づいていたところもあった。
どうしたって、自分はエルサーナには弱いのだ。そう思い知らされて、レイドは観念した。エルサーナがどう思おうと、彼女の気持ちが自分に向いているのなら、手に入れるしかないのだと。
そして、エルサーナの片手をささげ持つように取る。
「エル、返事を聞かせてくれ」
はっとして、エルサーナは踏みとどまる。これはきっと、盛り上がった勢いのまましていい返事ではない。いまだ、感情のままにレイドに向かうことが出来ない自分が情けない。そんな後ろめたさも合って、つい声が小さくなる。
「あの、でも、私、結婚のお返事は…」
「やはりだめか。残念だ」
とたんに逃げ腰になるエルサーナに、レイドは笑った。拒絶したはずなのに、いたずらがばれたような表情はなんなのだろう。
「この雰囲気に呑まれて結婚すると言ってくれれば、儲けものだったんだがな。そう上手く運ぶはずもなかったか。安心しろ、そこまでは求めていない」
「でも、今夜中に返事をもらうって…」
いったい何の返事が欲しいかと惑うエルサーナに、レイドはにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「俺は、一言も『結婚の返事をもらう』とは言っていない」
「…え?」
「盛り上がって結婚だ何だと口にしていたのは、公や夫人だ。俺は、『返事は、今夜中にもらう』と言っただけで、結婚の返事がほしいとは言っていない」
あわよくば、というレイドの思惑をようやく悟って、たちまちエルサーナの頬に朱が上った。危うく言質を取られるところだった。
「また、そうやって私を振り回すのね!」
涙に潤んだままの瞳で、ひどいひと、と拗ねたようにつぶやく小さな声は、とろりとした甘さに満ちて、レイドの理性を揺るがせた。
エル、やっと言えました。