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惑乱

ライトの謹慎も明け、黒猫にされていた少女・アーシェを正式に紹介してもらい、エルサーナも日常に戻りつつあったある日。

「エルサーナ様、騎士団のグランツ様がお見えになっております」

いつもどおりほかの侍女たちとともに、王妃の部屋の掃除、ベッドメイクや花、茶器の準備、洗濯物の入れ替え、衣裳部屋の整理をやっているときに、その先触れはきた。


両陛下は本日、国立劇場に足を運び、観劇のため不在だ。

外出する王妃には侍女長がつき従い、補佐であるエルサーナは、留守を預かる責任者として城に残っていた。

それが、良かったのか悪かったのか。


レイドの名を聞くだけで、どくん、と心臓が跳ねる。

5年前、付き合っていたときには、こうして来てくれるレイドを心待ちにしていたものだった。

こんな風にたずねてきてくれるのは、レイドとの付き合いをやめてから、初めてのことだ。

知らず、緊張で手が震える。

「お急ぎ…なのかしら?」

出来れば会いたくない、と思いつつ、知らせに来た若い侍女に聞けば、いえ、と首を横に振る。

「お忙しそうなら遠慮するとのことでしたが」

「エルサーナ様、ここはもう終わりですし、そろそろお茶の時間にしましょうと、さっきおっしゃっていたではないですか」

「そうですよ。ここは大丈夫ですから、行かれたほうがよろしいと思います」

気を使ってくれているのか、一緒に部屋を整えていた侍女二人が口々に言い添える。侍従や下級役人の訪れは少なくないが、騎士団長が自ら足を運ぶともなれば、専属の中でも高い地位を持つエルサーナでなければ対応出来ない。気持ちはありがたいが、どこか気恥ずかしくて、困惑してしまう。

確かにあらかたしなければいけないことは終ってしまっている。だけど。


会ってしまえば、焦がれる気持ちが加速してしまう。だから、会いたくないのに。


「どうなさいますか?」

答えを待つ侍女と、興味津々の侍女と。視線を居心地悪く感じながら、エルサーナはため息をついた。

「わかりました、お伺いします。少しだけお待ちいただいて。お茶の用意は私がするから、かまわなくていいわ」

「かしこまりました」

そういって、引き下がる侍女を見送る。


…どうしよう。簡単に会うことを了承してしまうなんて、どうかしてしまったのかしら。

いままで、あんなに拒んで、あんなに避けてきたというのに。そっと胸を押さえながら、小さくため息をつく。

少し前ならきっと、断れたはず。だけれど、あの手の熱さを、抱きすくめた腕の強さを、思い出させられてしまったら。

(でも、そうよ。お仕事のお話かもしれない。私に会いに来たわけではないのかもしれない。だったら、断る理由もないわ。勝手なこっちの都合で断るのは、かえって失礼に当たるわよね)

自分にそう言い聞かせて、エルサーナは振り返る。

「では、行ってきます。後をお願いね」

『はい』

同時に帰ってくる返事にうなずき、エルサーナは王妃の私室を出た。

…内心の葛藤が、レイドに会うためのただの言い訳であることなんて、十分わかっていつつ。



茶器を載せた銀のカートを押して、エルサーナは応接室の前に立った。

白い扉は、彫りこまれている模様も曲線的で、女性が多くいる華月宮の雰囲気を良くあらわしている優美なデザイン。それが今は、まるで堅牢な城壁のように感じられる。


『ライトの件が片付いたら、次はお前の番だ』


その言葉を思い出すと、回れ右して帰ってしまいたい。

でも、自分の右手は、早くノックをしろと自分自身を急き立てる。

ここに来るまで、心はブレーキをかけているのに、体は本能でレイドに会いたがっているのか、足が逸って困った。

ためらいは残っていたが、もうすでに扉の前に来てしまっている。これ以上待たせることはできない。

観念し、深呼吸をしてノックをした。

「失礼いたします」

ドアを開け、カートを押して入る。立ち上がったレイドの堂々とした立ち姿に、一瞬目を奪われた。

「仕事中にすまない。忙しかったらよかったんだが」

「ちょうど休憩に入るところでしたので…」

低く、心地いい声が耳に流れ込み、どきどきして応えた声は、羽虫の羽音のように小さい。

嫌だ。動揺する年でもないのに。

震える手を押さえて、エルサーナは茶器に慣れた手順で茶葉を入れていく。

その手の震えが、レイドに伝わりませんようにと、祈りながら。

「華月宮の窓の外に植えた木の隙間から、男性がのぞくという苦情が去年から数件あってな。技術局に依頼して、中からは様子がわかるが、外からは見えにくい造りの仕切りを試作してもらった。それを先月から、作法室の窓の外に設置してもらったんだが、効果のほどを知りたくてな」

ソファに腰掛けながら、レイドが言う。

ティーカップを二つ、テーブルの上に置き、レイドがカップを手に取るのを確認して、エルサーナも向かいに腰掛けた。

「そうですね、確かに外からの視線を感じずにすんでいます。けれど、今度は少々暗いという意見を何度か耳にしましたわ」

「なるほど、改良の余地ありか。では後ほど技術局のほうに報告しておこう」

「お手間を取らせて申し訳ありません」

「気にするな。もしかしたら、そのうち技術局の者と作法室に邪魔することになるかもしれん。そのときには連絡を入れる」

「かしこまりました」

それきり、他人行儀な会話は途切れ、静かな沈黙が下りる。

以前、こうしてレイドが尋ねて来たときも、ここで静かにお茶を飲んだ。

カップが小さく見えるほど大きな手。洗練されたしぐさ。堂々と落ち着いた態度。あの頃も、こうしてレイドに見とれては、あふれ出しそうな気持ちをもてあましていたっけ。

それを思い出すと、すぐにどきどきと心臓が跳ねるから困る。

「あ、の、レイド様?」

「ん?」

ゆっくりとカップを傾けるレイドに、遠慮がちに問いかける。

「ご用件は、これだけ…ですか?」

「ああ、ただの口実だからな」

しれっと言い放たれて、顔が熱くなる。すっと視線を上げて見つめられると、体の芯がうずく。

思わずうつむいて、レイドの視線から逃げると、小さく笑う気配がした。

「こ、口実って」

「お前に会いたかっただけだ、エル」

少しだけ低くなった声。家族・血縁以外ではレイドにしか呼ばせたことがなかった、愛称。

耳から入ったそれが、歓喜を伴ってじわりと体にしみこむ。

「そのほうが、お前には都合がいいのだろう?」

そうして、ちゃんと逃げ道を残してくれる、そのやさしさが。

どうしようもなく、愛しい。

唇を噛み、膝の上でぎゅっと手を握り締める。そうしないと、レイドにすがり付いてしまいそうだった。


(だめよ)


これ以上傷つきたくない。余計なことにレイドを巻き込みたくない。だから、離れたはずではなかったか。

なのに、今はそのための我慢よりも、すべてを預けてしまいたい切なさが勝る。

気持ちを落ち着けようと深呼吸をしているうちに、かちりとわずかな音を立てて、レイドのカップが受け皿に戻された。顔を上げれば、目が合ったレイドがわずかに唇を上げる。

「久しぶりだったが、やはりあなたの入れたお茶はうまいな」

「あ、ありがとうございます」

すぐに、またもとの他人行儀な口調に戻ってしまい、胸がちくりと痛む。

「ごちそうになった。そろそろ戻る」

「はい」

すっと立ち上がり、ドアに向かうレイドの後を送ろうとエルサーナが続く。と、不意にレイドが振り返った。

「…っ」

ぶつかりそうになるほどの、その思わぬ近さに息を呑むと、レイドの手が上がり、ごつごつした指の背が、すっと頬を擦った。

高いところから覗き込むレイドの目元が、気遣うように細められる。

「元気そうでよかった。お前に泣かれると、弱い」

それは、構えていたはずのエルサーナの心の、ほんのわずかに生じた隙間から、たやすく奥まで入り込む。

きゅううっ、と音を立てて、心臓が絞られる感覚。

頬が熱い。手が震える。言葉が出ない。唯一自由になる目線で、レイドを見上げる。それが、男にどんな衝撃をもたらすか、自覚しないまま。

小さく苦笑したレイドが、そっと顔を寄せた。耳に吐息が触れて、びくんっと肩が跳ねる。

「そんな顔をするな。さらいたくなるだろう」

言うと同時に、少し乾いた唇が、耳朶にゆっくりと押し付けられる。

ぞくぞくっ、と、背骨を強烈な疼きが駆け上がり、思わず喉の奥で息を詰めると、すっとレイドが離れて行った。

「また、来る」

その言葉を残し、マントを翻して、規則正しい靴音を響かせながら応接室のドアから消えた。

それを呆然と見送って、どれほど時がたっただろう。

おぼつかない足取りで、エルサーナはソファに戻り、どさりと腰を落とした。

そして、両手で顔を覆う。

頬が熱い。きっと、真っ赤になっている。レイドの唇が触れた耳は、じんじんして、まるでそこにもうひとつ心臓があるみたいだ。

「…やだ、どぉして…?」

ここにいたい。外は怖い。出たくない。それなのに、レイドはなぜ自分を外へ引っ張り出そうとしているのか。

もう、5年も前に終わっているはずなのに、今更自分をどうしようというのだろう。

でも、体は正直に、レイドへの思慕を訴える。もっとと焦れて、頑なな心の扉を叩く。

だけれどその閉ざされた心の内もまた、5年の間秘め続けた思いが勢いを増して膨らんでいくばかりだ。

内と外に吹き荒れる嵐は、弱まる気配さえない。

どうしたらいいのかわからないまま、エルサーナはなかなかひかない頬の熱を冷まし続けるしかなかった。


だ、団長ォォォ!!

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