母と娘・後
午後から仕事を休み、ウォーロックの屋敷へ戻るつもりだったエルサーナに、レイドからの書簡が届いたのは午前中も早いうちのことだった。
中身は、大叔父の夜会に出るか否かについてだろう。父から、早々に話が行ったに違いない。
どきどきしながら開いた手紙には、癖のある大振りな字で、仕事のために直接会いにいけないことの謝罪が添えられていて、
『もちろん、行かせてもらう。エルのエスコートは、ほかの誰にも、ライトにも譲るつもりはない。楽しみにしている』
という返事が書かれていた。
エルサーナは手紙を胸に抱きしめる。うれしくて、心臓がどきどきして仕方がない。夜会が楽しみだと思ったのは、何年ぶりだろう。もうすっかり忘れてしまうくらい前だった気がする。まるで少女の頃のように、浮き立つ気持ちを抑えられなかった。
午後になって屋敷に帰れば、すでに広い応接間を二間使って、お針子と出入りの商人たちがありとあらゆるものを広げていた。
一間は丸ごと衣装をあつらえるために使われている。たくさんの布があふれ、デザイン画を手にお針子と母親が話している。
もう一間は、装飾品や靴が所狭しと並べられていた。
「エル、早かったわね」
顔をのぞかせたエルサーナに気づいて呼ぶ母の元に歩み寄ると、お針子が恭しく頭を下げた。ウォーロック家お抱えのお針子は、王都で一番格式のある仕立て屋の女性で、ウォーロック家の専属として長年付き合いのある相手だ。
「どのお色がいいか、見ていらっしゃい」
そう声をかけられて見回したものの、何十種類もある色と素材、手触りの布を前に、途方にくれてしまう。
縁談が上手くいかなくなったあたりから、エルサーナは控えめな色や無難なデザインのドレスばかりを選んできた。今では流行も違う。そもそも、ここ数年はドレスを身にまとうこともなかったから、今の自分にどんな色、どんな形のドレスが似合うのかがまるでわからない。
今も、つい目に留めてしまうのは、薄いラベンダー色だとか、モスグリーンだとか、無難な色や暗い色ばかりだ。
「エル、ちょっといらっしゃい」
呼ばれて顔を上げると、母は二種類の布地を手にとっていた。
紺のベルベットに銀糸の刺繍の入ったもの。
もうひとつは、真珠色の生地にシャンパンゴールドの刺繍が入ったものだ。
どちらも最上級の品だろう。
「お嬢様は落ち着いた雰囲気の方ですので、紺色は上品に見えると思いますわ。デザインは少し大胆に、艶っぽく見せるのがいいかもしれません。こちらの真珠色は、お嬢様のお顔立ちをより華やかにするでしょう。シンプルなデザインでも、とても豪奢に見えると思います」
「そうね、どちらもよく似合うわ。シックな装いなら紺、華やかさなら真珠というところかしら」
「紺の生地でしたら、クリスタルを縫い付けると華やかになると思いますわ。真珠の生地でしたら、腰周りやお背中の部分に薄手の紗を重ねると控えめになります。紗のお色によっては、より華やかにお作りすることも出来ますわ」
「どちらも会場の明かりの下では映えそうね。どんなデザインがいいかしらね?」
デザイン画を見ながら、お針子と母が、ああでもないこうでもないと、二つの布地を見比べている。
母は夜会の衣装に妥協することはない。いろいろあって夜会が苦手になってから、控えめな色味のドレスばかり選ぶようになったエルサーナは、毎回小言を言われたものだ。
「エルはどちらがいいかしら?」
「私は、どちらでも…」
母に振られて、エルサーナはあいまいな返事を返す。そうして、二つの布地にそっと手を滑らせた。
前までなら、迷わず紺を選んでいただろう。シックで控えめな色だし、クリスタルなどの装飾もなしのシンプルなデザインを選んでいるところだ。
けれど、当日隣に立つレイドは多分、黒の礼服か騎士団の正装だろう。どちらも暗い色だから、隣に立つには真珠色のドレスのほうが映えるかもしれない。
うっすら光沢のある明るい色の生地を手にとって考えていると、シルヴィーヌがうなずいた。
「いいわ、こちらの真珠色にしてちょうだい」
「かしこまりました」
まだ何も言っていないのに、エルサーナが止めるまもなく母はあっさりと決めてしまった。
確かにきれいだが、やはり一見してきらびやかな印象を与える。ここまで派手でなくても、と、どうしても気後れしてしまう。
「あの! 私、紺色でも…!」
けれど、シルヴィーヌは、いっそすがすがしいほどににっこりと笑った。
「こちらの生地のほうを、うっとりした顔で見ていたもの。…何を思い浮かべたのかは、聞かないでおいてあげるわ」
「そ、そんなんじゃありません!」
(何でこんなに全部お見通しなの!?)
見る間に顔を真っ赤にする娘にふふっ、と笑い、シルヴィーヌは隣の間へとエルサーナを急きたてる。
「さあ、夜会まで時間がなくてよ。装身具も新調しなくてはならないわ。飛び切り似合うのを探さなくてはね!」
「そんな、私、今あるもので十分で…」
「何を言うの!?」
辞退しようとした瞬間、母がカッと目を見開いた。
「4年ぶりの夜会なのよ!? 周りを圧倒するくらいでなければ、出る意味などないわ!」
あまりの剣幕に圧倒されつつも、控えめに意見を述べてみる。
「お母様、会の主役は大叔父様ではありませんか?」
「夜会の主役は女性よ! しかも、4年ぶりにあなたが出る気になってくれて、どんなにうれしいか! わたくしの娘の美しさを、見せ付けてやらなくてはいけないわ!」
堂々と胸を張って、きっぱりと母は言い切った。
確か、夜会は大叔父の生誕を祝うためのもので、シルヴィーヌの言うような趣旨のものではないはずだ。
「あの、見せるって、誰に…?」
「誰でもいいのよ! とにかく、今回は気合を入れて準備をしますから、覚悟なさいね?」
あでやかに笑う母の姿に、気が遠くなる。
父は便宜を図ってくれると言ったのに、肝心の母は、目立ちたくないエルサーナの意思を汲んでくれるつもりはなさそうだ。夜会の主役は若い女性が張るべきもので、自分が出て行ったところで恥をかくに決まっているのに。
「お母様、私、もう若くないのです。かえって恥ずかしいですわ。本当に、その場にいて恥ずかしくない程度で十分で…」
「お黙りなさい。女性はいつまでも美しくあるべきよ。サボるなんて、わたくしが許しません!」
せめてもの抵抗を、シルヴィーヌは切って捨てる。
かつてのシルヴィーヌは、社交界の花と賞され、求婚も引きもきらなかったという。未だに、貴婦人の中の貴婦人として、夜会での影響力は絶大だ。年を重ねてはいても若々しい美貌と、最上級のドレスや装飾品で隙なく装われた姿は、今でも十分に人目を引くと聞いている。
その母から見れば、なんとか目だたないように乗り切ろうとばかりするエルサーナの行動は、とても許せるものではないらしい。
「シェルミラ様にはすでに夜会までのお休みをいただきました。ダンスも、髪や体の手入れも、今流行の話題も、すべて夜会までに詰め込みますからね! 4年も引きこもってきたツケだとお思いなさい。いいわね?」
「はい…」
有無を言わさぬ母の宣告に、エルサーナはうなだれるしかなかった。
長年の習慣で、どうしても一歩引いてしまうエルですが、夜会までにはもう少し前向きになれるでしょうか?