父と子
父に呼び出されたのは、次の日のことだった。憂鬱な気持ちで、宰相執務室への廊下を進む。
話の内容は大体予想がつく。それこそ、昨日アーシェの口から出た、大叔父の夜会のことに違いない。
父からの呼び出しはめったにないが、あった場合には絶対だ。なんだかんだ言って、ウォーロック家の現当主の命だ。逃げることは許されない。
執務室が近づくに連れて、足が重くなっていく気がする。もう何度目かもわからないため息をついて、重厚な扉をノックした。
「入れ」
「失礼します」
扉を開けて頭を下げると、父である宰相、アレクサンドル・ウォーロックが書類から顔を上げた。中にいた若い秘書官が、その視線を向けられて心得たように退席する。
部屋の中に、父と二人きり。常にない緊張感に、のどがからからになる。
硬質な整った顔に、光るモノクル越しの目は、穏やかだ。けれど、その口から出る言葉は、おそらく死刑宣告に近い。
父はわずかに体を前に傾け、机の上で両手を組み合わせた。
「その顔では、こちらの話はわかっているようだな。再来週、叔父上の生誕祭がある。出席するように」
やはり、と予想していた言葉に、ぎゅっと拳を握る。
「…不参加では、いけませんか」
「今回はライトも強制参加だ。何せ今年は、叔父上の80歳を祝う節目の年だからな。不参加は許さん」
その口調は淡々としていつつも、有無を言わさぬ強さがある。普段は仕事ばかりであまり顔を合わせることはないが、こうして父を目の前にすると、やはりその影響力の大きさを痛感する。
そういえば大叔父ももうそんな歳か、と言う感慨ももちろんあったが、夜会に出たくない気持ちのほうが大きい。5年前、レイドと別れたのは、あの夜会がきっかけになってしまったからだ。
また、あの時のように何かあって変にこじれたくはない。エルサーナはうつむいた。手が震える。
「どうしてそんなに嫌がる。理由があるなら、聞くぞ」
ところが、珍しく優しい声に顔を上げると、父は困ったように笑っていた。
「5年前もそうだった。あれからお前は叔父上の夜会にすら顔を出さなくなってしまったな。無理に夜会に出したせいだと、シルヴィに散々なじられた。あの時は参ったよ」
「お母様が…」
普段は父の言うことに否を言うことのない母・シルヴィーヌが、そんな風に言ってくれていたとは知らなかった。
「公爵家の責務は、ロベルがちゃんと背負っている。ライトがすべてを放棄したのも、ライトの自由だ。それぞれがそれぞれの道を模索している。…お前は、何を望む?」
「私は…」
父の言葉に、押し付けるような響きはない。むしろ、思いやりすら感じる。そう言えば、昔の父は、よく笑い、よく話し、子供たちをとてもかわいがってくれていた。優しく、その大きな手でいつも頭を撫でたり、抱き上げられたりしたものだ。
宰相という職に就いてから、家族との時間も取れなくなり、笑顔が減って感情をあらわすことも減って、ちょうど思春期に差し掛かっていたエルサーナにとっては、一気に近寄りがたい存在に変わってしまったのだ。
だけれど、今になって思う。宰相という職は、気苦労が多い。国家の大事を、その胸一つに納めなければならないこともある。非情な決断をしなければならないこともある。苦悩する姿を、家族には見せたくなかったのかもしれない。できるだけ感情を抑え込み、常に平静を装うために、家の中でも気を抜くことができなかったのかもしれない。
父のことを厳しく冷徹な人だとずっと思ってきたけれど、本当の父を見ていなかったのは、もしかしたら…エルサーナのほうだったのか。
「望めばいい。欲しいものは、向こうからやってきてくれるわけではない。掴みたければ、手を伸ばせ。私もシルヴィも、家族の誰もお前を責めはしない」
「お父様…」
自分が望むのは、レイドとの幸せな未来。それは、はっきりと心の中にある。
でも、それを口に出すのはまだ怖い。迷うエルサーナに、父は言葉を重ねる。
「私は、お前を我が家の駒にと思っているわけでは決してない。それだけは、理解してくれるか?」
「…でも」
あの時、父は「もう一年になる。不幸なことは忘れて、これを機会にまた表に出ろ」と言っていたではないか。夜会に出ろということは、結婚相手を探せということだ。エルサーナの立場から言って、政略結婚以外のなんだというのか。そんな思いが顔に出たのか、父が苦笑する。
「シルヴィになじられたといっただろう。忘れて表に出ろといったのは、新しい恋人でも作って、あの男のことは忘れろと言うつもりだっただけだ。もちろん、過去の縁談も、お前の意思を尊重するつもりだった。決して違う相手をあてがおうと思ったわけではない。言葉が足りないのだと、散々文句を言われたよ。お前にあんなふうに誤解されるとは思っても見なかったんだ。すまなかったな」
まさか、父の言葉はそういう意味だったのか。いまさら理解した真意に、あの頃の自分がどれだけ頑なだったのかを思い知らされて、エルサーナは恥ずかしさに打ちのめされた。
「いえ、あの、そのことは…もういいんです。私もひねくれて、勝手に悪く取ったのですから。何もかも、自分が責められているように思えて…自分の不幸に、溺れていたんです。申し訳ありませんでした」
「そうか。わかってくれたのならいい。もっと早く、話をすればよかったな」
父の言葉を悪いほうに受け取った自分にも、非はある。あの時はとても卑屈になっていて、結婚や恋愛に関することは、すべて悪いほうにばかり考えていたのだから。
ずっと、家の駒なのだと思っていた。父にも、そういう目で見られていると思い込んでいた。
言葉を交わせば、こんなに簡単に、誤解は解ける。
今まで目を逸らし、耳をふさいできた真実は、エルサーナ自身の凝り固まった心を解くのには十分だった。
でも、父の考えが知れて安心できたことと、夜会へ出ることは別だ。エルサーナは、小さくため息をつく。
「すみません、夜会の返事は、もう少しお待ちいただけますか」
「ああ。明日まで待とう」
「はい、わかりました。失礼いたします」
行かなければならないことはわかっている。けれど、もう4年も遠ざかっていた世界だ。気が重いことに変わりはなかった。
エルサーナが去った後の執務室。静かに開いたのは、執務室となりの仮眠室へ続くドアだ。そこから姿を現したのは、ライトリークだった。
「もう一押し、ってところかな」
「そのようだな。お前が知らせてくれてよかったよ」
結局、アーシェはライトに、「エルサーナさん、夜会に出ないんですって。もったいないなぁ、ドレス着たら、絶対にきれいなのに!」と言ったのだ。
自分は強制参加を言い渡されたのに、エルサーナは逃げる気満々なのも腹が立ったし、いまだに夜会ごときに尻込みしている姉にいい加減にしろと言ってやりたい気持ちもある。それなら逆に、今度の夜会で、エルサーナに植え付けられた負の記憶を全部吹き飛ばしてやったらどうかという思いもあった。
いずれ、どんな手を使ってでも、エルサーナを夜会に引っ張り出してやる。そんな決意を持って、ライトリークは父に協力を依頼したのだ。
実のところ、昔父に苦言を呈したのは、母だけではない。ライトリークもまた、父の不要な一言に「あんたが紛らわしいことを言うからだ」と文句を言った一人でもある。その時には、すでに母にやり込められていた父は、不機嫌そうに舌打ちをしただけだったが。
父は、エルサーナにそれをちゃんと説明する。ライトは、エルサーナを夜会に出すために手を回す。そういう約束で、今回の話はまとまったのだ。
「…シルヴィに連絡してくれ。打ち合わせどおりにな」
「はいはい。行き遅れの娘を片付けるためには、手段は選んでいられないって?」
からかうようなライトの言葉に、父の顔から表情が消える。
「そういうわけではない。エルのことよりも、私はむしろ騎士団長をこちらに取り込みたい。レイド・グランツもお前と同じで、根っこは狂犬のような男だからな。エルサーナ一人で手なずけられるならば、安いものだろう」
「とかいって、娘が嫁ぐのが気に食わないだけのくせにな」
ふふん、と鼻で笑ってライトが言えば、途端に父の顔が不機嫌そうに変わる。
これでいて、父は子煩悩だ。妹が嫁ぐ夜などは、あまりの落ち込みように笑うしかなかった。
エルサーナの結婚については、ずっと心配していたものの、いざ事態が動き始めるとそれはそれで面白くないらしい。レイドのことは、この数年の付き合いで、騎士団長としても人間的にも認めてはいるが、エルサーナの相手として、となると、それはそれで話が別だ、ということなのだろう。
レイドを手なずけるためだなんてうそぶいて、素直に喜べないひねくれ加減が自分に通じていると思うと、ライトもため息をつきたい気分になる。まったく、一国の宰相のくせに、面倒なことこの上ない。
「うるさい。そういうお前はどうなんだ。あの娘は連れてこないのか?」
父がそう切り返したとたん、ライトの顔が忌々しげにゆがんだ。
「アーシェのことはどうでもいいだろ」
「そう言うな。お前の専属侍女でもあるし、将来を考えている娘なのだろうに」
「まだ早い。専属になってからもまだ4ヶ月しかたってないんだ。明確な約束だってしてない。公的な場に引っ張り出せるような立場になっていない」
「…本音は?」
にやりと笑った父の言葉に、ライトは盛大に舌打ちをした。
「変な虫がついたら困る! お披露目するのは名実共に俺のものになってからだ。それまでは絶対夜会には出さないからな!」
言い捨てて、ライトはさっさと執務室を出て行った。その、乱暴に閉められたドアを、アレクサンドルはくっくっと笑いながら見やる。
まったく、いくつになっても子供はかわいいものだと思いながら。
ウォーロック家の親子関係を垣間見た感じで。
アレクも宰相になったころは大変だったんですよ。おかげで子供たちにちょっと引かれて、さびしい思いをしていたり。
当時、連日城に泊まり込みで根を詰めて、なかなか家に帰ってこない夫を気遣って、妻・シルヴィーヌが着替えや差し入れを持って行ったところ、シルヴィ自身を差し入れとしておいしくいただいてしまったとかw
短編書けそうな裏設定があったりします。