男の手管と執着と
布張りの赤い本を撫でる手を止めて、エルサーナは深くため息をついた。
あのときのことを思い出すと、今でも胸が痛む。後悔なんて、しない日はなかった。でも、あのときには離れることしか考えられなかった。
エルサーナは少しだけ袖を捲り上げた。そこに光る細い銀の腕輪に、指先で触れる。
あれからしばらくは、これを見るのもつらかったから、腕輪は机の引き出しの奥深くにしまいこんだ。忘れようと努力したし、夜昼なく仕事に打ち込んで、逆にシェルミラを心配させてしまったこともある。
ようやく気持ちが落ち着いてきても、レイドの姿を見かけるだけで、彼への想いで心はたやすく荒れ狂った。
視線が合う。声を聞く。噂を聞く。それだけで、凪いでいたはずの気持ちにさざなみが立つ。
離れてからは、どうしたってレイドへの想いは胸の中に生き続けていると、思い知らされるだけだった。だから、忘れることを諦めた。
密かに思うだけなら、誰にとがめられることもない。噂もされない。ぶしつけな視線にさらされることもないし、レイドへ矛先が向くようなこともない。
見たくなくてしまいこんだ机の引き出しから、贈られた腕輪を取り出す。これを捨てられなかった時点で、忘れるなんて無理だったのだと、そのときようやく気づいた。
この腕輪には、彼の想いが詰まっている。それがわかるから、胸が痛くて、苦しくて、でも嬉しくて、泣きたくなった。
そうして服の下に隠して、密かにレイドの腕輪を身につけた。レイドからもらった、唯一の贈り物。だけれど、こんな小さなものでも、ただただいとおしかった。
泣きたい夜も、さびしい夜も、恋しい夜も、この腕輪を支えに過ごしてきた。
もう二度と、男性とは付き合わない。結婚もしない。もとより、すでに純潔を失った身だ。ほかの男性の妻になれるはずもないし、この身はレイドただ一人のものと決めている。
そうして、一度はレイドを諦めて、華月宮で生きて行こうとがむしゃらに仕事に打ち込んで、もう5年だ。
あの夜の記憶があれば、生きていける。そう思いながらも、時には胸が締め付けられるほどに苦しくて、レイドを想って泣いた夜もあった。けれど、心の奥にしまってきた想いは、変わらない。
それが…。
「今になって、こんな…」
エルサーナは、腕輪を見つめたまま唇をかんだ。
レイドが、ライトとアーシェのことをきっかけに、再び距離を縮めてくるとは思わなかった。
ここ一年ほどは、レイドのほうからの視線を感じることもなくなっていたから、逆に、ずっと思い続けていく覚悟が出来ていたのに。
腕輪を身につけていることも、知られてしまった。それは、密かに心の奥に沈めていた想いを、レイドに知られてしまったと言うこと。
そのうえ、ライトの処遇を巡ってレイドの元に押しかけ、なりふり構わず助力を依頼したことが結果的に引き金を引いたと自覚している以上、拒絶もしきれない。
そしてなにより、それをうれしいと思う自分がいる。
ずっと押し殺してきた分、反動が大きいのかもしれない。もう、止められなくなってしまう。それが、エルサーナには怖かった。
それから数日後、レイドが華月宮への書類を持って訪ねてきた。いつもどおりに応接に通し、お茶を入れて出迎える。
けれど、うわべだけの実のない会話を交わした後に切り出された言葉に、エルサーナは戸惑った。
「次の休みはいつだ?」
「休み、ですか? 私の?」
「そうだ。いつになる?」
「ええと、今度の週末になりますけれど…」
「そうか」
いきなりどうしてそんなことを聞くのかと首を傾げるエルサーナの前で、レイドは悠々とお茶を飲む。
「いつもの茶の店に、紅茶のジャムを一瓶、頼んであってな」
「はい…」
話が見えないエルサーナにかまわず、レイドはカップを置いた。そうしてソファの背にもたれ、鷹揚に足と腕を組んで、ふっと笑った。
「好きだっただろう。いるか?」
「え!?」
確かに、その店の紅茶のジャムは好きだ。大好物だし、ちょうど切らしていて、次の休みには絶対に買いに行くつもりだった。それを先読みでもしたのかというタイミングだった。
「取りに行くのに付き合って欲しい」
「そ、そんな、急に言われても!」
「週末は休みなのだろう?」
にやり、と言う擬音が聞こえてきそうなほど、してやったりな顔で笑うレイドに、エルサーナは手も足も出ない。
「そんな聞き方、ずるいですわ!」
そう抗議するのが精一杯だった。
エルサーナは、その茶店をとても気に入っている。質のいい茶葉が手に入る上、店主の腕は一級品。焼き菓子やジャムの味も申し分なく、暇さえあれば顔を出す店だった。
それをレイドが知っているのは、その店は元々レイドに連れて行ってもらった場所だからだ。
「そうか、嫌ならやめておく」
「嫌なわけじゃありません!」
あっさりと引く言葉につい言い返して、そして真っ赤になる。行くと返事をしてしまったようなものだ。レイドはいつもどおり、鋭い目に穏やかな光を浮かべてエルサーナを見つめている。それがまるで、手のひらの上で転がされているようで、悔しい。
「なら、決まりだな。昼食の後、エントランスに一時だ。忘れるなよ」
そう言って、レイドは立ち上がる。なんだかはめられた気分だ。もちろん、うれしくないわけではないけれど、妙な敗北感にため息をつきながら立ち上がる。その、レイドから気をそらした一瞬に。
ぐいっと腰を引き寄せられた。
「きゃ…!」
至近距離に、レイドの顔がある。見る間に真っ赤になって固まったエルサーナを見下ろす視線が、焼けそうに熱い。
「ありがとう」
すっと顔が降りてくる。反射的に目を閉じた。唇に吐息がかかり、思わず震えた。
けれど、その熱が落ちたのは、唇ではなく、額。
レイドの指が、耳のふちをなぞり、顔のラインをたどって、あごの先をついっと上げた。
「楽しみにしている」
唇のすぐ上で、腰砕けになりそうなほど甘い声でささやいて、レイドはエルサーナを開放した。
「ではな」
レイドが出て行き、扉がぱたりと閉まると同時に、エルサーナはへなへなとその場に崩れてしまった。
…キス、されるかと思った。
体が熱い。唇が震える。触れられた耳はじんじんしていて、心臓がうるさいくらいに跳ねている。
(どうして、…どうしてこんな)
一度別れた女に、どうしてここまで執着するのか。
そして、自分も…どうしてこんなにレイドに執着するのか。
忘れられない、離れられない。触れられるだけで、こんなに体が歓喜する。
この先は、レイドの手に落ちる予感しかしない。それを、自分は受け止めきれるだろうか?