残された想い
それから、しばらくはレイドを避ける日々が続いた。
仕事のない日は自室にこもり、侍女の仕事でも外への用事は別の誰かに頼み、華月宮から一歩も出なかった。
外に出るのが怖かった。誰かの話を聞くのも怖かった。誰かに見られるのも怖かった。
すれ違った人が、自分を見ている気がする。談笑をしている人たちを見ても、自分とレイドの話をしている気がする。
みんなが、自分とレイドのことを知っている気がして、みんなが、自分たちの噂をしているような気がする。そんなはずはない、ありえないとわかっていても、一度抱いた疑念と恐れは、容易に消えてくれない。
何度かレイドの訪れがあったけれど、いずれも理由をつけて断ってしまった。
レイドに会うのが、怖かった。あんなに会いたいと焦がれていたはずなのに、今はどうしても会いたくない。
あのように噂されるくらいだ、きっとレイドの耳にも入っているはず。そうして、彼がどんな目で自分を見るのか、何を言うのか。
それを考えると、レイドに会うことすら…恐ろしかった。
様子の変わったエルサーナを、ほどなく王妃にも気づかれた。華月宮に来た頃のような憔悴した様子に心配して、何度も事情を尋ねられたけれども、エルサーナは頑として口を割らなかった。
おそらく、王妃もお手上げと思ったのだろう。ライトリークに呼び出されたのは、それからすぐのことだった。
「ったくさぁ、人の恋愛に首突っ込む趣味はないってのに、シェルミラ様も面倒ごとを押し付けてくれるよ」
明らかに迷惑そうな口ぶりで、ライトは王妃のバラ園でエルサーナを迎えた。
ここは華月宮でも、限られた人間しか立ち入りを許されていない。血縁であるエルサーナとライトリークは、その限られた一握りに含まれている。
誰かに聞かれる心配がないこと、部外者が近寄らないことを配慮してくれたようで、エルサーナにはありがたかった。
「で、何があった? 夜会の日からだろう? レイドが何かしくじったのか?」
けれど、面倒といいながらも、二人の事情を知るライトリークは、気を回して尋ねてくれる。
「そんなわけないわ。あなたと違って、レイド様はちゃんとエスコートしてくださったもの」
うつむきながら、小さな声で答える。
あのあと、夜会をすっぽかしたことを両親にも大叔父にも叱られたらしいライトリークは、うんざりしたように肩をすくめてみせる。
「じゃあその後か。あいつ、夜会の次の日はずいぶん浮かれてたけど、そういうなら問題なかったわけだろ。何が気に入らないんだよ」
あの夜のことを思い出すと、胸が痛い。
あの時はあんなに幸せで、ただレイドのことだけで頭がいっぱいだった。
まるで、儚い夢を見たように、今は遠い記憶に思える。
「レイド様は、何も悪くないの。これは、私の問題」
硬い表情でうつむくエルサーナは、ライトリークの言葉にも拒絶を見せる。頑なな態度で口をつぐんだままだけれど、きっとライトリークには彼女の内心はお見通しだろう。そういう機微を読むのは、彼の得意とするところだ。
「どうせあれだ、夜会でレイドにエスコートさせたからだろ。ウォーロック家の俺たちを抱きこんだとか何とか。なんかそれらしい噂聞いたし」
どうしてライトリークはそんなに簡単に言うのだろう。「自分達が持つ名前の重さを知れ」と、「ウォーロックの名は、知らず誰かを傷つけることもある」と、そう言ったのは、ライトリークなのに。
けれど、それを言うと、彼は呆れたようにため息をついた。
「あのな、相手を見ろよ。レイドがそんなものに振り回されるわけないだろうが。あいつはその辺はちゃんとわかった上で、腹くくってるんだ。余計な気を回すな」
「だけど 彼の名誉が傷つけられているのに、それをただ見ているなんて出来ないわ」
「じゃあエルに何が出来る。ほっとけばいい」
「そうはいかないわ、原因は私よ。噂になるなんて、わかりきっていたのに。夜会なんてやっぱりやめればよかった…」
後悔をにじませた一言に、ライトリークは余計に不機嫌そうに顔をしかめた。
「なに言ってんだよ、あいつはエルを守っただろう? それが誰のためか、わからないのか? くだらない外野の言うことなんか聞くな。何が正しいか、わかってるんだろ?」
「わかっているわ! でも、負けたのは私なの!」
思わぬ強さで叫んだエルサーナに、思わずライトリークは口を閉じた。
「私が…もう嫌なの。立ち向かえないの…。怖いの、誰かに何かを言われるのも、見られるのも、噂されるのも! わかっていても、本当はレイド様が私を利用したんじゃないかって、どこかで疑ってしまう。レイド様が私のせいでいらぬ不名誉を被っているのだと思うだけで、罪悪感に塗りつぶされるの! 噂を聞いてレイド様がどう思うか、私をどう見るのかが怖い。誰もがみんな私を見ている、噂していると思うだけでおかしくなりそうなの! レイド様と一緒でも無理なの、怖いの、嫌なの!」
高ぶった気持ちのままめちゃくちゃにわめいた。肩で息をしながら、涙が頬をぬらしているのに気づく。ライトリークは、そんな姉の姿を黙って見ているだけだ。
「レイド様には、ごめんなさい、とお伝えして。あの方は何も悪くないの」
「そんなの、自分で言えよ」
ライトリークがため息をついて、エルサーナから一歩左に体をずらした。その陰に隠れて、バラ園の入り口に立っていたのは。
「レイド様…!」
声が震える。あの夜から会えなくて、恋しいのに、恐ろしい。まっすぐにこちらを見る視線はゆるぎなく、エルサーナは見返すことすら出来なくてうつむいた。
何を言われるのだろう。緊張と不安に、心臓が早くなる。
「エル、元気だったか」
「…はい」
その、気遣うような声にまた涙があふれる。やさしいのに、愛しいのに、信じられなくて、怖い。
ライトリークの足音が遠ざかり、2人だけになると、沈黙が下りる。
「噂は、俺も聞いている。だが、俺はそんなものでは傷つかない」
静かなレイドの言葉。
「そんなのわからないわ」
けれど、すでに硬く閉ざしたエルサーナの心に、その声は届かない。
「どうしてわからないと思う?」
「今まで、みんなそうだったもの」
「俺は今までの男と同じだと?」
「違うと言い切れる証拠がありません。そのうち、言葉だけでなく、あなたを害そうとする人が出てくるかもしれない」
「大げさだ。もしそうだとして、そんなものに俺が屈すると思うのか?」
「わかりません。でも、ずっと続いたら、きっと私のせいって思うに決まっているわ」
「そんなことをするわけがない。俺が信じられないか」
「信じられません。でも、それはあなたが悪いわけではないんです。わかっているんです、頭では、レイド様は違うって。でも、どうしてもダメなんです」
レイドの言葉に、エルサーナは首を横に振り、応じようとしない。
穏やかな声は、あくまでも優しい。それなのに、言いくるめようとしているように感じる、自分の卑屈な心が心底嫌になる。
「それに、私、夜会のときに、あなたを盾にして逃げました」
泣きそうな顔で、エルサーナはぎゅっと両手を握りしめた。
「それは俺がそうしろと言ったからだ」
「本当はそんなこと、してはいけなかったんです! 立ち向かう勇気もないくせに、舞い上がって、あなたに甘えて、逃げた。私は、自分が許せないんです。たとえ誰が許しても、レイド様が許してくださっても、私は私が許せません!」
もう何が言いたいのかわからない。でも、ただ、逃げたかった。
一人になりたかった。思い煩うのが嫌だった。何もかもが怖かった。
「私といてはいけません。あなたが貶められるのを、私は見ていられません。信じられない自分も嫌。立ち向かえない自分も嫌。見られるのも、噂されるのも、何もかもが怖いんです。…お願い、もう終わらせてください。私が弱いのが、すべての原因。悪いのは、私です…」
レイドの顔を見られなかった。うつむくと、堰を切ったように涙があふれる。
こんなに好きなのに。一緒にいる道を、私は選べない。
「…わかった。お前の望むとおりに」
しばらくの沈黙の後、レイドは静かにそう言った。
…傷つけてしまった。自分を守りたいばかりに。でも、そうなってもなお、レイドのためなのだと言い訳する自分を、消してしまいたかった。
「エル、これだけ受け取ってくれ」
そう言って、レイドは制服のポケットから、ハンカチに包んだものを取り出した。手のひらの上でそれを静かに開く。
「誰にやるあてもない。安物だ。気に入らなければ捨ててくれてかまわない」
エルサーナの手を取り、その手のひらの上に、壊れ物のようにそうっと置く。
そうして手に残ったのは、細い銀の腕輪。小さな石があしらってあるそれは、確かにエルサーナからしたら高価なものではない。けれど、レイドの思いが込められた、価値の計れないものだ。
それを両手で抱くようにして、ただ泣きじゃくるエルサーナの髪をそっと撫でて、レイドは無言で去っていった。
「いいのかよ」
庭に続くドアの向かいの壁に背中を預けて、戻ってきたレイドにライトリークが問う。
「逃げてもいいと言ったのは俺だからな。…まんまと逃げられてしまったってわけだ」
表情を変えることなく、レイドは淡々と言う。…内心の荒れようは、知るべくもない。
「今は何を言っても無駄だ。しばらくそっとしておくしかない。俺がそばにいることでエルが苦しむと言うのなら、離れてほとぼりが冷めるのを待つしかないだろう」
「…いつまで待てる?」
その問いに、初めてレイドがあいまいな笑みを浮かべた。いつもの冷静で何事にも動じない彼に不似合いな、どこか弱った気配で。
「さあな」
それを一瞬で消して、レイドはその場を後にする。
ライトリークもまた、それを無言で見送った。
過去編これにて終了です。いかがでしたか?
エルのうじうじっぷりはここがピークです。ホントすみません。
次回より、現在進行形に戻ります。