キスを
少々痛い描写かもしれない箇所があります。
「お前達姉弟は、よく似ている」
不意に落ちてきた言葉に、エルサーナは顔を上げる。多少の憂いを感じる瞳が、気遣うように自分を見下ろしている。
「どういうことですの?」
「あいつがここに来なかった理由だ」
そうだった。自分のことで頭がいっぱいだったけれど、帰ってきたライトは、明らかに様子がおかしかった。
「先ほど体調を崩したとおっしゃってましたけれど、そうなんですの?」
「どちらかと言えば、体そのものよりも、精神的なバランスが少し崩れたといったほうがよさそうだ。帰ってきたとき、あいつはどんな様子だった?」
「何か…厭世的というか、退廃的というか、とても投げやりに見えました。血がついた隊服のままで、私のエスコートなんかやっていられない、わずらわしい、くだらないって、なんだか無表情で、まるで感情がないみたいで…。何があったんですか?」
ライトがあんなになるくらいだ、よほどひどい事件だったんだろうと予想はつくけれど。
「4歳の女の子が誘拐された。見つけたときには、暴行を受けて虫の息だったが、…むしろ、精神が死に瀕していたようなものだ」
「暴行って…」
まさか、と最悪の想像に蒼白になるエルサーナを、レイドはすぐに抱き寄せる。
「やめておけ、考えるな」
言われたとおりに、レイドの胸に顔を埋めて、エルサーナは深呼吸を繰り返す。レイドの手は、なだめるように何度もエルサーナの背を撫でていてくれた。
「犯人を切り刻んで、とどめを刺そうとしていたところを俺が止めた。それで、昔の揺り返しが来たんだろうな。城に戻って最低限のことだけ済ませて、姿をくらました。ああなったら、あいつは酒と女に逃げる。そうしないと、世の中のすべてを壊して、自分も消えてしまいたくなるらしい」
ライトの仕事のことは、エルサーナはよく知らない。だから、そんな残酷な現場を見ていることも、それで昔のことを思い出して苦しんでいることも、それをだましだましやり過ごしていることも、何も知らなかった。
「お前達は、優しすぎるんだな。2人とも、自分を責める。あいつは、女の子を守れなかったことを自分のことのように責めている。お前は、そんなライトに気づかなかったことで心を痛めているだろう」
「だって、知らないことは罪ですもの。それで幾人もの人を傷つけました。ライトも、私のことを無神経だと思っているでしょうね」
ライトが帰ってきたとき、何があったかを聞く前に、エルサーナはこの夜会のことを心配した。一人では行けないのだと、ライトを責めた。
「本当に、嫌になります。自分の視野の狭さが。自分の事しか考えないわがままさが。だから、私は何も知らないままでいたくありません」
「知らなくていいこともある。知っていても、手を出すべきでないときもある」
「わかっています、でも…」
自分が無知なせいで、自分が何も見ていないせいで、傷つく必要のない人が傷つく。そんな場面を何度も見てきた。全部を知ろうとするのは無理だとわかっていても、心を痛めずにはいられない。
「そういうときには、俺がいる」
レイドの言葉に、エルサーナははっと顔を上げた。
「お前はお前の好きにするといい。俺は俺で勝手にお前を癒してやる。だから好きに悩め」
今までどおりでいいのだと。そう言ってくれるレイドのやさしさが痛い。でも、それすらも甘さを伴って、いっそうエルサーナの気持ちを引き寄せる。
「はい。勝手にします」
だから、その言葉には、素直にうなずいた。
甘えるようにレイドの胸に擦り寄ると、大きな手に顔を上げさせられた。
いつの間にか熱を伴って見下ろす視線に、胸がきゅうっと音を立てる。
エルサーナは目を閉じて、下りてくる唇を受け止めた。
エルサーナは夜会の間中、レイドから一度も離れなかった。
レイドはエルサーナに付き従い、まるで儚い花を守るかのように、さりげなく誰かが近よろうとすることすら許さなかった。
そしてそれは散会するまで変わることなく、エルサーナは1年ぶりの夜会を無事乗り切ることができた。
帰りは、ウォーロック家の馬車にレイドと2人で乗り込む。家族はみんな屋敷に戻り、エルサーナとレイドは城へ帰るので、ここでお別れだ。
レイドのエスコートでエルサーナが馬車に乗り込むと、レイドがその隣に座る。外と隔てられた狭い箱の中、思わぬ近さに気がつくと、知らず、緊張してしまう。
襟元をくつろげるしぐさがどこか艶めかしくて、思わず見とれる。
ふっとため息をつき、少し落ちかけた夜色の髪をかき上げる指に、心臓がどきりと跳ねた。
(いやだわ、どうしてこんなに緊張するの…?)
自分でも戸惑うほどに、落ち着かない。レイドの礼装に? それとも自分の姿に? アルコールのせい? 夜会の高揚感? または、こんな時間、密室に2人きりでいること?
そのどれもが当てはまるようで、どれもが違う気もする。ただ、思いのほか近いレイドの体温や、息遣いが伝わってきそうで、なんだか逃げ出したいような気にすらなってくる。
すると不意に、膝の上においていた手に。
大きな手が、重なる。
驚いて顔を向ければ、すっと視線を流したレイドが、唇の端で密かに笑った。
何も言わない。たったそれだけ。けれど、エルサーナは真っ赤になってうつむいてしまう。そして、小さな手は、そのままレイドの手に奪い去られた。
ごつごつした指が、絹の長手袋にかかる。するりとそれを脱がされて、もうどうしていいかわからない。もう片方も、躊躇なく脱がされて、その際に肌を滑った指先に、くっと息を飲み込んだ。
それから、足を組み、窓枠に片肘を突いて、どこか余裕ありげにレイドはエルサーナを見つめる。
自分を捕らえたまま動かない視線に対して、その指は、エルサーナをゆっくり侵食するように絡んでいく。
手袋をはずした素肌同士が、ぴたりと密着する。どくどくと脈打つ鼓動が、手のひらから伝わってしまいそうだ。
と、ぐいっと手を引かれた。
「あ…!」
バランスを崩し、レイドの腿に手を付く。反射的に上げた瞳に、息がかかる距離にあるレイドの顔。
「っ!」
とっさに息をつめる。
くい、とあごをつかまれて、もう逃げられない。
それなのに、レイドは動かなかった。エルサーナの次の行動を、待っているように。
見ていられなくて、逃げるように目を閉じると同時に、唇が重なった。
絡んでいた指を離されて頬にすべり、深く口付けられる。
やわらかくエルサーナを追い詰めるそれは、記憶にある元婚約者のキスとは、熱さも動きも全然違っていた。前はただ性急に口の中を動き回るそれに戸惑うばかりだったのに、レイドの舌は、ゆっくり、けれど明確な意図を持ってエルサーナの口内を探る。歯列をなぞり、びくりと震えれば、なだめるように歯の合わせを舐められる。促すような動きに、おずおずと入り口を明け渡せば、それが中にゆっくりと入ってきた。
直接触れるその熱さに、めまいがする。舌先を弾かれて、首の後ろがぞくぞくする。
強く肩を抱きこまれた。息が苦しい。ゆっくりゆっくり絡む舌に、とろとろと溶かされていくようで、体の力が抜けてしまう。
そっと離れたレイドの大きな手が、頬を愛おしそうに撫でる。息が上がったまま、潤む瞳で見上げれば、レイドの視線に熱気がこもった。
「エル。今日は…帰したくない気分なんだが」
その一言で、エルサーナの背筋が、冷水を浴びたようにざっと冷たくなる。
元婚約者には、何度も誘われていた。けれど、『結婚まで大事にしたい』『怖いからもう少し待って』と、何度も断った。そのたびに、彼は不満そうに、『僕らの結婚は決まっているんだから、いいじゃないか』と言い募られたものだ。
それなのに、暴かれた彼の本心は、『やらせてくれない女に用はない』の一言。
どうしよう、離れがたい気持ちはあるけれど、まだ怖い。ここで断ったら、レイドにも不満に思われるかもしれない。
男の人の気持ちがわからない。経験もない。どうしたらいいんだろう。
急に硬くなったエルサーナの体。幾分青ざめた顔で、不安げに見つめる表情。すぐに察したレイドの瞳が、甘さを増した。
「すまん、怖がらせるつもりはなかった。今のは気にするな」
「で、でも…」
震える声が愛おしい。迷うということは、少しでもその気があるからだ。レイドには、それさえわかっていれば十分だった。小さな体を、両手できゅうっと包み込む。
「まだ怖いんだろう、わかっている。そういう時は断っていい。無理やりする趣味もない。だからといってお前を嫌うような男に見えるか?」
ふるふる、とエルサーナが首を横に振る。わずかに笑んで、レイドはエルサーナの耳に小さくキスをする。
「わかってくれているならそれでいい。代わりに、城に帰るまでの間、キスを」
「本当に、それでいいの?」
小さな声に応えて、レイドは少し体を離して、エルサーナを見下ろす。
「ああ。かまわん」
そして、エルサーナの瞳が閉じるのを待ちきれず、唇を重ねた。
今まで、レイドとは重ねるだけのキスがほとんどだった。
けれど、今日のキスはすぐに深くなって、エルサーナを翻弄する。最初は優しかった唇も舌も、獰猛にエルサーナをさらおうと動き出す。
絡まる舌が熱い。アルコールの混じった香りで、頭の芯が揺れる。唇を柔らかく食まれて、思わず声を上げると、また深く重なって、舌に奥まで探られる。
まるで捕食されていると錯覚するほどの激しさに、エルサーナの声が止まらない。切ない泣き声に煽られたレイドが、エルサーナとのキスをより深くする。
そのうち、力の抜けた体を、レイドはもどかしそうに自分の膝の上に抱き上げた。そして、逃がさないとばかりにぐっと腰を引き寄せて、飽くことなくその唇をむさぼった。
…ともすれば、体に沿わせて滑り出しそうになる手を、全力で押しとどめながら。
レイド様えろいです。