第三話『約束』―3
ガチャ。
会議室の扉が開いて、入ってきたのは全身黒尽くめの――
「泰騎ー! 二十四歳の誕生日おめでとうー!」
スーツ姿の雅弥だ。
その後ろには、謙冴が立っている。
泰騎はきょとんとして迎えた。
「あれ? 社長、暇なん?」
「暇じゃないよー。忙しい合間を縫って来たんだよ。だって、大切な弟の誕生日じゃないか」
「社長聞いてー! 泰ちゃん、子どもが欲しいんだってー」
雅弥の腕に絡み付いて、倖魅がニヤニヤ笑っている。
雅弥は顔を引き攣らせた。
「泰騎……まさか、とうとう、遂に、どこぞの娘さんを孕ませてしまったのかい? 胎児とはいえ、大切な命。もし娘さんに産む気がなかったとしても、ちゃんと産んで貰ってね。産婦人科の手配から、娘さんへの慰謝料と、勿論、赤ちゃんはウチの施設で面倒見るから――」
「いやいやいや。孕ませとらんし。恐いこと言わんで」
「あ、そうなんだ。泰騎の子ども、興味あったんだけどな。まぁ、僕に手伝える事があったら言ってね」
「またそん時にな。それより、社長ももう四十歳なんじゃし。自分の事考えたらどうなん?」
「耳が痛いなぁ。お見合いも、会って断るのに疲れちゃったんだから。僕も子どもだけ欲しいなぁ」
チラリと、当て付けのように凌を見ると、白髪の青年は苦笑を返してきた。
過去に「養子にならないか」と誘ったが「苗字が変わるのは嫌だ」という理由で断られている。
当時、死んだ両親への想いが強かった凌にとって、苗字は大切な両親との繋がりだったので仕方がない事だと諦めたが。
「凌、そろそろ僕の養子に――」
「お断りします。『二条凌』って、なんだか『二条城』みたいじゃないですか」
「え……そんな理由?」
凌の言い分に耳を疑う。尤も、凌にとっては深刻な問題だ。名前というものは、一生自分に付いて回る。
「凌ちゃんが甥っ子になると、何かワシ、めっちゃ年食った気になるなぁ。でも凌ちゃんならええわ」
「凌なら安心して社長を任せられるな」
義兄弟はまんざらでもない様子だが、凌は口元を引き攣らせた。
「いや、あの……オレは今のままで……」
「じゃあ、僕らが苗字を凌に合わせようか! 『芹沢雅弥』。うん。良いカンジ――」
「ぜんっぜん良くないよ! 企業の社長が、簡単に苗字を変えるとか言わないで! 諸々の手続きが面倒臭いし、社長だって各所への挨拶回りが大変だよ!? ボクは手伝わないからね!」
血相を変えて叫ぶ倖魅に、雅弥が口を尖らせた。
「えぇー? 倖魅ー、何とかしてよー」
「ボクは青い猫型ロボットじゃないよ! 何でも出来るわけじゃないんだから!」
「倖魅のイケズぅー」
「イケズで結構だよ。凌ちゃんも、社長が五月蠅いからさっさと養子になっちゃいなよ! ボクらの場合、フルネームで呼ばれる事なんて滅多にないんだから。凌ちゃんを養子にする方が、戸籍データを書き換えるのが遥かに簡単だし」
何故か理不尽に怒られ、理不尽な事を押し付けられている凌が、自分の額に手を添えて項垂れた。
「倖魅先輩が言うと本当にやりそうで恐いから、止めて下さい」
「うん。明日には『二条凌』にしておいてあげるね」
「だから、止めてくださ――」
「わぁー! 有り難う倖魅! あ、凌、何なら僕と一緒に住む? 最上階、広くて寂しかったんだよねー」
「ちょっと! 人の話を聞いて下さい! ツッコミが追い付かない! 謙冴さん! 謙冴さんはどこに行ったんですか!? 助けて下さいよ!」
凌が悲痛な叫びを上げる。
離れた場所で他の事務所員に囲まれている謙冴が、小さく嘆息した。
「雅弥」
ひと言。謙冴が声を上げると、雅弥は不機嫌そうに謙冴を見返した。おやつを待たされている子どものような顔で。
「立派な養子が居る謙冴は黙っててくれる?」
「その『立派な養子』が到着したようだ」
謙冴の言葉と寸分の違いなく、会議室の扉がノックされた。返事を待たず、扉が開く。
黒髪に眼鏡の青年が立っている。
青年は人当たりの良い笑みを室内に向け、一礼した。
「失礼します。空中景です」
謙冴に軽く頭を下げ、景は潤の前で歩みを止めた。
「お久し振りです。潤さん」
「あぁ。久し振り。留学していたんじゃなかったのか?」
「はい。諸々の試験を受けて来まして……この度、合否が出て、正式に潤さんの担当検査員になれました。誠心誠意務めさせて頂きますので、宜しくお願いします」
にっこり笑い、景が深々と頭を下げる。
潤の肩に顎を乗せ、泰騎が景に向かって手を振った。反対の手には、二本目のシャンパンが握られている。
「景ちゃんが担当なら、安心じゃなぁー」
「泰騎さんも、お誕生日おめでとうございます。プレゼントがなにも用意できず、すみません。お元気そうで何よりです。僕の籍は本社に在りますが、ゆくゆくは事務所の方々全員を担当させて頂けるように話しを進めているので、宜しくお願いします」
再度頭を下げる景に、泰騎も再びヒラヒラと手を振って笑った。
「ええよ、ええよー。堅苦しくせんで。気軽によろしくー。もう酒は飲める年になったんじゃったっけ? 良かったら呑んでってー」
「有り難うございます。でも父に睨まれたくないので、今度の機会にご一緒させて下さい。ところで潤さん」
潤と目が合うと、景は手帳を開きながら続けた。
「書類だけだとよく分からない事も多くて……近々、問診と――今回の検査も中断してますから、再検査をしようと思っているのですが、都合の良い日を教えて頂けますか?」
肩に泰騎の頭を乗せたまま、潤も手帳を確認している。
「来週の土曜日なら。時間はそっちで決めてくれて良い」
言われ、景が手帳に記す。
「じゃあ、九時に」
スケジュールが決まったタイミングで、泰騎が口を開く。
「S室、もう直ったん?」
「はい。僕は直ってから見たのでよく知りませんけど。一日で直ったみたいですよ」
「さっすが。謙冴さんが修理の手配すると早いなぁー」
シャンパンのボトルを傾ける。
泰騎は潤の肩から離れると、軽い足取りで倖魅の元へと歩いて行った。