第二話『来訪者』―12
「これって、どういう状況なんですか?」
大衆向けファッションブランドのロゴ入り大袋を提げた凌が、部屋の出入り口で突っ立っていた。
扉は扉の形を模さず、端の方で折れ曲がっている。室内はもっと酷い有様で、ガラスと液体と書類が散乱し、机や棚は所々溶けてゲシュタルト崩壊を起こしていた。
「あー。後で説明するから、取り敢えずその服を潤先輩に渡してくれ」
尚巳は、燃え残った領収書を集めている。取り敢えず、一週間を費やしてまとめた領収書とノートは本棚に置いていたお陰で無事だ。良かった。なにせ、この研究室にはまた後任が来るのだから。
一週間を共に過ごした“上司”が死んだのだが、尚巳の中では悲しみよりも嬉しさの方が勝っている。それは、杉山が死んで嬉しいという意味ではない。度々感じていた疎外感を払拭する程、今回尚巳に充てられた役割は大きかった。
「何ニヤついてんだよ。気持ち悪……」
凌が嫌悪感を向けてきても、全く気にならないくらいには歓天喜地していた。
そんな尚巳を訝しげに眺めていた凌だが、潤に向かって服が一式入った袋を差し出す。
「えっと、潤先輩、検査日だったんですよね……? 潤先輩が着る服だって知っていたら、もっと良いものを買って来たんですけど……」
「あぁ。悪い。代金は後で払うから」
「いえ、お金はいいです。受け取ってください。それより、寒いでしょうからどうか着替えてください」
先程水無が起こした炎の所為で、空調もイカレてしまったようだ。地下ということもあり、現在は少しひんやりした空気が漂っている。
凌から服を受け取った潤は、控えめに恵未の方を見た。恵未は気にしていないが、倖魅が恵未の肩を指で突く。
「恵未ちゃん、潤ちゃんが着替えるから。廊下行こうか」
「え。何で? 私は気にしないわよ」
恵未がそう言うので、潤は検査着を脱ぐ為に前で結んでいる紐を解こうとした。が、倖魅に手で制される。
「潤ちゃん。せめて隅っこで着替えて」
倖魅に言われたので、壁に寄る。
目の前に、炭になった杉山が居た。なんだかんだで、十五年間自分の体調と記録管理をしてくれた人物だ。殺されかけたこともあるが、嫌いというわけではない。ただ少し、自分に向けられた感情が煩わしかったと思う。それだけだ。
尤も、杉山の場合は人を人として認識しない。杉山自身も含め、平等に『生物』として考える。そういう点は、潤にとって有り難かったかもしれない。その事に気付いたのも、ここ数年の事なのだが。
検査着を脱ぎながら、潤は自分の身体を眺めた。
年二回。穴を開けられたり切り落とされたり――散々な目に遭ってきたが、身体に傷は残っていない。どの部位に何をされたのか、潤自身がすっかり忘れてしまう程、綺麗だ。
「潤の身体が綺麗なんは知っとるけど、そんなに見とらんで早う着替えようや」
タグをナイフで切り、泰騎が下着を潤へ渡す。
「悪い」
「ほんまにそう思っとる? っていうか、何に対しての『悪い』なんかなぁー」
何故だか気が落ち着かないのを表すように、次々にブチブチと服やズボンのタグも切り取る。
「まぁええわ。今回は未然に防げたわけじゃし」
ポイポイと服を投げる泰騎。それを潤は頭で受け取り、順に着ていく。
「……自分を大切に……か」
小学校の学級目標のようなフレーズを、口に出す。尤も、小学校へ通った事は、潤も泰騎も倖魅も、ない。
「潤に出来るとは思えん目標じゃな。あ、コレ燃やしてくれ」
泰騎が切り取ったタグを投げると、空中に在る内に、潤が点火する。タグは一瞬、鮮やかな炎に包まれて消滅した。
「努力はする」
潤が呟くと、泰騎は難しげに溜息を吐いた。
「うん。出来る範囲で頑張れ」
胸の閊えが晴れない事を『嫌な予感』として片付けて良いものか――泰騎が思案しかけた時、大量の資料を抱えた倖魅が、泰騎を呼んだ。
「手が空いたら手伝って! 潤ちゃんの身体データと杉山さんの研究データ、移さなきゃ、外部に出たら大変だから!」
夜逃げのような格好になっている倖魅に、泰騎が適当に返事をする。
潤は服の首元から、長い髪の毛を抜き出したところだった。
「倖魅、パソコンのデータは抜いたか?」
「うん。だから、杉山さんの部屋にあるパソコンは壊して良いよ。っていうか、壊して」
「了解」
言うが早いか、潤は更に奥にある杉山の部屋へ入り、パソコンを宙に投げた。先程のタグのように――とはいかないが、黒く溶けた塊が、黒い煙を上げている。
その場に居た全員が思った事を、泰騎が口に出す。
「体に悪そうな煙じゃな」
言いながら、杉山の所持品であるピッケルで、パソコンの残骸を引っ掻き回している。
「よし。こんだけ黒コゲになりゃ、復元も出来んじゃろ」
と、泰騎が杉山の部屋を見回す。ベッドやテレビなどが置かれている。そんな中に、実験用にこの研究所に招かれたマウスたちが、ケージの中で体を寄せ合っているのが見えた。
幸い、研究室で実験に使用されていたマウスは、現在はもう居ないようだ。ここには、実験待ちのマウスしか居ない。
泰騎は頭を掻くと、マウスの入っているケージを持ち上げた。
「倖ちゃん、こいつら……後任が来るまでどうするん?」
「あー、そうだね。後任を頼んでる子が本格的に来れるまで二週間くらい掛かるみたいだから……泰ちゃん、面倒見る?」
「それは勘弁じゃわ。実験用マウスって、無菌状態じゃねぇと駄目なんじゃろ? 無理じゃな」
「じゃあ、隣りの研究室に持って行こうか。幸い、隣りの研究室は無事だから。連絡はボクがしとくよ。あ、でもそれ重そうだから、泰ちゃん運んできてくれる?」
見るからに力仕事の出来なさそうな、細長いシルエットの倖魅が、泰騎を隣りの研究室へ行くように促す。
倖魅が入り口のロックに人差し指を翳すと、難なくロックが解除された。研究室の人間でない倖魅の指紋は、当然ながら登録されていない。もっと言うならば、ここのロックは指紋認証ではない。
「その辺の机に置いといて良いと思うよ。みんな、数時間で戻って来るだろうし」
倖魅に言われた通り、泰騎はマウスを机に置く。
「さて、と。粗方片付いたし。後は社長と謙冴さんと後任の子に任せて、ボクらは帰ろうか。潤ちゃん、このドア溶接できる?」
「あぁ」
全員部屋から出た事を確認し、潤がドアと外枠を熱で接合していく。
終わると、後ろを向いた。
「そうだ。俺の為に休みが潰れたんだし……皆、食べたいものがあったら――」
「はい! 新しく出来たパンケーキ屋さんか、フレンチトーストのお店に行きたいです!」
潤が全て言い終わる前に、恵未が元気よく挙手と共に希望を述べた。
凌が顔を渋らせる。
「昼飯にパンケーキはないな。オレ、今日はうどんが食べたいです」
「おれは最近この辺に出来たっていう、チーズ専門店に行ってみたいです」
「ボクはパスタが良いなぁー」
次々と出される意見を聞きながら、潤は泰騎と交視した。
「ワシは何でもええよ。ジャンケンする? それか、バイキングとか、ビュッフェとか……ファミレスとか? まぁるく納まるのがええなぁ」
と言ったところで、泰騎のプライベート用スマートフォンが振動した。
「はいはーい。どしたん? うん。え? あぁ。ええよ。十五分くらいしたら行くわ。んじゃ、また後で」
通話が終わると、泰騎は首を竦めた。
「ごめん。呼ばれたから行ってくるわ」
「あぁ。程々にしとけよ」
「うん。じゃ、また月曜日になー」
言い終わる前に、泰騎は廊下を駆けて行った。
「泰騎先輩、今日は男女どっちに呼ばれたんですかね」
泰騎の通った後を眺めながら、尚巳が呟いた。
「さぁ。まぁ、どちらにしろ、今日は帰って来ないんだろ。で、どうするんだ? ジャンケンか?」
潤の言葉に、その場に居るメンバーが身構えた。
「凌ちゃんには絶対に負けない自信がある!」
「いつもオレが負けると思ったら、大間違いですよ」
「まぁまぁ。どうせ、おれか恵未のどっちかになるんだから」
「そうよ。パスタとうどんにはならないわ」
たかがジャンケンをする前とは思えない程、空気が張り詰めている。
潤にとっては、慣れた光景だ。
そして、数十分後には、みんな揃って――しかも五人中四人は男という状況で、パンケーキ屋に居る姿も、何となく想像できた。