第1話 ガンツの娘(後編)
5
新しい酒壺と椀を持って主人が来た。
バルドのコップに酒をなみなみとついだ。
もうけさせてもらった礼なのか、不愉快な思いをさせたわびなのか。
主人は、どかっと椅子に座ると、自分の椀にも酒を注ぎ、ぐっとあおった。
ぽつりぽつりと、主人は話し始めた。
この街は、岩塩の切り出しで成り立っている。
人望のあった町長が死んだあと、ブランドーという男がやって来て、仕事を仕切るようになった。
ブランドー自身は、なかなかのやり手で度量もあるが、現場を監督するブランドーの五人の息子たちは、暴力で作業員たちを支配し、街の人たちを借金で縛り付け、横暴な振る舞いをするのだという。
ブランドー一家には腕利きの男が十人少々いるが、息子たちに劣らないならず者らしい。
こんな街には将来はないと見切りをつけ、養い子の少女をパルザム王国のミスラの街に住む従兄弟に預けることにした。
ミスラには、学校がある。
主人は、貯金をはたいて学費を支払い、入学許可書を得た。
少女は、死んだ妹の娘であるという。
明日の昼に出る乗合馬車で、少女は川沿いの街リンツに行く。
御者が古くからの知り合いだという。
リンツ領主の交易船でオーヴァ川を渡り、交易馬車隊にミスラまで連れて行ってもらう。
リンツ領に知り合いの役人がいて、しっかりと頼み込んである。
このガンツでの契約期間が終わったら、主人もミスラに行って食堂をやりたいのだという。
旦那のコルルロースのおかげで小遣いを持たせてやれるよ、と言いながら、主人はバルドに酒をつぎ足した。
その様子に、かわいい姪を送り出す寂しさを感じたバルドは、主人の椀に酒を注いだ。
6
部屋に戻ったバルドは、鞘から剣を抜いて刀身を検めた。
灯芯に点火して、剣を照らす。
何か所かに、わずかな曇りがある。
布で丁寧に曇りを拭く。
どれほど疲れていても、一日の終わりには必ずこれをする習慣である。
手入れの終わった剣を、右手で振ってみる。
大きく右上に振りかざすと、肘と肩が痛む。
古傷が、またぞろうずきだしたようだ。
上から下にたたき付ける攻撃は、うまくない。
次に、左下から右上に向かって剣を振り上げてみる。
このやり方なら、右肘を伸ばしすぎないかぎり、ほとんど痛みがないようだ。
剣を使う必要があるときは、このやり方がよい。
いざとなれば痛みは無視できるが、わざわざ体を痛めつけることもない。
剣を鞘に収め、眠りについた。
明日は昼まで寝て、馬の手入れと荷物の点検をしながら、ゆっくりと過ごす。
足りない物があれば、買っておく。
明日も泊まって疲れを取り、三日目の朝早く出発するのだ。
7
一階が騒がしい。
バルドはベッドから降り、少しだけ部屋のドアを開けた。
階下のやりとりが聞こえてくる。
「そんなこと言うなよ、店長。
看板娘を、俺たちに断りもなく都会にやるなんて、ひでえじゃねえか。
この店のオーナーは、うちのおやじだぜ?
あいさつってもんがあるだろう」
主人は、もう馬車の出発の時間だからと、怒りを含んだ声で言うが、相手にそれを聞く気がないのは明らかである。
ならず者たちにばれないように、街の人々にも出発は内緒にしてあったはずだが、どうも乗合馬車の御者が、うっかりもらしてしまったようである。
バルドは、身支度を始めた。
その動きは素早い。
目には強い光がともっている。
長年の習慣で、いざというときには瞬時に戦闘態勢に入るのだ。
もはや、疲れも痛みも感じていない。
「半年でいいやな。
娘を、うちのおやじの所に奉公に寄越しな。
それで、今までのあんたの不義理には、目をつぶってやらあ。
娘にゃ給料だって払ってやる。
それだけじゃねえ。
いろいろと教え込んでやるぜえ。
いろいろとな。
ええ?
どうだい。
悪い話じゃねえだろう」
仲間が相づちを打ち、下卑た笑いを響かせる。
階下のやりとりを聞きながら、バルドはブーツを履き、革鎧をまとい、剣を腰につり、マントを掛け、手袋をはめ、帽子をかぶる。
少女が、放してっ、やめてっ、触んないでっ、と気丈に叫ぶ声が聞こえる。
バルドは、手際よく、しかし落ち着き払って装備を調え終わり、音を立ててドアを開けた。
階下にいる者全員が、バルドを見上げた。
張り詰めた空気の中、バルドは、ブーツの音をさせて、ゆっくりと歩く。
カウンターの近くに、バトルアックスの男がいる。
ブランドー兄弟の長兄マキアスであろう。
ぐっと奥まった位置のテーブルに尻を乗せているのが、三男のジェロニムスと思われる。
投げナイフが得意であるという。
入り口で少女を捕まえているのが、五男のケイネンに違いない。
左手に弓を持ち、背中に矢筒を背負っている。
ぎしっ、ぎしっと階段をきしらせながら、バルドは一階に下りてゆく。
ならず者たちの様子を観察しながら。
どうやら、この男たちは、バルドが出てくることを予想していたようだ。
バルドがこのまま下りてゆけば、三方から敵に挟まれることになる。
だが、歩みを緩めることなく、バルドは一階に降り立った。
左側の三男に視線を送る。
右手を左の懐に差し込んでいる。
吊りベルトに投げナイフを差し込んでいるのが、ちらりと見える。
投擲用にしては大きなナイフだ。
右側のカウンター近くでは、長男がバトルアックスを手元に引き寄せている。
正面の入り口に立つ五男が、少女から手を放して、矢筒から矢を取る。
自由になった少女は、カウンターの前にいる主人の元に走り寄って抱きつく。
三人のならず者の注意は、ただただバルドに向けられている。
このとき、バルドの胸に遊び心が湧いた。
どうせなら、思いっきり派手なやり方でこの場をさばいて、ならず者たちから戦意を奪ってみせようか、と。
失敗すれば命に関わるけがをすることになるが、惜しい命ではない。
そもそも死に場所を探して旅をしているのだから、罪なき民を助けて死ねるとなれば、まさに望むところではないか。
大けがをしたなら、命が尽きるまでにこの三人を斬り殺すまでのことである。
だが、できれば。
しこりの少ないやり方でこいつらを追い払うのが上策に違いない。
左を向き、目に力を込めて三男をにらんだ。
三男は、ごくりと喉を鳴らして、ナイフを強くにぎった。
バルドは、ふいと目線をそらし、入り口方向に三歩進んだ。
五男が、ぎくりとした様子で、弓に矢をつがえる。
その五男からも視線を外し、長男のほうに向き直って、立ち止まった。
今、長男とバルドと三男は、直線上に並んでいる。
三男は、バルドの隙を探しているだろう。
バルドは、ばさっと音を立てて、マントを跳ね上げた。
マントの左裾が左肩に掛けられたため、左腰に吊った剣があらわになる。
剣を抜きやすくするためにマントを跳ね上げたと、誰もが思う。
そして、その結果、左脇が無防備にさらされていると。
さらにバルドは、マントの左側の留め紐を外した。
これで真後ろからでも左脇腹が見える。
投げナイフで狙う場所は限られている。
基本的には腹か胸か背中のいずれかであり、距離が近く条件も調っていれば、顔や首を狙うこともある。
今、バルドの左脇腹以外は、帽子やマントや鎧やブーツに覆われている。
三男の視線は、さらされた脇腹に注がれているはずである。
沈黙の重さに耐えかねたのか、長男が口を開いた。
「老いぼれ、何のつもりだ?」
相変わらずの憎々しげな物言いだが、正体の知れない相手を少しは不気味に感じているのか、挙動に手強さを予感しているのか、声が少しかすれている。
バルドは、沈黙を保ったまま、一歩前に踏み出した。
後ろで三男が動く気配がする。
ナイフを振り上げて構えているのだろう。
「まさか、俺たちとやる気か?
たった一人で」
バルドは、さらに一歩踏み込んだ。
急ぎすぎてはいけない。
動作を起こすタイミングは、敵が教えてくれる。
「おもしれえじゃねえか。
そんなら」
長男がちらりと三男に目で合図を送る。
今だ!
「抜けっ!」
と叫びながら長男が横に飛んだとき、バルドはすでに動作を開始していた。
下半身をぐるりと右回転させると、ブーツを履いた右足で、だんっ、と力強く床を踏む。
その爪先は、三男のほうに向いている。
三男はすでに投擲動作を始めている。
ナイフが指を離れる瞬間、バルドが振り返ったことに驚きの表情を浮かべる。
バルドは、腰の回転力をじゅうぶんに利用して右手で剣を抜きつつ、ナイフの軌道を見極める。
こちらの注文通りのコースにナイフは飛んで来るのであるから、あとは打ち合わせるタイミングさえ計ればよい。
ガイン!!
鉄のかたまり同士が衝突するけたたましい音がした直後、打ち落とされたナイフは、床に深々と突き立った。
バルドは、流れるような動作でさらに半回転しつつ、剣を鞘に収める。
風をはらんでめくれ上がったマントが、ばさり、とバルドを包んだ。
時間が凍りついた。
長男は、両手でバトルアックスを持ったまま、バルドを見ている。
その目が大きく見開かれていく。
口がぽかんと開く。
荒くれ者の脳みそが、起きた出来事を徐々に理解しているのだろう。
五男が、弓につがえていた矢をぽとりと取り落とすのが、目の端に見えた。
やがて長男の顔に、恐怖あるいは畏怖に近い表情が現れた。
おそらく、背後にいる三男も同じような顔をしているだろう。
無理もない。
バルドがしてみせたのは、後ろから飛んで来るナイフを振り向きざまにたたき落とすという離れ業である。
しかも、荒くれ者たちには、ナイフを投げ始めてからそれを察知して振り向いたように見えたはずだ。
物語ならともかく、現実にこんなことができる人間がいるとは、おのれの目で見てもなお信じがたいだろう。
武器を持っていた三男に、バルドは平気で背を見せた。
ナイフをさばいたあと、長男と五男が武器を構えているのに、剣をすぐに鞘に戻した。
それは、どんな方向から不意打ちされようと、どうとでも対処できるという自信の表れにほかならない。
こんな格好をしているが、この老人は名のある騎士ではないのか。
騎士とは貴族であり、家臣と領地を持っているものである。
何らかの理由で、お忍びで一人旅をしているのではないか。
この騎士には、三人ではとうてい太刀打ちできない。
まして、その郎党を相手にするとなれば、一家は皆殺しの目に遭いかねない。
などと、ならず者たちは考えをめぐらせているだろう。
一方のバルドはといえば、平然としたふうを装いながら、心の中では冷や汗をかいていた。
飛んできたナイフが、予想していたよりずっと大きく、重かったのだ。
音から察するに、素材も上質である。
対するバルドの得物は、長旅の護身にほどよい、軽くて短い剣に過ぎない。
業物といえるほどの武具は、すべて館に残してきた。
この剣をまともにナイフと打ち合わせていたら、おそらく折れていた。
危ないところだったのである。
しばらく静かな目で長男を見つめたあと、バルドは主人のほうに向き、顔の動作で入り口のほうを示した。
主人は、はっとしてうなずき、少女を連れて、入り口に向かった。
主人が入り口近くに置かれていた荷物を取ろうとすると、五男がぴくりと動きをみせたが、バルドは目線で五男を縫い止めた。
主人と少女がガンツの外に出た。
バルドが一歩を踏み出す。
三人のならず者が、びくっと緊張する。
バルドは、ゆっくりと、入り口に向かって歩を進めた。
五男が後ずさって道を空ける。
開き戸を押し開けて外に出れば、昼の日差しが目にまぶしい。
中央広場に止まっている乗合馬車に、主人と少女が駆け寄っている。
目を細めて見つめれば、時々主人の顔を振り返る少女の顔が、喜びに輝いている。
何人かの住人は、ガンツの外で様子をうかがっていたのであろう。
少女を取り囲むように移動しながら、よかったね、よかったねと、少女を祝福している。
やがて客を乗せ終えた馬車が出発すると、見送りの人々は手を振り、声を上げて別れを惜しむ。
主人も、大声で少女の名を呼んでいる。
それだけでは足りず、走る馬車を追って主人も走りだした。
元気で暮らせ、水に気を付けろと叫ぶ声は、もはや泣き声に近い。
存分に見送ればよい。
おぬしは、あの娘をよう育てた。
バルドは心の中でそうつぶやいて、左手で帽子を脱いで高く掲げ、砂塵の向こうに消える乗合馬車を見送った。
4月7日「剣鬼(前編)」に続く