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辺境の老騎士 作者:支援BIS

終章 終わりなき旅

181/184

最終話 雲海

 1

 旅に出て三か月が過ぎた。
 この三か月、いろいろな冒険に出会った。
 フューザは広大で、いざ登り始めてみると、さまざまな山や谷が連なり、人や亜人が住んでいた。
 いくつもの街や村や国があった。

 ある村では、竜の背と呼ばれる尾根の奥から数年に一度現れるという化け物を退治した。
 ある村では、月のない夜にしか獲れないという魚をうっかり食べてしまい、村人から追いかけ回された。

 一年の半分を穴蔵で眠って過ごすという亜人パルカズルの集落があった。
 四本の腕と強靱な尾を持つ亜人オランドーの集落があった。
 ぷよぷよとして、見る間に姿を変える亜人ユルクルの集落があった。

 三人は何度も危機に陥ったが、ジュルチャガの機知とカーズの剣技で切り抜けた。
 ふもとの村で、フューザに登るには、ゆっくりと体を慣らしながらでなければならないと教わったので、そのようにした。
 だがジュルチャガの体力はだんだんと衰えてきている。
 そのため、進む速度も遅くなってきている。

 フューザの天候は急変する。
 晴れていたかと思えばすさまじい速度で雨雲が膨れ上がり、豪雨となる。
 かと思えば雨足はすぐに消え、温かな日が差してくる。
 そんなときには、足元から次々と花が首を持ち上げて、辺りは一瞬で花畑になりもする。

 今、バルドたちは大きな湖のほとりにいる。
 何という清明さ。
 何という美しさ。
 そしてその鏡のような水面は、大いなるフューザを映し込んでいる。
 見ても見ても見飽きない光景だった。
 もう二晩もこのほとりに野営しているのだが、まだここを離れる気にはならなかった。
 ジュルチャガは、まだ寝ている。
 近頃、ジュルチャガの睡眠時間は長い。
 また、索敵能力が著しく低下している。

 と、湖に映ったフューザの山麓が揺らめいた。
 ぼこぼこ、ぼこぼこ、とあぶくが浮かんでくる。
 その勢いは強くなるばかりだ。
 やがて湖の底から、巨大な何かが浮かび上がってきた。
 幾重にも幾重にも水の衣をまとい、水面に浮かび上がったものは。
 雄大なる裸身の女神だった。
 目を閉じたまま、ざばざばと水を体から落としながら、水面から上半身を突き出した。
 銀髪の巨大な眠れる美女。
 マヌーノの女王である。
 暗い森の中で見た女王と、明るい光の中で見る女王は、まるで印象がちがっている。
 本当に女神としか思えない美しさである。
 いや。
 女神なのかもしれない。
 長い長い歴史の中で、この神秘的な生き物は、人や亜人から神霊として敬われ、あるいは恐れられたこともあったのではあるまいか。
 マヌーノの女王は、閉じていた目をぱちりと見開いた。
 開いた目をぎろりと下方に回してバルドを見据える。
 マヌーノの女王は、樹海の中のヤンバガルバの巨樹の中から出ることはできないのかと思っていた。
 こんな場所に現れるとは、何としたことか。
 おそらくこれは、特別なことであるにちがいない。

〈ばるどろえん〉
〈人間ばるどろえんよ〉

 女王がバルドの心に語りかけてきた。

——マヌーノの女王よ、久しぶりじゃ。ちょうどよい。おぬしに報告しておきたいことがあったのじゃ。

〈悪霊の王を倒したことか〉

——なんじゃ。知っておったのか。ジャミーンとゲルカストには使者を送って伝えたのじゃが、おぬしたちと話ができる使者がおらなくての。

〈悪霊の王の断末魔は〉
〈われらの心に届いた〉
〈そしてそのあと〉
〈重しが取れたように世界が明るく清浄になった〉
〈わらわの体の毒も抜けた〉
〈信じられないことだが〉
〈ばるどろえん〉
〈そなたが悪霊の王を倒したのだな〉

——まあそういうことじゃな。

〈悪霊の王は〉
〈何かを探していた〉
〈その何かの力で〉
〈悪霊の王を滅ぼしたのか〉

——そうじゃ。

〈その話を詳しく聞きたい〉

——それは断る。わしはわしの周りの者たちにも、悪霊の王を倒したことは伝えたが、それ以上のことは話していない。質問することも禁じたのじゃ。

〈それは、なぜか〉

——悪霊の王が探していた〈初めの人間〉の遺産の真実は、伝えないほうがよいからじゃ。伝えれば争いのもととなる。

〈よく分からぬが、それは悪霊の王を倒すほどの力を持っているのだな〉

——そうじゃ。それ以上の力をも持っているじゃろうな。

〈それは人間ばるどろえんとその子孫が受け継いでいけばよいのではないか〉

——そんな大きな力を持つのは願い下げじゃな。

〈ふむ〉
〈それの力が大きすぎて不安だというなら〉
〈それを滅ぼしてしまえばよいのではないか〉
〈そうすれば、真実を明らかにすることもできる〉

——あれはその力も存在も、わしなどが手をつけてよいものではない。いつか誰かが必要とするときもあるかもしれん。それは神々だけがご存じじゃ。

〈そうか〉
〈ばるどろえん〉
〈いずれにしてもそなたが成し遂げたことだ〉
〈どのようにするのも〉
〈そなたしだいであろう〉
〈われらは〉
〈そなたの決定に従う〉

——そう言ってもらえると助かるの。

〈だが〉
〈ばるどろえん〉
〈人間たちの世界では〉
〈このことは知られていないな〉
〈わが同胞たちが世界のあちこちで見聞きしてみても〉
〈誰もこの偉大なる業績を語らない〉

——ごく一部の者にしか伝えておらんからのう。

〈それでは〉
〈そなたは〉
〈どのような報酬を受けるのか〉

——魔獣はもう二度と現れることはない。精霊は正しく清らかなものに戻った。それが何よりの報酬じゃ。

〈やはり、そうか〉
〈生まれ出てくる精霊が〉
〈正常なものに戻ったのは〉
〈悪霊の王を倒したからなのか〉

——うむ。やはりあの者がすべてのゆがみの原因だったようじゃ。

〈そうか〉
〈正常に戻ったのはよいが〉
〈あまりにも精霊が多くなったので〉
〈いささかとまどっている〉

——多いじゃと? おかしいのう。わしの周りでは相変わらず精霊は珍しい。時々わしに会いに来る精霊はおるが、旅をしてもほとんどみかけないから、どういうことかと思っておったのじゃがな。

〈悪霊の王が滅びてから〉
〈精霊は一気に増えた〉
〈わが(しとね)なぞ〉
〈もはやマヌーノより精霊のほうが多く住み着いておる〉

——なんと! それほどにか。

〈だが人間の周りには現れていないとすると〉
〈精霊もやっと人間を警戒することを覚えたのかもしれぬな〉

——ははは。それは今さらな話じゃ。しかしそれでよいのかもしれんのう。またぞろ精霊を食うやつらが現れても困る。精霊は少し人間から距離を置いたほうがよいのかもしれんて。

〈いつか精霊たちの警戒心が緩んだら〉
〈また人間と交わりだすであろう〉
〈何十年先か、何百年先かは知らぬがな〉

——うむ。精霊は精霊で住みやすい暮らしをみつければよい。精霊が平和で楽しく暮らせることが、わしの願いじゃ。

〈ばるどろえん〉
〈そなたは偉大な人(デッサ・トーリ)だ〉

——ははは。マヌーノの女王に巨人(デッサ・トーリ)と呼ばれるほど大柄ではないわい。

〈われらマヌーノは〉
〈未来永劫〉
〈そなたの功績を〉
〈忘れぬ〉
〈いつかまた心を支配せずともわれらの言葉を解せる人間が現れたら〉
〈われらはそなたの功績を語るであろう〉

——いや、それはやめてくれ。あ、そうじゃ。

〈何か〉

——ヤナの腕輪のことじゃ。あれはわが孫に託した。

〈そうか〉
〈そなたがそう判断したのであれば、それでよい〉

——孫はメルカノ神殿自治領に行った。教王候補の一人としてじゃ。

〈そうか〉
〈ならばそれが運命なのであろう〉
〈それならばそれでよい〉

——それを聞いてほっとしたわい。

〈人間ばるどろえん〉

——何かの。

〈そなたの血をひとしずく湖に落とすがよい〉

 妙なことを言うなと思ったが、バルドは隠しからナイフを出そうとした。
 が、途中でその動作をやめ、カーズのほうに向いた。
 カーズはバルドの無言の要求に応えて剣を抜いた。
 バルドは左手の手のひらを上に向け、指を伸ばしてカーズのほうに突き出した。
 カーズの剣が一閃した。
 剣匠ゼンダッタの鍛えた剣である。
 バルドの左手の中指の先を、涼やかな風が吹き抜けた。
 その指の先に血だまりができてゆく。
 カーズがわずかな傷をつけたのだ。
 鮮やかに切った傷は治りが早い。
 だから自分で切るよりカーズに切らせるほうがよい、とバルドは考えたのだ。
 それにしても、今のカーズの剣の動きは、まるで見えなかった。
 衰えているのだ。
 バルドの力は衰え、今やカーズの剣を見極めることはできなくなったのだ。
 バルドはその血をしぼって湖に落とした。
 マヌーノの女王は身じろぎもしない。

〈おお〉
〈まさか〉
〈なんということか〉
〈これは〉
〈そうであったのか〉
〈ばるどろえん〉
〈そなたは〉
〈あのかたの〉
〈血を受けた者であったのか〉
〈それにしても〉
〈長き時の果てに〉
〈これほどの強き血が〉
〈現れるとは〉

——いったい何に感心しておるのじゃ。

〈だが、それで分かった〉
〈いろいろな謎が解けた〉
〈おお〉
〈おお〉
〈なんと懐かしい〉
〈人間ばるどろえんよ〉

——なんじゃな。

〈マヌーノには名はない〉
〈しかしわらわには〉
〈秘された名がある〉

——ほう。

〈わらわの名は〉
〈ネーレという〉
〈これからのち〉
〈そなたか〉
〈そなたと同じ血が流れる者が〉
〈われらの助けを求めるとき〉
〈われらは助力を与えるであろう〉

——ふむ。わしの子孫に合力するというのか。じゃがの、ネーレよ。

〈なにか〉

——わしの子孫がなそうとすることに理があれば、わしの子孫に力を貸すがよい。じゃが、わしの子孫の言うことすることに非違があれば、たしなめよ。それでも聞かぬときは滅ぼすがよい。

〈それでよいのか〉

——うむ。それでよい。

〈ならば、そのようにするであろう〉
〈約束は結ばれた〉

——ネーレよ。

〈何か〉

——いろいろ世話になったのう。礼を言う。達者でな。おぬしに会えてよかったわい。

〈そなたも〉
〈健やかであれ〉
〈そなたの旅に祝福を〉

 マヌーノの女王は湖に沈んでいった。
 ふと横を見ると、カーズがほほえんでいる。
 ちらりとバルドのほうを見たその目には、理解の光が浮かんでいる。

——こやつ! まさかとは思うが、マヌーノの女王の言葉が分かるのではないか?

 よく考えてみると、カーズには、マヌーノの言葉が分かるかどうかを訊いたことがない。
 ほかの人間ならともかく、カーズは狼人王の血を引く特別な人間だ。
 分かっても不思議はない。
 そういえば、先ほどマヌーノの女王が心に話しかけた「血をひとしずくたらせ」という会話をこの男は正しく理解していた。
 やはり聞こえるのだ、この男には。
 狼人王の血が、それを可能にするのだ。
 そう考えたとき、バルドの心にとっぴな思いつきが浮かんだ。
 待てよ。
 狼人王とその子孫。
 血筋。
 ジャン王の血筋。
 もしかすると。
 もしかすると。

 船長の口ぶりからすると、ジャン王は幾人もの妻を持っていたように思われる。
 その中にはもしや〈もとからの人々〉、つまり亜人も含まれていたのではないか。
 亜人と人間とのあいだに子どもはほとんど生まれないが、まったく生まれないというわけではないと聞いている。
 偉大なるジャン王なら、亜人の女を(はら)ませるわざも持っていたかもしれない。

 そうだ、それにだ。
 船長は何と言った。
 古代剣の使い手となれる条件を、何と言った。
 古代剣に宿る神霊獣と心を通わせ、その力を引き出すことができるのは、ジャン王の子孫であり、ジャン王と似た心を持つことが条件だということだったではないか。
 すると古代剣を国宝として継承し、時々にその使い手を得ていた狼人王の血筋というものは、やはりジャン王の血統である、と考えなければならない。

 となれば、ザルバンの王族はジャン王と狼人王の両方の血を継ぐ者たちだ。
 ジャン王の子孫であり、かつ狼人王の子孫である、ということは。
 もしや。もしや。
 ジャン王は男性だった。
 船長がはっきり言ったのだから、それは間違いない。
 そしてもしや狼人王は女性だったのではないか。
 その二人の子孫こそザルバンの王族だったのではないか。

 狼人王とは何者だったのだろう。
 亜人だったのだろうか。
 いや、ただの亜人ではあり得ない。
 特別な力を持った特別な存在だ。

 そして、神霊獣とは何だったのだろう。
 古代剣の中に封じ込められて永劫の時を過ごし、ジャン王の子孫に加護を与え続ける神霊獣とはいったい何なのか。
 その子孫たちというのは、神霊獣たちにとって何なのか。

 それにしても、ということは。
 アドルカーズもまたジャン王の子孫であり、かつ狼人王の血筋であるということだ。
 アドルカーズは陰謀渦巻くメルカノ神殿に、四人の大教主の一人の跡取りとして向かった。
 それは教王候補の一人となるということである。
 ジャン王と狼人王の血を引くアドルカーズが、教王候補の一人となる。
 同時にアドルカーズはローエン家の跡取りでもある。
 その行く手にはどれほどの大きな運命が待ち構えているのだろうか。
 どれほどの冒険が待っているのだろうか。
 アドルカーズもその子孫も、平穏な人生を歩むことなどできないだろう。
 願わくば、雄々しくあれ。
 願わくば、人々のためにこそその命を使え。

  神々よ。
  大いなる命よ。
  アドルカーズとその子孫に祝福を。

 バルドは別のことにも気付いた。
 ということはルグルゴア・ゲスカスも、ジャン王の血を引く者であったのだ。
 なんということだ。
 バルドとルグルゴアは遠い親戚であり同胞であったのだ。
 ルグルゴア・ゲスカスには恨みもあるが、恩もある。
 あの男がどんな思惑で動いていたにせよ、竜人ウルドルウを倒すことができたのは、あの男がそのように動いてくれたからに間違いない。
 〈船長〉を倒したあとに、もしも竜人ウルドルウか竜人エキドルキエのどちらかが生き残っていたら、それはすべての人間にとってとてつもない脅威だった。
 正面からの戦いでは、古代剣を持ったバルドといえど勝負にもならなかっただろう。
 〈船長〉との戦いの前に特別な力を持った二人の竜人が死んでいたことは、いくら感謝してもしたりない。
 ひょっとするといくばくかの竜人が生き残っているかもしれないし、その者たちは力を蓄え挽回の時を待っているかもしれないが、それくらいのことは後世の者たちにゆだねてもよいだろう。

——それにしても、ふふ。物欲将軍もジャン王の子孫じゃったとは。してみるとジャン王も食いしん坊じゃったのかのう。

 そう考えて、ふと気が付いた。
 千年にわたる星船の旅。
 旅を長きものにしたのは〈食〉の問題であったという。
 そのゆえにジャン王は時間を手に入れた。
 もしも船長や他の〈船乗り〉たちが、ジャン王と同時に目覚めていたら、今の世界はなかったのだ。
 してみるとジャン王こそ〈食〉の神の加護を受けた人だといってよい。
 ジャン王の子孫が食徳を求めることは、まったく当然のことなのだ。

 そして、ネーレ。
 マヌーノの女王はネーレと名乗った。
 ネーレとは光輝く美女であり、その美しさの光が天空のコーラマに届いてしまったために、コーラマの寵愛を受けた人だ。
 それゆえコーラマの妻である嫉妬深きゾナはネーレを憎んだ。
 〈コーラマの憤怒の矢〉を地上に打ち込まんとするまでに憎んだ。
 慌てたコーラマはネーレを醜い蛇の姿にすることによってゾナの怒りを静めたという。
 人間が聞き伝える伝説では、ネーレはマヌーノの始祖であり、エイナの神が蛇と交わって産み落とした亜神といわれる。
 マヌーノたちの神話では、蛇神ネーレが人間の王ジャンと交わって生まれた子がエイナ神だということになっているという。
 こうした神話伝説の何が正しく何が誤りであるかを判定する知識を、バルドは持たない。
 ただバルドは、その生涯に体験したあまたの冒険から、伝説というものが意外な形で過去の出来事を伝えてもいると知った。
 ただし太古の出来事と伝えられるものが存外後世の出来事であったり、出来事と出来事のあいだのつながりが、必ずしも聞き伝えの通りではないことがあるとも知った。
 どちらが元でどちらが結果なのか。
 どちらが先でどちらがあとなのか。
 そうした点では、伝説を鵜呑みにできるものではないと知った。
 今しも別れを告げたネーレは、果たして神話に登場する蛇神その人なのか。
 それともその名を受け継ぐものなのか。
 あるいは神話には語られていない事実があり、ネーレは人間たちの知らない歴史を生きた者なのか。

 そういえば、神なる竜(メギエリオン)は、嫉妬深きゾナの化身であるともいうが……。

 待てよ。
 懐かしい、とネーレは言った。
 バルドの血を味わって、ネーレは懐かしいと言った。
 誰が懐かしいのだ。
 長き時の果てにこれほどの強き血が現れるとは、とネーレは驚いていた。
 あのかたの血を受けた者であったのかとネーレは言った。
 あのかた、とはジャン王のことなのだろうか。
 ジャン王が懐かしいとすれば、ネーレはこの大地で人の歴史が始まったときからここにいた、ということになる。
 そうなのだろうか。
 そうだとすれば、ネーレこそ、歴史を知る者だ。
 星船がこの地に降り立ってから起きた出来事の数々をその目に収めてきた者だ。

 血を湖に落とせば、再びネーレを呼び出し、歴史の秘密を訊くこともできるだろう。
 だがバルドはそれをしようとは思わなかった。
 すでにネーレは友であり、同士である。
 協力し合い、強大な敵と戦ったのだ。
 そしてその交わりの時はすでに尽きた。
 未来において、バルドと同じ血を持つ者がネーレと出会うことはあるのだろうか。
 それは知りようもないことであり、知る必要もないことである。





 2

 それからしばらくして一行は、雪のかかる場所にあと一足の所まで来た。
 〈消えない雪〉がある場所には踏みこんではならない。
 そう、ふもとの村で教えられた。
 だからここからは、雪を見ながら北へ北へと回り込んでいくことになる。
 その夜バルドはひどく寝苦しさを覚えた。

 目を覚ましたとき、そこには驚嘆すべき光景があった。
 雲海である。
 昨日午後はずいぶん霧に悩まされたが、あれは集まりつつあった雲そのものだったのかもしれない。
 なんという濃密な雲だろう。
 足を下ろせばそのまま歩いてゆけそうだ。
 昇りかける朝日に照らされて、白銀といぶし銀に複雑にゆらめく天の絨毯だ。

 そこには、地上の国とは違う、いわば天の国が現出していた。
 バルドはわれ知らず、涙をこぼしていた。
 柔らかな風がバルドの顔をなでてゆく。
 揺れる頭髪もひげも雪のように白い。
 横に並ぶカーズもジュルチャガも、身動きもせずこの神秘的な光景を見ている。

 と、何かが雲海の上でゆらめき、次第に形をとっていくではないか。
 人だ。
 あちらにも、こちらにも。
 数え切れないほどの人が。
 その姿は巨大だ。
 地上の人間の何十倍もの大きさだろう。
 そして次第に顔立ちがはっきりしてきた。
 中央の雲の上でほほえむ女性を見て、バルドは目を見開いた。

  アイドラ様!

 するとその横でなれなれしくアイドラの肩を抱いているのがウェンデルラント王だろうか。
 ああ。
 その横にはジュールがいるではないか。
 その後ろには懐かしきエルゼラが、ハイドラが、ヴォーラが笑っている。

 ウェンデルラントの右を見れば、ザイフェルトが、マイタルプが、ゴーズ・ボアが、そしてバリ・トードがいる。
 バリ・トードもいつの間にか死んでいたのだろうか。

 視線を左に送れば、キリーが、ガッサラが、そして共に戦った勇士たちがいる。
 奥のほうの雲に見え隠れしているのはカントルエッダのようだ。
 カントルエッダの隣には父がいる。
 母もいる。
 そして多くの騎士たちがいる。
 懐かしい村人たち、職人たちの姿も見える。
 ゴドン!
 ゴドン・ザルコスもいるではないか。
 カイネンやユーリカとともに、こちらに手を振っている。
 ゴドンの隣の美しい娘は誰じゃ?

 ああ!
 今ここは神々の園となったのか。
 あるいははるか高き空のかなたの神々の園の風景が、雲海に映し出されているのか。

 やがて日が高くなり始めると、雲海の上に映し出された人々の姿はぼやけていく。
 バルドは、ウェンデルラント王をにらみつけながら、心で叫んだ。

  わしももうすぐそちらに行く。
  待っておれよ。
  今度こそ逃げるでないぞ!

 幻影が消え去ったあとの雲海を、バルドは飽きずに眺めた。
 そのとき、ジュルチャガの声が聞こえた。

「旦那……」




 3

 見ればジュルチャガが地に寝ている。
 カーズがそばで膝を突いている。
 たぶん、急に倒れたのだ。
 それをカーズがすかさず支えて、そっと寝かせたのだろう。

「旦那ぁ〜〜。
 おいらの足が」

 ジュルチャガの声はか細い。
 頭をひねってバルドを見る目も、力なく細められている。
 バルドはジュルチャガのもとに駆け寄り、杖を放りだしてひざまずいた。

「おいらの足が、もう動かない。
 誰よりも速くおいらを運んでくれた自慢の足が、もう動かない」

 うむ、うむ。
 お前の足は、よく働いたとも。
 どこの大国の君主も欲しがる立派な足じゃ。

「へへ。
 そうかな、やっぱり。
 そんなに褒められちゃうと、照れちゃうなあ」

 と笑いながら言う言葉も途切れ途切れで弱々しい。

「あんときさあ」

 遠い昔を振り返るような顔つきで、ジュルチャガが言った。
 バルドは、うむ、と相づちを打った。

「ほら。
 リンツで旦那に声掛けたでしょ。
 屋台の並んでる川沿いで」

 おお、姫からの手紙を盗まれたあとじゃな、とバルドは言った。

「そそ。
 あんとき、何かおごってくれよー、って言ったけど、ほんとは、おいら、お金持ってたんだ。
 だけど旦那に声掛けちゃった。
 心の中で、もう一人の俺がね。
 おい、お前、なに馬鹿なことしてんだ。
 あの〈人民の騎士〉だぞー。
 バルド・ローエンだぞー、ってあわててた」

 若き日のバルドは、盗賊にはまったく容赦がなかった。
 二つ名持ちの盗賊であるジュルチャガには、地獄の使いのようにみえたはずだ。

「でもね、俺ね。
 ずっと思ってたんだ。
 父ちゃんがいて、こんな屋台の並んでるとこ、一緒に歩いてさあ。
 あれ買って、これ買って、ってねだりまくってさあ。
 そんなことするのって、どんな気分なんだろう、って。
 あんとき、旦那の背中を見てたらさあ。
 父ちゃんの背中って、こんな感じなんじゃないのかなあ、って思って。
 それで、ついうっかり、声掛けちゃったんだよ」

 ジュルチャガは、苦しそうに眉をしかめ、しばらく黙り込んだ。
 病魔が体を食い荒らす痛みに耐えているのだろう。

「殺されちゃうかなー。
 殺されちゃうだろーなー。
 ま、いっか。
 とか思いながら、何かおごってくれよー、って言ったらさあ」

 ジュルチャガは、さもうれしそうな笑い顔をみせた。

「旦那ったら、挟み焼きとか甘酒とかおごってくれてさあ。
 二人で並んで土手っぺりに座って食べて」

 あのときバルドはアイドラの死を知って気落ちし、人恋しい気分になっていた。
 そうでなければジュルチャガを捕らえて締め上げ、手紙のありかを白状させていただろう。

「うまかったなあ。
 それから、子どもが川に落ちて。
 旦那と俺が、ばっちりの連携で助けて」

 そうだった。
 思えばあれが、この男と行動を共にするようになった始まりだったのだ。

「みんなが寄ってきて、喜んでくれて、ほめてくれて、どんちゃん騒ぎになって」

 ここでしばらくジュルチャガの言葉が止まった。
 いろいろな思い出が心をよぎっているのだろう。
 ふいにジュルチャガは目を開き、まっすぐにバルドを見た。

「旦那、旦那」

 何じゃ、とバルドが訊くと、ジュルチャガは妙なことを言い出した。

「あのね。
 カスケルのひもゆで、って知ってる?」

 いや、知らん、と答えると、ジュルチャガは、にやりと笑った。
 カスケルは貧しい土地に生え、その実はスープの具などとして食されるのだが、正直あまりうまいとはいえない。
 もっとも、カムラーはこのカスケルの実をつぶして煎餅のように焼き、魚介類などを載せて食べる、まことにしゃれた美味な料理を出して、バルドを驚かせたことがある。

「へっへっへっ。
 フューザの北のほうじゃあさあ。
 カスケルの実をつぶしてこねて、ひもみたいに細長く伸ばしてさあ。
 それをさっとゆでて、甘辛いスープにつけて食べるんだって。
 それがさあ。
 もう何ともかんとも、こたえられないうまさなんだって」

 相変わらず情報に通じておるのう、とバルドはほめた。
 実際、感心した。
 フューザの向こう側のことなど、知りようもないはずだ。
 この男はどうやってそんな情報を得たのだろう。
 でまかせかとも思うべきところだが、ジュルチャガが言うのなら、そうなのだ。
 そういう料理があって、うまいのだ。
 ぜひ食べなければならん、とバルドは思った。

「でしょ、でしょ。
 へへ。
 そんなにほめられると、照れちゃうなあ。
 ねえねえ、旦那」

 何じゃ、と訊くバルドに、ジュルチャガはねだった。

「カスケルのひもゆで、食いたいなあ。
 すっごく食いたいなあ。
 連れてってくれよ−」

 よし、連れて行ってやる、とバルドは言った。

「やたっ。
 えへへへ。
 楽しみだなあ。
 こうやって、ずっと旦那とうまい物探して旅をして。
 楽しかったなあ」

 ジュルチャガの声は、だんだん小さくなっていく。
 まぶたも次第に閉じていく。
 命の火が消えようとしているのだ。

「おいらさあ……。
 ずっとね……旦那……父ちゃん……」

 いくら待っても、次の言葉は出て来なかった。
 不思議なほど静かな優しい顔つきのまま、眠るようにジュルチャガは死んだ。

 旅の空でできるかぎりの丁寧さで弔った。
 遺品のいくつかは、荷に入れた。
 カーズはマントを脱いで、ジュルチャガの体を包んだ。

  さてと、ジュルチャガをフューザリオンに連れて帰ってやらねばならんのう。

 遺髪を握ってバルドが言うと、珍しいことに、カーズが首を横に振った。
 そのカーズの右隣に、ジュルチャガが現れて、

  やだなあ、旦那。
  旅に連れてってくれるって、約束したばっかじゃん。

 と言った。
 バルドは、手の中の遺髪を見ながら思った。

  そういえば、そうじゃ。
  遺髪を届けて死んだことを知らせれば、ジュルチャガの旅はそこで終わる。
  知らせずに旅を続ければ、ジュルチャガも生きて一緒に旅をしておるのと同じことじゃ。

 もう一度カーズの右側を見たが、もちろんそこには誰もいなかった。
 遺髪を結わえたひもをほどくと、待っていたかのように突風が吹き、バルドの手から遺髪をさらった。
 ジュルチャガの遺髪は、あっという間に高く舞い上がり、ばらばらに散りながら、かなたの空に消えていった。
 風のゆくえを見送ってから、バルドとカーズは馬に乗り、出発した。
 二人の姿は、雲海の中に消えた。

 それから数年間のバルド・ローエンの足跡を、北部辺境の各地にたどることができる。
 その消息も、やがて途絶えた。

 そして時は流れた。
 いつしか、栄華を誇った大国の名も、偉大な王たちの名さえも、忘れ去られていった。
 けれど、辺境を放浪して人を助けた強く優しい老騎士と仲間たちの物語は、絶えることなく語り継がれ、人々の心にぬくもりを与え続けた。





(「辺境の老騎士」完結)



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