挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

短編集

満月

作者:篠崎フクシ
 あの夜、月はどんな表情をしていただろうーー。

 目が覚めた時、病室の窓から見える百日紅の花色が瞳を刺した。それは、太陽を仰いだときの、まぶたの裏のように薄い紅色をしていた。
 水澄ソウジは全身を点検し、ベッドの上に横たわる自分の身体が一応無事であることを確認した。どうしてここに居るのか、まったく記憶がなかった。

「気がついた? ソウジ」

 花瓶に新しい花を挿していたミチルが、ソウジの顔を覗き込みながら訊いた。ミディアムの髪が下に垂れ、大きな目が影になったせいか、いつもより儚げに見えた。

「ミチル? ここは、どこだい? 僕は……」

「病院よ。あなたは事故を起こして、三日間も目を覚まさなかった」

「事故?」

「うん。真夜中にソウジが運転していた車が、電信柱に激突して大破したの。あれはもう、廃車ね」

 廃車、と発したミチルの唇は、何故か笑っているように見えた。同時に、全身に痛みが広がっていくのを感じた。ミチルの話によると、事故当時、全身血だらけで左耳などは千切れかけていたそうだ。気を失っている間に傷口の縫合が済み、麻酔もとっくに切れていたのだ。今はただ、点滴の管が腕にささっているだけの状態だ。

「廃車か……。なんだか、僕のことを言われているみたいだ」ソウジは自嘲気味に言った。何度も司法試験に落ちている自身の不甲斐なさが、重なる。「中古のロードスターなら、また買い換えることはできる。でも、人生は……」

「また始まった。ソウジのネガティヴ・シンキング」笑うと目尻に小さなシワがよる。「私だって看護師の卵なんだから、将来は不安だらけなのよ」

 そんなわけはない、とソウジは思う。ミチルは自分よりもずっと堅実で、来春予定通り看護学校を卒業し、予定通り看護師になるはずだ。

「それにしても、思い出せないな」

 ふと、三日前の夜の記憶があやふやなことに気づく。あの夜たしか、ミチルの部屋でコーヒーを飲んで、自分のアパートに帰ろうと車に乗り込んで……。

「ねえ、ソウジ、あの夜あなたは私とは違う女とコーヒーを飲んでいた」

 そうだった。あの夜、ミチルの双子の姉、ツキコとコーヒーを飲んでいた。顔は似ているが、性格は活発でミチルとは正反対だった。ミチルには内緒で、逢瀬を繰り返していた。

 でもたいていは、ミチルの不在を確認してから二人は会っていた。それなのに、何故?

「相変わらずバカね、ソウジは」

 言いながら、ミチルはPTP包装の錠剤を取り出した。急に動悸が激しくなる。ミチルは、自身が常用している睡眠薬の錠剤を見せて、冷たく笑った。

 *

 百日紅の色が眼裏に残る、その夜は満月だった。

 暗い空に穿たれた円形の穴は、別の世界に繋がっているのではないかと錯覚させる。考えてみれば、こうした自然の現象は奇怪だな、と水澄ソウジは病室の天井を見凝めながら思った。眠い。瞼を閉じるわけにはいかないのに、眠い。強烈な眠気は、恐怖心に克ることをはじめて知った。

「目が覚めた? ソウジくん」

 ツキコがソウジの顔を覗き込みながら訊いた。ショートボブの髪が下に垂れ、大きな瞳が少しだけ陰になったが、それは輝きに満ちていた。あれ? なんだこの既視感は? 水澄ソウジは記憶を手繰り寄せたが、何も糸口がつかめなかった。

 窓の外の百日紅の花弁は、紅色に燃えている。

「ミチルは? 今までミチルがそこに居ただろう?」

「え? 何言ってるの、ソウジ」

 ツキコの顔が急に蒼ざめた。唇は恐れのあまり引き攣り、つぎの言葉がうまく出てこないようだった。唾液を飲み込んだのか、ツキコの喉がわずかに震える。

「まさか、忘れたわけじゃないよね?」

「な、なにが」

「ミチルは先月、亡くなったばかりよ」

 霧が晴れるように、記憶が蘇る。ミチルが服毒自殺したのは、つい最近のことだった。しかし、さっきまで僕のそばに居たはずだ。ソウジは混乱して頭を抱えた。

 その瞬間、全身に痛みが走った。全身が切り刻まれたような痛みだった。もちろん傷口はすべて縫い合わされ、ふさがっている。

「三日前の夜、私の部屋でコーヒーを飲んで、その帰りに事故にあったのよ。電信柱は完全に折れてたよ。車もぐしゃぐしゃ。お医者さんも生きているのが不思議だって」

「さっき、同じ話をミチルから聞かされた」

「まさか……」

「ミチルは、元気そうだった」

「ソウジ、なに、言ってるの? あの子は死んでるのよ。夢でも見ていたの? そうよ、きっと悪い夢を見ていたんだわ!」

 重々しい沈黙が続いた。

 あの夜ーー。

 ロードスターに乗り込み、いつも通りにエンジンをかけ、アクセルを踏む。左ウィンカーを点滅させ、ゆっくりと国道に入る。真夜中の国道は空いていて、時折対向車のライトに目を細める。夜風が心地よい。こういう時、オープンカーで良かったと心底思う。

 眠い。アクセルを強く踏み込む。

 眠い。足裏がブレーキに向かない。

 眠い。スピードメーターが限界を振り切る。

 それなのに、目に見える風景はゆっくりと動く。心地よい夜風。夜空には、完璧な満月が浮かぶ。夜空に穿たれた光の穴。僕はもうすぐ別の世界に吸い込まれていくのだ。

「あなたの心が、まだミチルにあるのは分かってる。死ぬことで永遠にソウジの心に住み続けるなんて、ちょっとズルいよね。だから私は、あなたを永遠の世界に閉じ込める。永遠に、月の、私の世界から出ることは叶わない」

 ーー、思い出した。

 PTP包装の錠剤を持って笑っていたのは、ミチルではなくて、ツキコだ。車が大破する瞬間、ツキコの、氷のような笑みが、脳裏をよぎった。(了)


評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ