挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
ブックマークする場合はログインしてください。

おかしな短編

空腹に勝るもの

作者:井川林檎
こんなのに絡まれたら、迷惑どころじゃないのでした。
 あぐんと一口頬張った瞬間、あああっと叫び声があがり、見ると、はす向かいの席に座った女が、目をぎょろつかせてわたしを見ているのだった。
 ほかほかの牛丼である。

 わたしは空腹であり、国道を車で走りながら、どこか食事ができる店をずっと探していたのだった。
 あ、ファーストフードがある、ドライブスルーだラッキー、と思ってみても、その時に限って車量が半端なかったり、並んでいる数が凄まじくて行列を見るだけでクラクラしたりで、すべて断念してきた。
 腹がぐるぐる鳴りだして、頑張って車を走らせること2時間。
 そろそろ諦めようかと思っていた矢先に見つけた、貴重な牛丼屋である。食事時を過ぎているせいか、がらんと静かだ。

 オレンジの照明の光る、良い匂いの溜まった店内には、不愛想な兄ちゃん店員と、カウンター席で必死にかきこんでいる作業服の男たち五名くらい――駐車場に停まっていた車から想像するに、大型トラックの運ちゃん、配管工等ではないか。
 ああっという奇妙な叫び声に反応して、一斉に男たちは振り向いた。みんな飯に集中していたところだったから、箸をくわえていたり、口いっぱいにしていたり、飯粒をつけていたりした。

 女は髪を振り乱し、空中をかくようにして腕を泳がせると、ふらふらよたよたと立ち上がり、わたしのテーブル席にまで来た。
 何事かと思って見上げると、その髪の長い女は目からだらだらだらだら涙を流しながら、「マツオ……」と愛おしいものに囁きかけるように言ったのだった。

 マツオ。

 わたしは女を見つめた。さっき口に牛丼を運んだ箸を右手に持ち、宙に浮かせたまま、マツオって誰だとしばらく考えた。
 いい匂いのする牛丼を女は食い入るように見つめて、すんすんすすり泣き始める。

 わたしも含め、みんな一刻も早く飢えを満たしたい人間ばかりだが、店内の客――どころか、店員の兄ちゃんまで――唖然として女を振り向いているのだった。

 「美味しいですか」
 と、女は言った。
 はあと答えると、うううっと目を袖で抑えた。まっピンクのトレーナーだ。

 「ありがとうありがとう、あなたのような人がマツオを食べて下さって、本当にありがとう」
 神様のお導きですね。ああ、マツオは幸運でした。数ある人の中から、あなたのところに行きつくなんて。
 ああ、良かった。ああ、マツオ、良かった。本当に良かった。あああ、ありがとうありがとうありがとうございます。

 わたしは、自分の丼の中身を見た。
 それから、女を見た。なんということだろう、この女、がたがたとせわしなく、わたしの向かいに座ったのである。
 「召し上がって下さい、さっ」
 と、言われるので、腹がすいていたわたしは、また一口食べた――ああああっ――女が身を切られるような声で叫んだ――食べたものを噛まずに飲んでしまったじゃないか。喉がつまりそうなので、水を流し込んだ。

 「い、今の一口はどうでしたか。マツオの……マツオの、足っ。可愛らしい、二つに爪が割れた、マツオの右後足は」

 あなたにお伝えしたい。
 マツオがどんなに素晴らしく軽やかに駆けていったか。
 春の丘の上を、風のように。
 マツオの親友のユウタ君と一緒に、二人はどこまでも笑い合いながら走っていったんですよ。
 ……。

 今にもわたしの手を握りしめようとする女から、微妙に身をのけぞらしながら、わたしは色々なことを考えた。

 (足じゃないと思うけれどなあ)
 (ユウタ君は牛ではないのだろうか)
 (このひととマツオの関係はどんなものなのか)

 目の前の女は両手で頬杖をつき、食い入るようにわたしの口元を見つめている。
 充血した目には涙が溜まっており、口は嗚咽を堪えるように引き結ばれていた。

 カウンターの作業服たちは、こっちが気になるものの、早く飯を食って仕事に戻りたいから、再び背中を向けて黙々と食い始めた。
 わたしは女をしばらく見つめてから、自分の席でごはんを食べたらと、抑えた口調で言ってみた。

 「わたしですか。わたしはお水だけ飲みに寄ったんですよ」
 女は臆面もなくそう言った。
 なるほど、ちらっと見えるはす向かいのテーブルには食事は乗っていない。飲みかけのコップが汗をかいているだけである。

 変なのに関わったなあ、とわたしは残念に思った。
 できれば美味しく味わっておなかを満たしたかったが、こうなったらもう、とっとと食べて金払って、素早く店を出るべきだ。箸を持っていない側の手でテーブル下のバッグを探り、そっと携帯を握った。何かあれば、警察でもなんでも呼びつけてやる。

 女がじろじろまじまじ見ている前で、わたしはがつがつと牛丼を喰った。
 あああっ、ああああ、ああっあっ、ああーっ。
 女は身をよじりながら叫んだ。
 「やめてっ、だめっ、味わって。マツオを大事に味わって」

 「いい加減にしてくださいよ」
 わたしは女を真正面から睨むと、箸を握りしめながら怒鳴り返したのだった。
 「マツオって何なんです。牛なら、ほら、そこのあの人も、あの人も、あの人だって(と、カウンター席の男たちを次々に箸で示してやった)食べてるじゃないですか。あっちのマツオはいいんですかっ」

 男たちがぎょっとして固まっている。
 わたしは内心、ざまみろと思った。
 同じ牛丼を喰っているのに、どうしてあいつらじゃなく、わたしなんだ。
 (そら、あっちに行け、あっちの牛丼を見ろ)

 しかし女は、大きな目に涙を浮かべながら、悲壮に叫んだのである。

 「いいえ、あなたの注文した、その丼の肉がマツオなんです。他の丼のものはマツオじゃない別の牛のお肉なんです」
 それくらい、すぐに見分けがつくんです。
 わたしは長い間、マツオのことばかりを考え、マツオがどこかでわたしを呼んでいるのにピンと来たら、そっちの方向にいつでも駆けつけることができるほど、マツオを愛しているんですよ。

 あなたの。
 その牛丼が。
 特にその、玉ねぎと絡まって盛り上がってる部分が。
 「マツオなんです」
 ……。


 お会計は600円です。ありがとうございまーす。
 出口の方で、レジのお姉ちゃんが軽やかに叫んでいるのが聞こえる。
 はっと見ると、カウンター席の男たちがいそいそと逃げるように店を出てゆくのが見えた。
 がらんとしたカウンター席には、食べつくされた丼だけが残っている。
 それを、お店の兄ちゃんが、淡々と集めているのだった。

 「マツオの可愛い鼻づら。ピンクの濡れた鼻や」
 女はすすり泣くように続ける。
 かちゃん、かたり――片づける兄ちゃんは、淡々と働いている。

 「可愛らしい白黒の模様がどんなだったか。わたしはよく覚えているのです」
 マツオが例えお肉になったとしても、わたしにはマツオが分かる。マツオの呼ぶ声が、その、あなたの、丼から、あなたの箸がすくいあげている牛丼の塊から、あなたが咀嚼する口の中から、聞こえているのです。

 ……。



 ぐう。

 切ない音が聞こえた。
 女は涙と洟を垂れ流したまま固まっており、わたしは咀嚼しながら、相手を見つめていた。
 ぐう。
 また聞こえた。

 「少し、食べてみますか」
 と、わたしは聞いてみた。
 そして相手の反応を確かめてから、おもむろに左手をあげて、店の兄ちゃんを呼んだのである。

 「取り皿ください」

 はい、おまちくださーい、と、朗らかな声で兄ちゃんは奥から叫び、やがて、事務的な様子で、模様一つない、真っ白な皿をどうぞと差し出してくれたのだった。
どんな大事な事情があろうと、空腹には勝てない。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ