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時間はいつもと変わらず真由の上を流れ、季節は初夏から夏になりさらには晩夏にさしかかり、亜熱帯性に傾いてきた気候が最後の猛暑を振るっていた。あの人と出会ったのはちょうど八月だった、そんなことを思って真由は照りつける太陽を眩しく見た。駅で突然サヨナラを告げてから、有薗からは一切の連絡もない。彼が追ってこないことが救いだった。遊び上手な人ほど、本気になってしまった女など重いばかりだろう。自分がそうだからこそよくわかる。あれ以来、真由はどの男とも遊ばなくなった。一度だけ市川とホテルまで行ったが「ごめん、やっぱり気が乗らない」と途中で帰ってしまった。市川は「ふん」と意味ありげに鼻で笑っていたが、それでも以前と変わらず気が向けば真由をいつもの店に誘い出し、ビールを飲み交わしつつ大先輩としてありがたい助言を与えてくれるし真由のつまらぬ愚痴にも付き合ってくれる。別にすべての男を清算しようと考えているわけではない。有薗に対して、自分の汚れた体を恥じたことはあった。あのとき、はっきりと彼に対して自分がゲーム以上の感情を抱いてしまったことを思い知らされると同時にゲームの終了を決意した。しかし、今は本当になんとなく気が乗らなくて男と寝ないに過ぎない。いずれ、元の自分に戻るのだろう。自分は所詮そういう人間なのだ。
少し、空に浮かぶ雲が厚みを失って秋の気配を伝えつつあるか。そう思える程度の変化はあるものの、一向に暑さの去らぬまま九月になったある日、思いがけず有薗からメールが来た。仕事で神戸に行くから会えないだろうか、と。返事はしなかったが、その日が近づくと再びメールで神戸へ来る日を知らせてきた。神戸には二日間滞在するらしい。そしてその当日には、泊まるホテルと部屋を知らせてきた。仕事で留守にする時間帯も記されており、はっきりと「待っています」と一言添えられていた。
恐る恐るドアをノックするとしばらくして有薗が顔を見せ、真由を認めると黙って部屋に招じ入れた。真由をベッドに座らせ、彼はデスクの椅子に座った。灰皿はもう満杯である。吸いかけで置いていたタバコを持ち直した彼の手に指輪がないことに真由は気付いた。入院中もずっと右手の薬指にシルバーの指輪をしていて、CTを撮るときに外し、検査後大事そうにはめる姿を見かけていたし、その後もいつも同じ指に同じ指輪が光っていた。「元気にしてた?」彼の声はやはり温かくふわりとしていながら艶がある。「うん。ソノさんは?」「元気。この暑さにはちょっと参るけどね」「神戸はJAMANIAのお仕事?」「ううん、他のアーティストのツアー中。JAMANIAは今オフ。真由さんは仕事忙しい?なんだか疲れてるっぽい」「そうかな。当直明けだからでしょう」「じゃあ昨日はいくら待っても来ネかったわけだ」「ずっと待ってたの?」「来てくれると信じてたから」「どうしようか迷った」「でもこうして来てくれた」嬉しそうににこっと微笑まれ、真由は一瞬たじろいでしまった。何も変わらない、友達に戻れる。そんな気がしたが、それはいけない、できないのだと必死に言い聞かせる。敗者は黙って身を退かねばならぬ。「ソノさんに、お礼を言いたくて。それだけ伝えに来たの」「お礼?」ちょっと意外な言葉だな、とでも言いたげに有薗は少し不思議そうな表情をしてみせた。「うん。私ね、ソノさんのおかげで、忘れていたものを取り戻したの。とっても大切なもの。だから、ありがとうを言いに来た」「忘れていたもの?なんだろう」クイズを出題されたかのように少し彼は考える風に首をかしげた。どんな物を忘れていて、また取り戻したのだろう。それも自分のおかげで。「ソノさんは知らなくてもいい。ただ、お礼を言っておきたかったの」ようやくそれまで伏目がちにしていた真由が顔を上げ、有薗をまっすぐ見つめると「ありがとう」と言って微笑んだ。そう言った瞬間、すっと真由の目から涙が零れ落ちた。「ごめん、帰る」自身に激しい動揺を覚えながら慌てて真由が立ち上がると、その手を掴んで自分に引き寄せ、有薗が力強く真由を抱きしめた。「思い出した、君は泣き方を忘れたって言ってた」真由は返事をすることもできず、ただ彼の腕の中で目を閉じて、懸命に涙をこらえようと、自分を奮い立たせてこの場を離れようとしたが空しい努力だった。「僕は君を傷つけた?僕が君を泣かせてるのかな」初めて、有薗のどことなく気弱な、せつない声を聞いた。いつも彼は穏やかに真由を大らかに包み込む話し方だった。大人の余裕がたっぷりと溢れていて大好きだった。真由はただ無言で、いやいやをするように首を横に振った。違うのに、私はあなたからいっぱい素敵な言葉や音楽や、忘れられない時間をもらって幸せだったのに。でもそれを言葉にすることはできなかった。言葉にしてしまえば、その幸せが続かなかった悲しみが容赦なく襲ってきてしまう。自ら終止符を打たざるをえなかったことを、彼の腕の中で再認識するのはあまりに辛い。真由は楽しかった思い出も、決別した悲しさも必死に頭から追い出して、ひたすら今は泣きやもうと、こらえにこらえた。しばらくそうしていて、なんとか涙が乾くと真由は体をそっと離した。「びっくりしたでしょ、ごめん」「いいよ。落ち着いた?まあ座りなよ」有薗は真由の肩をぐっと押さえて無理やりベッドに座らせると、自分も再び椅子に掛け直した。灰皿を空にすると「一服どうぞ」と真由に差し出す。少しためらったが、真由はバッグからタバコを取り出して火をつけた。そんなにのんびり落ち着いて有薗と話をするつもりで来たのではなかったが、気付けば彼のペースになってしまう。タバコを吸うといくらか気分が落ち着いた。「ソノさん、指輪どうしたの?」「え?」「大事にしてた」「そういうことに気が付くって、やっぱり真由さんも女の子だな」「やっぱりって何よ」「それ、そうやって言い返すのが君らしい」そう言うと、有薗はにっこり微笑んだ。「どうせ気の強い関西人ですから」ぷんと真由がすねて見せると有薗は一転真剣な調子になって「君は気が強いんじゃなくて、気張ってるだけだよ」と痛烈な一言を吐いた。また、有薗の怖さが垣間見えた。どうしてこの人には自分のことがこんなにお見通しになってしまうのだろう。だからこそ惹かれてしまったのかもしれないが。「指輪は、単に必要なくなったから捨てた」「捨てた?」「指輪の相手とは、別れたということです。長い付き合いだったし、一方的だったし、ずいぶんこじれたけど」「じゃあソノさんの方から?」「うん。僕が誰と遊ぼうと、約束すっぽかそうと怒りもしなければ束縛もしない、詮索もしない奴だった。今思えば、そういう人間を演じてたんだな」「それだけソノさんを好きだったんでしょ」「僕ももちろん好きだったよ。だけど、あいつが我慢してそう振舞っていたことに、気付いてやれなかった。僕はあいつの何を見ていたんだろう」悔しそうにきゅっと眉根を寄せて頭を抱え込むようにした有薗に真由はそっと手を伸ばして「自分を責めないで」といたわるように優しい声を出したがその手を彼が取ろうとした瞬間、手を引っ込めてしまった。彼の手は、魅惑的すぎる。触れてはいけない、と冷静な心の衝動だった。「本当に嫉妬しない人なんているのかな。ソノさんはまったく理解できない?」「自分だってそうだって言ってたじゃない」「私は、そうだと思ってたけど、そうでもなかったみたい」真由はドロつく感情を覚えた自分に呆れたようにかすかに力なく笑っていたが「誰かに嫉妬したの?」と問われても「さあね」とはぐらかしてしまった。まさかたった今話題になった、あなたの元恋人に猛烈に嫉妬をしたのだと白状する勇気はない。「さて本題。君がゲームセットだと言った意味をずっと考えてた」本題。彼は何を言うつもりで自分を呼び出したのかと内心穏やかではないが、真由はいたって平静にたいした興味もなさそうな顔をした。有薗は構わず話を続けた。「最初は単純に、意味がわからなかった。ゲームに飽きたんだと思った。でもよく考えると、君は、どちらかが本気になったらそのときはゲームセットだとも言ってた」「答えは出たの?」「僕の独りよがりでなければ」「じゃあそれが正解ってことにしておけばいいでしょう」「駆け引きみたいな言葉はいらない」思いがけず有薗の刺すような言葉に真由は一瞬ひるんだ。視線も射るように鋭く真由を捉えている。真由は目を伏せひざに置いた自分の両手を見つめた。彼女が声を発するのを待つように、有薗も黙り込んでいる。ぎゅっと両手を握り締め、心を決めると真由はまっすぐに有薗を見つめ返した。「私は、ゲームに熱中しすぎたの。あなたに愛されている、あなたの恋人をうらやましいと思った。生まれて初めて嫉妬という感情を知った」嫉妬という感情が醜いくせに、そんな感情を持ち合わせていた自分が人間らしくもあって、少し嬉しくもある。そんな相反する思いが交錯しながら、正直に一息にそう告白すると、それを聞き終えるかどうかくらいすぐに有薗が口を開いた。「僕は、『愛のないキスはしない』と言った君に何度も唇を避けられて、そのたびに胸が痛んだよ」
真由は目を見開いて息を飲んだ。この人は、何を言っている?
「僕はよほど鈍感なんだな、君に突然別れを切り出されてようやく気付いた」有薗は椅子から立ち上がり、しばらくどこを見るともなく空を見つめて自分の心を整理していたかと思うと、くるりと振り向いて真由の前に跪き、彼女の手を取った。「人の気持ちにも鈍感だけど、自分の気持ちにも鈍感なんだ。馬鹿だな」たまらなく愛おしそうに大事そうにその手に優しく触れていたが、思い切って真由の頭を引き寄せ、そっと抱きしめた。「君に会いたくてたまらなかった」
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