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ライブの開始時刻ぎりぎりに真由は会場に到着した。横浜での学会は予定通りの時刻にきっちり終わり、高遠や、高遠に紹介された数人の医師に挨拶だけするとそそくさと学会会場を後にし、東京へ向かった。チケットに印字されている二階席へ行くと「あ、来てくださったんですね」と現れたのは有薗ではなく、入院の手続きなどをしていた藤原という男であった。彼は慌しく早口で喋り始めた。「良かった、もしかしたらおいでにならないのかと心配していました。東京まで来てくださってありがとうございます。ところで先生、お願いがあるんです」と藤原はメモを真由に渡した。それは有薗の走り書きらしきメモで「直接ご挨拶したいから、電話番号を教えて欲しい」と書かれてあった。「有薗さんがここへ来られないんですか?」メモを手に真由はいぶかしげに藤原を見た。彼は申し訳なさそうに「ここへは来ません。ライブ終了後にお時間を頂戴したいのです」と答えた。「今夜はすぐ神戸へお帰りですか?」こちらに泊まると答えつつ、電話番号を訊ねられたことに真由はためらいを覚えた。もう有薗は真由の患者ではない。電話番号を教えるような、必要以上に個人的な付き合いが良いことなのかどうか、とっさに判断しかね、真由には若干の抵抗があった。真由のためらっている様子を見て、藤原は気の良さそうな笑顔を見せつつ「これをなしとげないと、あいつに叱られちゃいます」と片手で真由を拝み、すがるような目をした。「藤原さんが叱られるわけにはいかないけど、教えるわけにもいきません。私は今日チケット代金を有薗さんにちゃんとお返ししようと思って来たんです」と自分でも「冷たいな」と思うほど機械的な返事をした。「でも本人はここに来ないんだから電話番号もわからなくちゃチケット代金も返せないでしょう?」「本当に困ります」「じゃあ、あいつが渡部先生に電話するところを見張ってます。番号を登録しないように」そんな不毛なやり取りをしているうちに、開演を知らせるブザーが鳴り、徐々に客席の照明は落ちていった。「ほら、早く!」藤原から急かされる形で、渋々真由はそのメモ用紙に自分の番号を記した。「今夜だけです、今夜だけ有効期限ですから。そのメモはすぐに捨ててください」藤原はメモを確認すると、急に周りに聞こえないよう顔を寄せて声をひそめた。「実は今夜がね、SONOの復帰ライブなんですよ。あいつ、まじめに腕に負担かけないようにって、ほんとまじめに生活してきました。復帰も念には念を、でずいぶん待ちました。今夜のSONOがあるのは、間違いなく渡部先生のおかげなんですよ」と優しく諭すような口調で驚きの事実を告げるとさっと身を翻して客席から姿を消した。それを待っていたかのように照明が完全に落ちた。
JAMANIAにSONOが帰ってきたぜ!
というリーダーのひとことに会場は沸きに沸いた。久しぶりに全員が集まったライブだからか、ツアーファイナルだからか、メンバーのノリも客の盛り上がりも最高で、いつも神戸や大阪で感じる以上の興奮を覚えた。なにより、あの有薗が、ベースを弾いている姿に真由の目と意識は釘付けになった。藤原が「今夜が復帰ライブ」と言ったとおり、有薗は、真由が主治医として治療に当たった彼は、間違いなくこのJAMANIAのベーシストだった。
ベースはいつもステージ中盤にいて、ほかのメンバーのようにステージ上を自由に動き回ったり客を煽ったりもせず、MCで話すこともなく、印象が薄かったのが、これまで気付かなかった大きな要因だった。それにステージでの彼はほぼ無表情で一見、とてもクールな男だ。入院していた頃の穏やかさを想像するのは難しい。何より、JAMANIAはテレビや雑誌などのメディアに出てこないからメンバーを見るのはライブくらいのものだし、そのライブは毎回音楽の楽しさに目いっぱい集中してしまって、メンバーの顔を覚えこむほどにひとりひとりをじっくり見たことがない。そしてふと、彼が入院してきた直後「どこかで見たことのある人だなあ」という印象を抱いたことを思い出した。はっきりとその正体はわからなかったが、今夜謎は解けた。また、彼はバンドではSONOの名乗っており、本名は不詳である。だから有薗がSONOだと気づくには至らなかったのだ。
いつもJAMANIAのライブでは、真由の中でSONOは一番目立たない存在だったが、今夜に限っては、否応なく視線は彼を捕らえた。自分の患者であった有薗が間違いなく回復していることの安堵もあったが、一か月近く休演していたにも関わらず、いつもと変わらぬ淡々と不動のベーシストであり続ける彼の姿がかえって印象的だった。今夜はファイナルだから全員ひとことずつ、とリーダーに振られても、休演についても復帰についても自ら触れることはなく「みんな、楽しんでください」とそっけなくつぶやくのみである。なんだかわからないが「ああ、彼らしいな」と思った。言動が派手でないくせに、彼は確固たるスタイルを持った人なんだ、とすっと飲み込めてしまう押しの強さを秘めている。
ライブが終了すると、真由は予約しているホテルのある品川へ向かった。しかしすぐに部屋へ入る気にもなれず、チェックインだけ済ませるとバーへふらりと入って夜景の見渡せる席に着いた。東京に泊まるなら一度はプリンスに泊まれ、と勧めてくれたのは病院の薬剤師だった。なるほど、想像以上に内装や調度、スタッフの対応のすべてに高級感が溢れ、気持ちがいい。そしてこの夜景の美しさはなんということだ。数え切れない大小のきらめきが大都会の匂いを漂わせて眩いばかりだ。しばし真由はホテル最上階から見渡せる夜景に魅入った。広い景色を見て心に余裕がでてき、加えてソルティードッグのさっぱりした口当たりが、ライブの興奮と、自分の患者がよりによって大好きなバンドのメンバーだったという驚きを少し冷ましてくれる。彼らの音楽は幅広く、得意とする楽しく軽快なラテンをメインに、ときにしっとりと大人のスタンダードを織り交ぜ、かと思えばロックのカバーもうならせる。今日は特にメリハリのあるいいライブ、大満足だったと嬉しかった。バッグからタバコを取り出し、火をつけるとふーっと長い息を吐き出した。まさか自分が担当した患者がSONOだったとは、それにまったく気付かなかったとは・・・と今更偶然に驚き、苦笑を禁じえなかった。もし彼が入院していた頃に、彼がSONOだと気付いていれば自分はたぶん主治医を辞退しただろう。とても、ほかの患者と公平に接する自信はない。ついファンの心情をもつれこませてしまっただろう。もしかしたらサインくらいねだってしまったかもしれない。カクテルが空になる頃、携帯電話が鳴った。静かなバーだったので、一旦席を立ち上がり店の外へ出た。「渡部先生ですか?こんばんは、有薗です」と耳に心地よく響いてきた電話の声は少しくもって雰囲気が違うが、確かに有薗の声だった。電話を通しても魅惑的な声だと少し、ドキリとする。そう言えば、入院中にも不謹慎にも自分は彼の声にどきっとしたんだった、と思い出す。「今日来てくださったんですね、ありがとう」病院でも感じた、有薗の物腰の柔らかい口調が、あのSONOのものだと思うと少しの興奮を覚えた。「こちらこそ、素敵なライブでした。ご招待いただいてありがとうございます」退院からひとつき経ち、また有薗がJAMANIAのSONOだと気付いてしまい、どことなくよそよそしいぎこちない挨拶を交わした。「今どちらですか?」有薗の問いに、真由は深く考えることもなく「品川です。ホテルのバーで、余韻に浸っています」と正直に答えた。「品川のどこ、プリンスあたり?」「そうです」「わかりました。行くから待っていてください、きっとですよ」と言うなり一方的に電話は切れた。
真由は席に戻ると二杯目のカクテルを注文した。本当に彼はここへ来るのだろうか。電話の向こうは随分にぎやかだった。きっとツアーファイナルを終えて打ち上げに突入したところだろう。そこから抜け出してまで自分に会いに来る?彼がJAMANIAのメンバー自身だったのだし、もう、チケット代金を返すことにこだわる必要もないように思えた。たぶん関係者用に用意されていた余分のチケットか何かだったのだろう。ならば、彼に会う必要はない。会って何を話せば良いのか。彼が十分に回復したことは間違いなくこの目で見届けたし、今更直接会ってまで礼を言われるのも照れくさい。いっそもう部屋へ戻ってしまおうか、などと考えた。
カウンターにいる一人の女性客がノースリーブのワンピースを軽やかにまとっており、すらりと伸びた腕を真由は見るともなしに見つめていた。綺麗な腕だ。傷も、やましさもない、なんの後ろめたさもない美しい腕だ・・・。
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