ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
  透明の向こう側 作者:
89
 うとうとする程度の浅い眠りは訪れたが、やはり真由はぐっすりと眠れずに夜を明かした。眠りについたのは明け方だったし、チェックアウトは十二時だと言っていたから、ライブ前の有薗には少しでもよく眠ってもらおうと彼を起こさぬようじっと布団の中で彼の寝顔を見ていた。眠ればいずれほどけるだろうと思っていた手が、これがなかなか、きゅっと握られたままなのだ。真由が有薗の手を好きだと言ったことを挙げて彼は自身の手を不思議そうに眺めてみたり、真由の手に重ねて比べっこしたりしてひとしきりたわむれ、そのまま深い眠りに落ちてしまった。どうしよう、このまま彼が目を覚ましてしまうと、腕の傷をうまく隠しとおせるだろうか。ちらっと視線を動かしてヘッドボードの時計を見ると、もうすぐ十一時になろうという頃だった。さすがにそろそろ起こさねばならない。真由は意を決して有薗の手をほどこうとそっと空いた方の手を添えた。「ん、何時?」とぼやけた声が聞こえてぎくりとした。しかし体も動かさず目も開かず、まだ殆ど目覚めていないようだ。真由はあえて返事をせず、そっとベッドから出ると、一旦浴衣をコートのように羽織った。そして下着を拾い、クローゼットの前でワンピースに着替えた。すっかり着替えてから顔を洗い、歯を磨いた。ワンピースの前が少し跳ねた水で濡れてしまったが仕方がない。とにかく服を着て腕を隠してしまわないことには安心を得られないのだから。ベッドに戻ると横向きに腰掛け「ソノさん、もう十一時だよ」と肩の辺りを軽くゆすりながら声をかけた。「十一時か。もうちょっと」そう言って眠そうに寝返りを打った。この男と一晩をすごすのはまだ二度目。だが、前も、今回も、目覚まし時計をセットしたり携帯電話がアラームを鳴らしたりということがない。こいつは一体、いつもどうやって起きているんだろうなどとくだらぬことを考えながら気持ち良さそうに惰眠を貪る彼の寝顔をしばし見つめていた。
 ベッドを離れると、コンビニの袋からお茶のペットボトルを取り出し、その空袋に空き缶とビンを詰めた。その他のゴミはホテルのゴミ箱に捨て、灰皿も空にしてしまうと、窓際に座ってようやくタバコに火をつけて目覚めの一服を味わった。「冷やしとけば良かったな」そうひとりごちて生ぬるいペットボトルのお茶を口に含んだ。今日も空は晴れ渡り、埠頭を歩く人の姿が小さく見えた。背後で有薗が起きて洗面所に行く気配がし、しばらくしてTシャツ姿で出てきてひとつうーんと伸びをすると真由の隣に腰を降ろして彼もタバコに火をつけた。「いい天気だね、空気がまぶしいな。海もキラキラしてる」と目を細め「真由さんはどうするの、一度家に帰るの?」と真由を振り返った。「うん、着替える」「スーツ?」「よく覚えてるね。人との会話を覚えるのは特技だっけ」「僕たちのステージを見るためにスーツに身を包んで臨むという意気込みがたまらなく嬉しいんだよ」にこりと笑いかけられて真由は、自分の方こそ直接メンバーにその意気込みを知ってもらえる、そんなファンがいることを知ってもらえることの喜びがいかほどかと思いながら穏やかな微笑で応えた。「ねえソノさん。前にライブの時には時刻どおりきちんと来る人と、必ず遅刻するメンバーがあるって言ってたでしょ。ソノさんはずばり遅刻派だ」「ドキッ」真由の指摘がさも痛烈とばかり大げさに胸を押さえて驚いてみせる有薗に「やっぱり」と真由はにやりとした。「ずーっと前に、サポートでツアーやってたときにね、完全に信用なくしちゃってさ、最後にはマネージャーと同室にされちゃったことがある」「うわ、最低やな」ぷっと噴き出したのち真由は苦笑した。無機質なまでに部屋を整え、片っ端からゴミや洗い物を片付けてしまう几帳面さと、時間にルーズなとんでもない大らかさが互いに干渉せずに同居している有薗という男をおもしろいと思った。有薗を個人的に知って以来、ライブでもつい視線は彼を追いがちになるのだが、彼はベースのチューニングが気になるのかしょっちゅうヘッドの辺りに手をやったり、マイクの位置をちょこちょこちょこちょこ微調整している。どうも神経質な人だなあと思うのにそれが嫌でないのは、その神経質さが彼自身にのみ向けられていて、他人に対してはどこまでも寛容だと知っているからだ。何より彼の神経質さはステージを最上に仕上げて観客に魅せるという彼の美学に則ってのことと理解できるから、感心さえしてしまうのだ。もうひとつ彼に注目するようになって気付いたことがある。彼はライブ中、明かりのあるステージ上では決して水分補給をしない。曲の合間に他のメンバーがペットボトルの水を口に含む姿はときどき見かけるが、有薗は他のメンバーがMCをしたり曲紹介をしたりする隙にさっと姿を消してステージの袖に引っ込んでしまうことがある。たぶんその時に水を飲んでいる。決してステージ上に音楽をしていないオフの瞬間のSONOを持ち込まない。そんなこだわりがあるように思うが、聞いたことはない。それにしてもライブのリハに遅刻だなんて大らかすぎだろう。そういうときこそ几帳面さを発揮して時間を守る男になっても良さそうなものだとつい「ステージに上がると神経質なのに、なんで時間にはルーズなんだろうね。リハに少々遅刻してもオンに切り替えるのが上手なのかな」と言葉にすると「神経質?」と怪訝な顔をされた。続けて「どうしてそう思うの?」と言うから、真由は「やっぱり意識してるんだ」と直感しながら答えた。頻繁な微調整。決してステージ上で水を飲まない。汗を拭うときもわざわざ後ろを向いて瞬時に済ませる。音楽をしている瞬間の顔しか客に向けていない。徹底的にオンの姿しか見せない。地球に一面しか見せない月のような存在で、JAMANIAファンは有薗という男のごくごく一部しか知らない。「それだけきっちり区別してプロの仕事をやってるソノさんがすっごく男前だ」と付け加えると、真由が神経質と挙げた理由については否定も肯定もせず「じゃあ今は?」とずいっと顔を真由に寄せてきた。「ただのお寝坊さん」と彼の鼻をつまんで笑った。「私、もう行く。一緒に出るわけにいかないでしょう」「すぐ帰るの?」「ううん、便箋買って帰らなきゃ」「じゃあ一緒に行こうよ。ロビーで待ってて」そう言うとさっと立ち上がって身支度を始めた有薗を、やっぱりこの人はオフからオンへの切り替えがすばやくて上手だ、と感心しながら、真由も立ち上がり「お先に」と声をかけて部屋を出た。
 チェックアウトを済ませた有薗は、昨日買ったパナマ帽を目深に被ってロビーに現れて真由を驚かせた。初夏の海の街によく似合う。どちらからともなく手を取り合ってホテルを後にした。輸入の筆記具やポストカードを多く扱うショップの近くで立ち止まると、真由は「私、ここで。ソノさん、本当にありがとう。プレゼントも、お土産も、ピアノも。とても言葉にできないくらい嬉しかった。ありがとう」と満ち足りた笑顔を浮かべた。心からの感謝を述べているのに、有薗は握っていた手に力をこめてぐっと真由を引き寄せ、耳元でそっと「君も素敵だったよ」と妖しい美声でささやき「ひゃっ」と真由が肩をすくめるのを見て笑うと「今夜も楽しんでね」と手を振って人ごみにまぎれていった。彼の背中が完全に見えなくなってもしばらく真由はその場から動けなかった。
**ランキング参加中**
NEWVELに投票
ブログにて更新情報を掲載しています。
不透明人間


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。