ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
  透明の向こう側 作者:
86
 部屋に着くと迷わず真由は窓際へ駆け寄った。「うわあ、すごく綺麗」と張り付くようにして外をひとしきり眺めると、クローゼットにジャケットを掛けている有薗をひらひらと掌だけで無邪気に呼び寄せる。真由の後ろに歩み寄って有薗も外を見た。「上から見るのも一段と綺麗だなあ」とともに夜景にしばし見入ったものの、すぐ目前にいる真由の耳元で揺れるピアスが有薗を誘う。後ろから見ると、刈り上げに近いくらいのショートカットが気持ちのいいうなじ、首から肩のラインが美しくなだらかな曲線を描いている。ふわっと後ろから抱きすくめると、肩に軽いキスをした。「今日の真由さんはなんだかとても綺麗だ。昼間、どきっとした」「あら、今日だけ?」有薗の正直な物言いに真由はくすっと笑った。「じゃあ、今日はいつにも増して」「じゃあって何やねん」真由はさらにくすくすと笑う。「真由さんってピアスしてたっけ?」「めったに着けないけどね。今日はせっかくソノさんとデートやもん、おめかし」「光栄だな」「のど渇いちゃったな、ビール飲もうよ」とさりげなく真由は有薗の腕をすり抜けてしまった。「ワインは冷やしといて、ビールはぬるくならないうちにガンガン行きますか」「おや、ずいぶんノリノリだね」「気分が良いのです」言葉の通り、コンビニのビニール袋から缶ビールやつまみをせっせと取り出す真由の顔には楽しげな笑みが浮かんでいる。
「真由さんの活躍に乾杯」と今夜三度目の有薗の大人なウインク。窓辺の椅子に腰掛け、高層階から美しい夜景を眺めながら飲むビールは格別うまかった。「病院には必ずベテランの医師や看護師が大勢いるから、私一人の判断にゆだねられることなんてなかったの。いくら軽症だったとはいえ、自分の判断だけであんなことしたのなんて初めて。フォローしてくれる人がいることの安心感って、とんでもなく大きなものなんだって、自分なんて医者を名乗るのも恥ずかしいくらいまだまだ何もできないって痛感した。もし、もし自分が思った以上に重症だったりしたらどうしようって、ものすごく不安だった」誰に言うともなし、視線は海に向けたままそう述懐すると真由はうつむいて眉間にしわを寄せ、ぐっと両手で缶を力いっぱい握り、缶がぺきぺきと音を立てていびつにへこんだ。「怖かった」この数時間のできごとを振り返って固く目を閉じる真由を有薗はしばらく黙って見つめていたが、缶をテーブルに置くとそばにひざまずいて肩に彼女の頭を引き寄せ、またもひたすら優しくなでてやる。こんなとき、ただ黙ってそばにいてくれる彼の温かさを真由は嬉しく思った。何も言葉などいらない、ただこうしてそばにいてくれることが嬉しい。そっとなでてくれる手の温もりが嬉しい。真由も椅子から滑るように床に落ちると、両腕を有薗の背中に回してきゅっと抱きついた。彼の腕の中のこのたまらない安堵感はなんだろうと感じながら。
 二人は椅子とテーブルをどけてしまい、床に肩を並べて座った。天井から床まで一面が窓になっているから、そうしていても美しい夜景は余すことなく眺められた。「ソノさんまでこんなとこに座らなくってもいいのに。たくさんの人が土足で歩いたとこだよ」と脱いだ靴を揃えながら真由が笑った。「今日は久しぶりに"医者の顔"している真由さんを見られて、嬉しかったな。僕が初めて真由さんを見たのは、お医者さんとしての真由さんだったから、なんだか懐かしい」「同じ顔やで」と真由がべろべろばあと表情を作っておどけるものだから有薗は苦笑して「よしなさい」と言って軽く頬をつねってたしなめた。こいつはどうやら誉められることはたまらなく居心地が悪いらしい、と真由のはにかみ屋な一面をかわいらしく思う。「きりっとしててかっこいいよ。頼もしい感じ。今は優しい顔してる」「もしかして入院してた頃は私のこと怖かった?」「とても」「ほんとに?」「冗談だよ。怖かったら大慌てで尻尾巻いて逃げ出してたさ」「患者さんに不安な顔見せられないでしょう。必死に隠してるねん」「隠すというか、スイッチが入る感じじゃないかな。さっきも怪我と知って瞬時に医者スイッチが入った。テキパキとあの場をさばいた真由さんを、誰も酔っ払いだとは気付いていないと思うよ。おまわりさんにも命令してたよな」「そんなにきつかった?おまわりさん内心『何こいつ』って思ってたかな。だって救急隊ならともかく、おまわりさんに何してもらえばいいかわからへんかった」「大丈夫だよ、いいお医者さんだって誉めてくれてたじゃないか。真由さんは心配性だな。もっと自分に自信持てばいいのに」まただ、またそんなことを言う。自信を持てずにもがいている自分の姿がこの人にはお見通しなんだろうか。真由は有薗の何気ない言葉に内心ヒヤリとする。「ソノさんは自分に自信が持てる?これだけは誰にも負けないって自負できることとかある?」「お気楽さでは誰にも負けない。何事もなんとかなるさって思う」「それって自慢になるんかな」「生きるのが楽だよ。君にこのお気楽さを分けてあげたい」そんなことを言いながら有薗はなにやら「気」を送るような妙な仕草をして真由を笑わせた。「音楽にかける思いは誰にも負けないとか、ベースなら俺に任せろとか、かっこいいこと言ってよ」「僕より音楽が好きで僕なぞ足下にも及ばぬプレイヤーは山ほどいる」あまりに正直に飾り気のない返事に真由はつい苦笑したが、ぽんと膝を打って「あ、さっきのピアノの『愛』、あれを弾けるのはソノさんだけだ。あれは絶対誰もかなわないよ」と有薗を振り向くと彼も真由の方を向いて「良い所を見出してくれてありがとう」とにこりと笑った。「明日はJAMANIAの『愛』が聴けるのかな。CD版、ライブ版、ピアノ版。こんなにいろんなヴァージョンで聴けるなんて果報者だな、私」心の底から期待に胸躍らせる真由の表情が有薗には嬉しかった。
**ランキング参加中**
NEWVELに投票
ブログにて更新情報を掲載しています。
不透明人間


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。