85
適当な距離を置いて警官とのやりとりを見ていた有薗は、野次馬がすっかり去り、警官も背中を向けるのを見届けて真由に歩み寄って「お疲れさん」と優しく背に手を添えた。「ほっぽり出してごめん」「謝らくていい。君は当然のことをしたまでだ。謝るよりまず感謝、君の持論だろう?」「待っててくれてありがとね。でもどうなのかな。本当は何も手を出さず、救急車を呼ぶのが正解だったかもしれない。見た目はたいしたことなくても頭の中はダメージ受けてることもありうるから。もしタクシーで行ったために手遅れになったら私の責任」「そうなのかな。僕にはよくわからないけど、君は君にできる精一杯のことをしたんじゃないかな」「ちょっと、一服」と呟いて真由は目を閉じ深く息を吸って長く吐く。それを二度繰り返して気持ちを落ち着けた。自分の正義をまっとうして束の間の休息を取る彼女の姿が美しいと有薗は思った。深呼吸で気分を整えた真由はさっぱりした表情を浮かべて「行こう」と有薗の腕を絡め取った。「明日ライブなのに、なんだか騒々しい夜になっちゃったね、ごめんね」「平気だよ。どうせいつもライブのリハなんてみんな二日酔いのドロドロで出てくるんだもん。今頃大阪の連中も、誰一人ホテルに帰ってないと断言できるね。リハで汗かいてアルコールが抜けていざ本番」「明日は何時に出るの?」「十二時」「あれ、チェックアウトって普通十時くらいじゃないの?」「ううん、十二時だって。リハが十三時だからちょうどいい」「そっか、じゃあ、これから帰って寝ても十分休めるね」「そういうこと、心配ない」元町駅からひたすら道なりに南下していくと、ある地点で真由が立ち止まって煌々としたコンビニの看板を読み上げた。「酒、タバコ。よしOK」とひとりごち、不審そうに真由を見た有薗に「タバコ買う。ソノさんはまだ飲むんでしょう?ビールでも買おうか」とこれ以上ホテルに近づくとコンビニがないこととホテルでは高くつくことを挙げてここで酒を買っておくことを勧めた。「真由さんも飲みなおそう」と有薗も即座に応じた。コンビニで買い物を済ませてさらに南下を続け、有薗が「あれ、そこホテルだよ?」と慌てて手を引いても「突堤まで行ってみましょう」と真由は歩みを止めなかった。中突堤に出て、見渡す限りの展望が明らかになったとき思わず有薗は息を飲んだ。想像の遥か上をゆく美しい夜景だった。「きれーい」と小さく感動の声を上げて真由も立ち尽くした。ぐるっと夜景を見渡していた真由の顔がふっと上を向いたので、彼女は何を見てるんだろうと有薗も同じように上を向いてみた。天上には点々と小さな光の粒が散りばめられていた。地上の照明、海を照らす常夜灯、行き交う車のライト、夜空に煌く星たち、様々な光の共演。有薗がその場でくるくると回っているので真由がくすっと笑って「何してるの?」と訊くと「だって、どこ見ても綺麗なんだもん」と真剣なまなざしで訴えるのであった。「もっと早い時刻ならハーバーランドのイルミネーションも点いててもっともっと綺麗なのにね」地上の輝きのみでは飽きたらず星空も見上げて貪欲なまでに目に入る美しいものを堪能しているくせに、本当ならもっと美しいと言ってのける君はすごいよ、と有薗は感心した。もし真由がふいと上を向かなければ自分は星空に気付けなかったろう。こんな風に満天から降り注ぐ星を見たのはいったいいつ以来だろう。教えてくれてありがとう。有薗がそんなことを思い、真由もひたすらうっとりと夜景に魅入っているとき、その静かに穏やかな雰囲気を引き裂く携帯電話の着信音が鳴り響いた。病院からだった。一瞬真由の顔が不安でこわばったが、手短に用件を済ませて電話を切ってしまうと「何も問題なし、おでこも縫うほどじゃなくてもうすぐ家に帰るって」と告げた。「ほんとに?良かったねえ」「良かった。ほんと良かった」ほっと緊張の糸が切れ、真由はヘナヘナとその場にへたり込んでしまった。タクシーを見送ってから無事の連絡が入る今の瞬間まで、いつもどおりの様子ながらも相当気持ちが張り詰めていたのだろうと察し、あらためて彼女の仕事の責任の重大さ、彼女自身の正義感の強さを思うと有薗には真由に対して畏敬の念に近いものすら湧いてくる。有薗は真由のそばにしゃがみこむと、彼女の頭を胸に引き寄せ、ただ黙って何度も何度も頭をなでてやった。しばらくそうしていると、真由は有薗の肩に預けていた頭をもてあげ、さっきまの表情とうって変わって彼女らしい柔らかな笑顔を浮かべた。有薗がいくらか体を引き離し、彼女の額に自分の額をこつんと当てて「落ち着いた?」と低く問うと「うん。ありがとう」と応えて安らかに目を閉じる真由は逃げもしない。有薗は真由の頬に軽くキスをした。それでも彼女が逃げもしないので、そのままくちづけようと再び顔を近づけると、触れるか触れないかの間際、さっと避けられた。「愛のないキスはしない」その言葉が有薗の脳裏によみがえり、胸が痛んだ。こんな瞬間でも主義を貫く彼女の冷静さが少々憎らしくも思えた。たまらなく彼女の唇を盗みたいと思ったが、そんな衝動は押し殺して何事もないように「さ、行こうか」と明るく声をかけると彼女の手を取って立ち上がらせた。二人は手をつないで美しい夜景に囲まれた突堤をゆっくりと歩いた。温かい黄色味を帯びた港湾の常夜灯が二人の輪郭を夜の闇に縁取って影絵のように浮かび上がらせていた。
**ランキング参加中**
NEWVELに投票
ブログにて更新情報を掲載しています。
不透明人間
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。