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  透明の向こう側 作者:
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 グラスを交換してみると、真由の飲んでいたショートカクテルはラムベースにフレッシュグレープフルーツの酸味と香りでサワーの爽快な飲み口の後にほのかに甘みが残るものだったが、有薗の方はロングでジンベースに何かリキュールが加えられ、こちらはフレッシュレモンの口当たりがさっぱりしている。どちらも自信作というだけあってうまい。店内は真由たちを含めて客は五組いたが、ステージが終わるとともにそのうちの一組が帰っていった。店に入った時刻が遅かったので真由たちは二曲しか聴けなかったが、それでも十分わかるほど今夜の女性シンガーの声は力強く、セクシーだった。有薗はステージが終わるとしばらくしてから、カクテルを啜りながら何度か時計を見た。と思えば〇時を少し廻った頃、突然何も言わずすっくと立ち上がりステージに向かって歩いて行った。そしてステージに上がると客席に向かって深々と一礼し、ピアノの前に座ると、両手を膝に揃えて静かに深呼吸した。帰り支度をしていた客もおやという風にステージに注目し始める。そして鍵盤に指を置く。「人前で絶対弾かない」と言っていた彼が、一体何を弾くつもりなのだろうかとドキドキする思いと、思いがけずまた彼のピアノが聴ける嬉しさとがこみあげる。奏で始められた曲は確かに聴き覚えがあった。そして曲の盛り上がりになったとき、ようやく真由は曲に思い当たるとともに、有薗の思いも理解して思わず右手で心臓のあたりでぎゅっと拳を握って胸に押し当てた。それはロック色を弱めてジャズ風にアレンジされた『愛』だった。ライブで聴き逃した、好きな曲なのに、と真由が悔しがった有薗の曲だった。JAMANIAの『愛』が激情なら、今ピアノで奏でられているそれは、もっと落ち着きがありながらなお弾むような瑞々しさ。同じ曲でありながらまったく別物の調子で、大人の愛がゆったりと奏でられる。曲も美しければ、間違いなくその曲が自分に向けて演奏されているという事実も感動的で、真由はきゅっと胸を押さえ続け、興奮に沸騰しそうな脳を感じながら力いっぱい目を見開いてステージを見守った。
 演奏を終えた有薗が立ち上がって再び深々と礼をすると、客席からは拍手が起こった。みな心から拍手を贈っているようだった。真由もまた、手が真っ赤に腫れ上がるのではと思うほど拍手を贈り続けた。ステージを降り、客席に向かって軽く会釈をしながら席に戻ってきた有薗はふうっと表情を緩めて「緊張したー」と言ってぐいっとグラスを傾けた。彼に向けて真由は小さくぱちぱちとさらに拍手し続けた。「照れるな、もうやめて」と言いながら伸びてきた彼の手が真由の手を柔らかく掴んで動作を封じ込める。「素敵だった」曲も、技術も、奏でる指先も、優しい空気に包まれたかのように穏やかな有薗の全てが。何もかもが素敵だった。「もともとこういうアレンジはあったの?」「曲作りはピアノだからね、原曲の原曲をジャズっぽいコードでやりました、ってとこだ」「絶対ほかでは聴けないよね」「ほかでもも何も、二度と人前ではやらん」「ソノさんありがとう、ほんとありがとう」感無量といった感じで真由が演奏を称え、誠実に礼を言うのに有薗はまたもいたずら心を起こし「礼なら体で返してもらおうか」と言ってからちらりと笑うと身を乗り出して先ほどよりさらに顔を寄せて真由の耳元で「言ったでしょ、今夜は帰さない」とささやいた。「ひゃあっ」思いがけぬ曲の演奏にすっかり興奮して油断していた真由は心臓が飛び出そうなほど驚いた。「や〜め〜て〜、ささやき作戦は駄目〜」と泣き出しそうな顔をしながら両手で耳を塞ぐ真由に対し「耳が感じやすいのかな」などと有薗は真由の様子を面白がるばかりである。「違う、ソノさんの声が駄目なの」「普通のオッサンの声だよ。これまで声を誉められたことなんて一度もない」「全然普通じゃない」「いいこと覚えた。これからは真由さんに何かお願いするときはささやき作戦だ」「卑怯者」「おもしろい発見だな」とおかしそうに笑い、さらに追い討ちをかけるように「マスターに聞いたよ、シェリー酒の秘密」と言われて真由はさらにめまいしそうなほど顔が熱を帯びるのを禁じえなかった。
「今日は無理言って悪かったね、ありがとう」帰り際、有薗が急遽ピアノを弾くと申し出たことを快諾してくれたマスターに礼を言うと「遠慮は無用。いい演奏だった。今日のお客さんはラッキーだ、こっちこそありがとう。ピアノに転向しても食って行けるよ」と混じり気なしの褒め言葉を賜った。「ほんとに?マスターにそう言ってもらえると自信になるな」と有薗も嬉しそうだ。「神戸は仕事で?」「うん、明日、国際会館」「JAMANIA?」「そう」「そりゃ、ずいぶん立派になったなあ」「またここでもやりたいよ」「もちろん大歓迎さ」「ほかのメンバーは今大阪なんだ、俺だけ神戸に来るのを悔しがってたよ」「このお嬢さんのために神戸に来たのかな。綺麗な人だね」有薗とマスターのやりとりを、有薗の後ろに控えて聞いていた真由に突然話題が転じ、彼はくるりと振り向くと「綺麗だって」と言ってにこっと微笑んだ。「社交辞令でしょ」真由は照れくさそうに小さく呟くとますます有薗の後ろへ隠れるように引っ込んでしまった。彼がマスターに顔を向けなおして「信じてないみたいだ」と苦笑すると「お世辞なんかじゃありません。人柄の良さそうな素敵な方とお見受けしました」とマスターもにっこりと微笑みかける。「あ、えと、ありがとうございます」素敵だのと言われ慣れていない真由は心底恐縮してしまって辛うじてきょどきょどとしながらも礼を言うとマスターは「またいらしてくださいね」と満面の笑みを浮かべた。
 店を出ると真由はすっと自分の腕を有薗の腕にからめて、肩にこてんと頭を預けた。「どうした、まさか酔っ払った?」「まさかってどういうことや」「君が酔う筈がない」「失礼ね。素敵な夜に酔ったの」「おやおやロマンチックなことをおっしゃる。でもまだ飲めるでしょ?」「胸がいっぱい」「君なら大丈夫」「ひどいなあ」「ところで僕は帰り道を知らないんだけど、君に任せて大丈夫なのかな。タクシー拾う?」「歩きたい。でもホテルって二人で予約してるの?」「まさか」「じゃあ私が行っちゃ駄目じゃん」「もう僕鍵持ってるし大丈夫じゃないかな。駄目なら二人分の料金払えば許してくれるでしょ」「何階?」「十六階」「そりゃ部屋の方角にもよるけど夜景に期待やな」いつの間にか真由は頭を上げてしゃんと歩いていた。足取りもしっかりしている。今夜はさほど飲んではいないが、昨夜から一睡もしていない筈なのに平静そのものである。有薗は内心「やっぱりこいつ、強いな」と笑った。
「『愛』を作った頃って、誰か好きな人がいたの?」「どうかな、覚えてない」「よく奥さんのために書いた歌ですとかってシングルにしちゃう歌手いるでしょ。ああいうのかなって」「そんなんじゃないよ。でもほんとに覚えてないんだ。たぶん自分の中で『愛とは何ぞや』みたいな思考が流行ってたんだろ」「でもメンバーは曲を知ってたんでしょう?」「JAMANIA入るときに『何か持ち歌はあるか』って、テストじゃないんだけど、披露させられた。すっかり忘れられてたのに『message』を作るときに復活を言い出した奴がいて。ええーって感じ」「でもいい曲だよ。今夜のピアノバージョンは落ち着きがあって、でも弾力性豊かな大人の愛、って感じ。どっちも好きだな。あんな曲を作れちゃうソノさんは素敵だよ」
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