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  透明の向こう側 作者:
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 唐突に海が終わると、境に市街地を挟んで今度は濃緑色の景色が突然開ける。「神戸が海と山に囲まれてるってよくわかるでしょ」とくるくると真由の指先が海と山の狭間で回転する。西側に向いている二人にとって左手に海、右手には山。真ん中に大小のビル群。これが一目なのだから、人々の暮らしがごく限られた地域に密集していることがよくわかる。しかし真由の口調には決して山を切り拓き、海を埋め立てて生き延びてきた街に対して嫌悪や諦観のようなものは含まれていない。ただ本当に狭苦しいところに人が密集しているでしょうと笑っているだけだ。その指先は山の連なりを示して「六甲山」とだけ告げる。「あの山から見る神戸の夜景がいわゆる百万ドルの夜景。でも実はイノシシが出没する怖い場所」「イノシシが?」「日本で大都市と言われるところで、野生のイノシシと共存してるのなんて神戸くらいのもんじゃないのかな」そう言って真由は、高校生時代の小さな思い出をひとつ披露した。市バスに乗っていたら急ブレーキがかかり、立っていた真由がよろけながら窓の外に見たのは歩行者でも車でもなく、道路を横切って山の方向へタッタと歩いているイノシシの親子だった。母を追ってまだ若干たどたどしい足取りでウリ坊が無事に横断しきるのを見届けると、急停車に乱暴な運転だと小さくののしる声すらあった満員の車内の緊張が一気に解け、誰もが苦笑とともに交通ルールを知らない無法者を許したのだった。しかもそれは三宮からそう遠くない場所でのできごとである。あまりに当たり前の風景としてイノシシは神戸の人間の胸にいついているのだと説明すると有薗は都心部で野生動物が悠々と暮らしていることにも、人がそのことに寛大であることにも驚き、感心し、そしておもしろがった。「自然と共存してる、それが神戸の良いところかな」と真由は話を締めくくった。
「海に浮かぶ都市って感じ。空想的」展望台をほぼ一周する頃、東に広がる市街地を見て有薗はそんな感想を口にした。「でも東京に比べるとずいぶんショボイでしょ。そんなに高いビルもないし」あれが一番背の高い関電ビル、次にNTT、そして神戸市役所の庁舎とひとつひとつ指差しながら、東京タワーから見た都会の風景とは比べ物にならない、と真由が言うと「大きければいいってもんじゃないよ」と有薗がふふと笑った。「立派な街並だよ」「私は田舎臭さが隠しきれてない中途半端な都会だと思うけど」「洗練されてる感じがするよ」ものはいい様?と真由は笑ったが、有薗は決して慰みにそんなことを言ったわけではない。鏡面のように眩しい水面は、深緑のあたりがかろうじて海を感じさせるものの、まるで繊細なガラスのようだ。ガラスの上に美しく林立するビル群。街が、繊細そのものだ。
「気に入ったな。こんなに海と山が近くて、いいところだ」手すりにもたれながら有薗が目を細めてそう言うと真由も嬉しそうに目を細めた。こんな風に上から広く海を望むのは久しぶりだ。いつも海はもっと近くに、真由を飲み込みそうなくらい暗く威圧的に存在している。でも今日の海は綺麗だ。こんなに綺麗なものに飲み込まれるなら本望だ、とさえ思ってしまう。滅多に時化ることがないゆったりと穏やかな海が好きだ。そして、海なくしては語れぬ街神戸が、結局は好きなのだ。真由はそんなことを考えながら「田舎すぎず都会すぎず、住み心地のいい土地です」と自ら再認識するように呟いた。住み心地という言葉で思い出したらしく、急に真由を振り返って有薗は嬉しそうに「真由さんが言ってた、地方に行ったら住宅情報誌を買うっていうの。実行したんだよ、このツアーで」と告げて驚かせた。くだらない会話の一端を覚えていることも、真由が面白いといったことを信じて試してみることも嬉しい。「おもしろい。ツアー中のいい暇つぶしができた。ありがとう」と言ってにっこり微笑む表情は真由が照れくさくなるほど清純だった。
 展望台はたいして大きくなく、あっという間にぐるりと一周してしまったが、有薗はとにかく大阪まで見渡せる東南の景色が気に入ったらしく熱心に海を眺めていた。神戸空港を離陸して西へ低空飛行する航空機も目の当たりにした。その隣で真由も同じく海に見入っていた。海を眺めていると心が安らぐ。海は自分を飲み込みそうな魔物であると同時に、不安や怖れも吸い込んでくれる救世主だ。海には静かに水面を揺らしているその存在だけで何か不思議な力がある。そして今、有薗とただ黙って隣り合っていることもなんだかとても安らぐ。彼にも何かほっとするような不思議な力がある。真由は当直からずっと張りつめていた心が凪いでゆくのを感じていた。
「お天気もいいし、もっと近くで海を見ましょうか。白砂青松とはいかないけど」ひとしきり展望台からの眺望を楽しむと、真由がそう提案した。二人はタワーを出て中突堤へ出た。若い男女が一組、腕組みをして寄り添いながら楽しそうに話をしているだけで人気はない。そこへ観光客向けの市内循環バスが深緑のレトロな車体から観光客を数組降ろして走り去ったが、観光客たちはいずれもタワーや神戸海洋博物館緒の方向へ歩き出すか、観光ガイドマップを取り出して思案するかで、やはり突堤へは出てこない。真由と有薗は突堤南側、オリエンタルホテルの手前くらいまで行ってみた。それまで南進していた真由が突如何も言わずに向きを変えてつかつかと際に歩み寄ったかと思うとなんの迷いもなくペタリと腰を降ろした。あまりに一目散に端っこに向かって歩いたものだから、有薗は一瞬「海に飛び込む気か」ととっさにその腕を掴んだくらい驚かされたのだが、当の真由は腕を掴まれて怪訝そうに一瞬有薗を見て、ふいっとその手を払うとその場に座り込んだのだ。「そんなとこにためらわず座り込むって、真由さんは若いな。地べたりあんって言うんだっけ。それももう死語か。海に落ちちゃうとか怖くないの?」「全然。いっつもこうやって端っこに座ってボーっとしてる」体育座りになってちょこんと落ち着いている真由のやや後ろに有薗も覚悟を決めて腰を据えた。東京タワーでガラスの床を怖がったように、有薗はこんな危なっかしい場所は苦手だ。なるべく水際から目を逸らし、気持ち良さそうにそよ風に吹かれながら海を眺める真由の横顔を目を細めて見つめた。首から肩にかけて露出している肌の白さが日差しを反射しているかと思うほどに眩しい上に、真由が何か話したり軽く顔を動かしたりするたび耳元のピアスが揺れてはキラッと光り、ますます真由を輝かせるように思えた。「ねえ、あんなところに遊園地があるの?」有薗が不思議そうにすぐ近くに見える観覧車を指差した。「小さいけど一応遊園地。ハーバーランドっていう商業地でデパートや映画館があるところなんだけどね。夜にはとても綺麗なイルミネーションなの。オークラに泊まるんなら見えるんじゃないかな。見てごらん」「あれに乗ろうよ」と言い出した有薗に心底驚いた真由は呆れたように「はあ?」と冷たい声を上げた。「そんな馬鹿にしたような返事しなくても」と有薗はショックを隠しきれない。「ごめんなさい、馬鹿にはしてないけど、びっくりした」「遊園地なんてずいぶん行ってない、行きたい行きたい」まるで駄々っ子ではないかと沈着な有薗に慣れているだけに真由は困惑しきりであった。「東京にも観覧車くらいあるでしょ、恋人と行けばいいじゃない」「今あれに乗りたいんだ。行こうよ」どうやら街中に唐突に姿を現した小さな遊園地がいたくお気に召したらしく、有薗は真由の袖をひっぱってせがんだ。「急がなくたって時間はあるでしょ」と真由はのんびり構えて容易に立ち上がろうとはしなかった。ちょうど港には大型クルーズ船『コンチェルト』が戻ってきたところで、大きくて真っ白な船体が着岸しつつあった。真由はそれを指差しながら「あれも確かイルミネーションが点く。このあたりは夜はほんと綺麗よ」と教えてやった。しかし有薗の興味はもっぱら遊園地に引き寄せられているらしく「おもしろいね、街中にいきなり観覧車があるなんて」とイルミネーションについてはまるで無視である。夜景なぞ東京で見慣れているか、とそれ以上港の夜景を薦めることは諦めた。「ソノさんってジェットコースターは乗れる?」「得意ではないかな」「ジェットコースター乗りたい。スカッとしたい」「何、ストレスたまってんの?」「そうじゃないけど。絶叫系が大好き。いつか富士急ハイランドに行って絶叫マシンに乗りまくるのが私の夢」子どもじみた無邪気な夢だが、真由は本気だ。岡山での学生時代、倉敷市にある鷲羽山ハイランドに遊びに行き、日本一怖い絶叫マシンと一部で評されているスカイサイクルを友人と二人で漕いだ。ビル三、四階程度の高さにレールだけが浮かぶように敷設されていて、上空でペアになって二台の自転車を漕いでレールの上を進んでいく。ちょっとバランスを崩せば落下しそうなスリルがある。友人は自転車を漕ぐ足が止まってしまうほど怯えていたが、真由は二人分の馬力を出すべく本気で漕ぎながら直下に見える森の茂みを楽しむ余裕すらあった。むしろ、あまりに老朽化し、レールも錆付いていてアトラクションとしてのスリルはさほどではないのに事故で脱線や落下が起こりそうなコースターの方がよほど怖かった。しかし真由はさらなるスリルを求めている。未だ富士急ハイランドが実現しないのは、絶叫系マシンに乗れる友人がいないからにすぎない。映画館に一人で通う真由でも、さすがに遊園地に一人で出かける神経は持ち合わせていない。「キャーって女の子らしい悲鳴をあげる真由さんが想像つかない」と馬鹿正直な有薗に「失礼なことを言われた気がする」といささかムッとしたような顔をしてちろっと睨んだが、彼はすっとぼけた薄笑いを浮かべて目を逸らせるばかりで、言葉を訂正しようとはしない。真由は苦笑して「だから、私を絶叫させるマシンを求めているわけですよ」と再び海に視線を戻し、遠い夢を追う眼差しをした。
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