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ふう、とため息が出た。ようやく一段落である。まだこれから、山田医長への申し送り書をメモ程度でもいいから作らねばならない。
医局に戻り、早速山田医長宛にメモを記録し始めた。自分の行った説明、相手の反応、付き添いが交代で三日間それぞれ違う人が来ること、付添い人同士で情報の共有をするよう伝えたこと、朝から付き添っていた母親を帰宅させたこと。それを五階病棟へ持って行き、ICUの看護師に言付けて再び医局へ戻って時計を見るとすでに十四時をまわっていた。このときようやく、有薗に連絡ひとつ入れていないことに思い至った。約束を忘れたわけではないが忙しすぎてそんなことまで考える余裕がなかった。今から大急ぎで仕事を片付けても病院を出るのは十五時か。ぱっと残りの仕事量からそう予測すると、バッグごと抱えてまた、職員通用口から敷地外へ出た。院内は当然携帯電話禁止が徹底されている。患者や家族に厳しく使用を制限しているのに職員が表立って使える筈もないのだが、関係者以外立ち入り禁止で医療機器もない医局での使用は事実上黙認されている。更衣室や事務室など多少の使用は目をつぶってもらえる場所はあるが、それでもあまり長く話していたり頻繁だとそれとなく注意を受ける。医局だけが無法地帯となっており、職員の中には医師でもなく用もなく、ただ携帯電話を使いたいがために医局へまぎれる奴もいる。真由は私用を人前で交わすことも、医師が偉そうに権力を振りかざすような医局の傍若無人ぶりも嫌っているから、当直で無人のときやよほど緊急の用件でない限り建物内で携帯電話を使うことはしない。結局は喫煙同様人目を忍ぶように敷地外へ出る。ちょうど誰もいなかったので電話をするには好都合、人が来ないうちにさっさとすませようと携帯電話を取り出すと、メールの着信はあったが電話はなかった。メールは佳奈からで「明日JAMANIAだね、席もいいし今から楽しみ♪」とウキウキと書かれている。神戸のライブは、前から六列目の席が取れてみな大喜びだった。さすが真由、神の手!と賞賛された。誉められて悪い気はしないが、手先の不器用な自分は外科医として神の手と誉められることは一生ないんだろうと若干複雑な思いである。
有薗に電話をしてみるとしばらくコール音だけが空しく響き、諦めて切ろうとした頃に「もしもっし」と慌てて出た有薗の声が飛び込んできた。「すみません、まだ仕事終わらなくて病院にいるんです。たぶんあと一時間ほどで出られると思うんですけど」連絡をしなかったことにも、ずいぶん遅くなることにも恐縮する真由の声に対し有薗はいつもどおり寛容だ。「実は寝坊しちゃって僕もさっき神戸に着いたところ。じゃあホテルにチェックイン済ませてくるよ。どこで待ち合わせよう?」「ホテルはどこ?」「オークラ」「それならポートタワーはすぐ近くに見えるから、迷わず歩いて行ける。ポートタワーの入口に、三時半くらい。もしかしたら遅れるかもしれない」「いいよ、待ってる。タワー入り口ね。了解」じゃあ後ほど、と言って電話を切ると大慌てで医局へ駆け戻る。
それから猛烈な勢いで最低限の仕事だけを片付けるとロッカールームに引き下がり、ささっと身支度にかかった。今日は淡いベージュのワンピース。少し大きめに肩の開いたスクエアネックはシャープな印象だが、ウエストでたっぷりのボリュームのタックがたたまれて膝丈のスカートがふわっとほどよく膨らむ、女性らしい甘さがミックスされていてお気に入りの一枚だ。パールをあしらった揺れるピアスとネックレスを着けるとぐっと女らしく見える気がした。気のせいか、と鏡の中の自分に苦笑した。時間もないことだし、どうせ有薗はノーメイクの方が見慣れているし、せめてワンピースの女らしさに合わせてと唇にグロスを載せて艶を出した。有薗に会うと思うとおめかししたくなるこの心境はなんだろう、少しでも彼の目に美しく映りたいのかと自分の行動にいくらかの不審を抱きながら。パンプスに履き替えて大急ぎで病院を飛び出したのは十五時少し前だった。
電車を元町で降りると、カッカとヒールの音を小気味よく響かせ、早足で駅からひたすら南下して歩いていった。メリケンパークに入ると、高層ホテルがそびえている。その向こうに、ポートタワー。まっしぐらにそこへ向かってさらに早足で歩いた。タワー入り口に着くと、時刻はちょうど十五時半。良かった、間に合ったとほっとすると同時に、早足で歩いたせいか汗が吹き出た。ハンカチで必死に汗を押さえ、息を整えていると有薗が姿を現した。入場券を買っておいて突堤をぶらついていた彼は実は少し前から真由に気付いていたのだが、まずふわっと広がる女性らしいワンピースを軽やかに着こなしている姿にへえと目を奪われ、次いで彼女の首筋から胸元の白磁の肌に見とれた。初夏の太陽の輝きのもと、透き通るように美しい、と思った。決して美人という部類ではないが、さっぱりと刈り込んだ黒髪のショートカットが、開いた襟ぐりやスカートのボリュームが放つ女性らしさと程よくバランスを保っていて全体に清潔感があるのが真由らしい。中へ入ろうと言って二枚の入場券を見せると「あ、買っちゃったんだ」と真由が小さく驚き「私がお誘いしたのに」と申し訳なさそうな顔をする。「そんな細かいこと気にしない。さ、行こう」と有薗は彼女の肩を押して促した。エレベーターに乗って展望台に上がると、真っ先に目に入るのは海。つい数秒前、確かに地上で落ち合った自分たちが今は海上に浮かんでいるかのような錯覚すら起こしそうな程、圧倒的なまでに静かに絶大に海が視界に広がる。「これは見事だね」打ち寄せる波がないゆえか、陽光をたっぷり吸い込んで目一杯鏡のように反射しながらただ静かに、どっしりと横たわっている。緑がかった海面にときおりボートが真っ白なしぶきをあげると、その爽やかなコントラストにはっと目を奪われる。東の対岸は大阪、すぐ近くに神戸空港があるから運がよければ離発着の飛行機がでっかく見える。東京ほど解説を加えるべきランドマークも何もない風景を前に、真由は必要以上に多くを語るつもりはなくぽつりぽつりと最低限の言葉を発するに留め、有薗も彼女にそんなものを最初から期待している風でもなく、ゆっくりと、彼自身のペースで歩んでは立ち止まって風景に見入る。時折有薗の視線の先を確認して「足元にあるあの白いの、ホテルなんですけど、船に似せて造られてるの。海に浮かんでる船に見えない?」と彼のペースを乱さない程度に教えてやれば「へえ、見えるね。こだわってるんだなあ。さすが港町」と有薗は感心した声でいちいち真由の言葉にうなずいてみせる。「あれが淡路島。今日はお天気が良くてよかった、よく見える」と真由が指差す方向には日本一の大きさを誇る島が豊かな緑を映えさせながら海に浮かんでいる。「淡路島ってこんなに近くなんだ」「淡路島の向こうにかすかに四国が見えるよ。ソノさんの故郷だね」故郷という言葉に、出身の香川を「四国」と大雑把にひと括りにされてしまった微妙な心境や、ろくに帰省もせずにいる自分のろくでなしさやらがこみ上げてきて、有薗は微かに笑った。
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