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有薗と約束していた二十六日は明け方に運ばれてきた急患が緊急オペが必要で、真由もオペ室に入っていた。頭部外傷で、オンコールで待機していた脳外科の医長を急遽呼び出して手術が始まったのが六時頃だった。手術自体はそんなに時間を要しなかったが、その後経過を見守るために何度も医局とICUを行き来し、つきっきりになっていた。また、患者の家族が年老いた母一人で、手術についてや今後の治療の話をしてもなかなかすべてを理解してもらいがたく、他の親族の到着を待った。患者の弟だという男がようやく病院に到着したのが十一時頃だった。彼は奈良に住んでいるということで、母親から連絡が行ってから大慌てで車で駆けつけたのだった。手術に当たった脳外科医長はその後搬送されてきた患者の緊急オペで引き続き執刀にあたっていたため、代わって真由が説明を行うと「このあたりに住んでいるのは母だけなんです。兄弟親戚みな奈良か京都で。離婚した奥さんに来てもらうわけにもいかないし」と困惑しきっていた。患者の弟の気の弱そうな風貌がなんとも心細く、気の毒に思えた。「奈良の病院へ移すことはできませんか?」気弱そうに見えて言うことは大胆だ、と半ば呆れる思いがしたが「今日明日には無理ですよ。手術したばかりなんですよ」と諭すように答える。「私もそんなに何日も仕事を休めません」のらりくらりと言葉を選んで、真由が付き添いはもういいですと言いだすことを待っていることが様子をうかがうような目つきに表れている。「ここ二、三日はやはりどなたか付き添いの方が必要です。それに逐次経過の報告なども行いますが、それをしっかり理解していただける方がいらっしゃらないことには。お母様一人では負担が大きいと思います」「私の妻も勤めていますしねえ」「ほかにご兄弟は?」「妹がいますが、これもやはり仕事を持っていまして。休むのはそうそうできないと思います」「なんとか、交代でもできませんか?離婚されてるということですが、元の奥様やお子様は?」「もう再婚しているからあの人には頼めないですね。子どもはもう大学生ですが、学生に病人の付き添いをさせるのはかわいそうでしょう」自分の父親が意識不明なのだ、学生だからかわいそうも何もあるものか、仕事や学校と家族、どっちが大切なんだと苛立ってくるのをぐっと抑える。「だから、交代でもいいんです、面会時間は限られているんですから、一日中ずっと付き添ってくださいとは申しません」「最低、何日ですか?」「最低ですか、最低でも三日」「その後は奈良へ移せますか?」またそれか、と思うが慎重に答えを選ぶ。今ここで自分が安易に転院をほのめかしてはいけない。「それは経過を見ないと申し上げられません。おいおい考えましょう」ようやく彼が親族に連絡を取って交代で付き添いにあたるための調整をしてみる、と折れたのは昼すぎだった。真由にしてみれば患者の心配、患者の看護が最優先と思われるのに、意外に仕事を理由に重症患者を放置する家族は多い。「こいつはギャンブル狂で親戚中から見放されてる奴なんです」などと家族の内情を吐露する者もいる。逆に軽症なのに「二十四時間付き添います」と言って聞かない者もいる。世の中にはいろんな家族模様があるものだ。ICUで他の患者の様子を見たりして医局に一旦引き下がり、院内回覧などハンコをつくだけで終わりそうな雑事だけざっと済ませると、病院の職員通用口から敷地外へ出てタバコに火を点けた。「なんかお疲れやな」と先に一服していた市川に声をかけられた。「患者さんの家族に手こずった。参った」「タチの悪いのおるからなあ」「タチが悪いとまでは思わへんけど。なんで病気の家族がいるのに『仕事があるんです』って言えちゃうのか理解できない」「お前やったらどうする?お前はまあ、すでに両親がおらんけどやな、もしお母さんが急病で一週間入院とかなったら」「半日休暇とか、両立させる方法はあるでしょう。家族を優先すると思う」「そうか。でもお前が休んだ分、倍働かなあかんなる医者がおるんやで」「困ったときはお互い様でしょ、他の人がそういうことになったら私はいつも以上にがんばりますよ。まあ私なんてまだ半人前以下なんやけど」「オペ中に家族の急変聞かされたら?」「それは・・・厳しい質問するなあ。それだったら手術を終わらせる方を優先する。終わり次第駆けつける」「間に合わないかもしれない」「医者なんて仕事を選んだ時点で、親の死に目に会えると思うなって、言われたことがあります」「ふーん。さすが熱血って感じやな。まだまだ若いな」「それってバカにしてるの?」「誉めてるの」「ほんとかなあ」「俺の目が嘘を言ってる目に見えるか?」くるっと真由の方を振り向いて、市川はきゅっとメガネを直しながら真由を見た。「もんのすごく嘘っぽい」真由はしばし市川を見つめた後そう答えて笑った。「お前には、はっきりせんでおたおたする家族がもどかしく見えるんやろうな」「うん、そういう感じ」「十の家族があれば十の事情がある。マニュアルどおりにいかへんことの方が多い。そういうのもいっぱい経験して、受け止めて、乗り越えていって、一人前の医者に成長する。あ、俺なんかかっこええこと言うとるな」「自画自賛っすか」「今夜グチ聞いたろうか?体で慰めてやろうか?」つんつん、と肘で真由の胸を突くとニヤッと市川が笑った。「今日は約束あるから」と真由が答えると「そうか。じゃあお先に」とあっさり引き下がって姿を消した。タバコを吸い終えた頃に院内PHSが鳴った。「五階病棟です。患者様のご家族がお待ちです」「わかりました、すぐ行きます」トイレに行って口をすすぎ、エレベーターで五階へ上がった。面談室に入ると、先ほどの男がうなだれて座っていた。芳しくない結果が聞けそうだ、と覚悟した。「とりあえず、今日はこのまま私が残ります。入院に必要なものは売店で揃うそうなので、私がとにかくやれるだけやります。明日は、姪・・・彼の娘が夕方の面会時間になったら来る予定です。大学の授業が終わってからなら一日くらい行けるということだったので。明後日は、私か、私の家内が仕事を休んで。まだどちらか決まっていませんが、一応家内には、明後日休みを取るように申しました」「わかりました。あちこち連絡して説明して、さぞお疲れになったことでしょう。大変でしたね。ただ、三日間、付き添いの方が交代でバラバラということなので、確実に、その日付き添いをした方と、翌日付き添いをする方、そしてあなた、連絡を取り合って、状況を把握して共通認識を持つように努めてください。大変だと思いますが、頑張ってください」「はい」「主治医は脳神経外科の山田です、今手術中でここにおりませんが、彼からあらためて詳しい説明があると思います。夕方に、お呼びします。売店で買い物をしたり必要な手続きはそれまでに済ませておいてください。ところでお母様はまだいらっしゃるんですか?病院の椅子は腰に悪いし、一度ご帰宅なさったらどうでしょう。タクシーで来られたようですから、タクシーで帰れますか?」「大丈夫だと思います」「じゃあ、朝からずっと付いてらしてお疲れでしょうし、一度帰してあげてください」
面談室を出て、真由はICUの詰所からそれとなくその親子のベッドサイドを見ていたが、どうも母親が腰を上げそうにない。患者の弟が説得している顔も、相変わらず心細い。当分見守っていたのだが、これでは埒が明きそうにない、と結局真由は自分がベッドサイドに歩み寄るとかがみこんで母親を下から見上げ「お母さん」と手を取った。「早朝からずっとここにいてお疲れでしょう。一度おうちでゆっくり休まれた方がいいですよ。手術もうまくいったし、心配しないでください」真由は心底母親の心身を気に掛けてそう言ったのだが、母親は胡散臭そうな目で真由を見、残る、ここにいる、と答えるばかりである。「お母さん、息子さんが意識が戻ったとき、お母さんが心配のあまりやつれていたりするとかえって心配かけちゃいますよ。休みましょう。さ、タクシー乗り場までお送りしますから」と言っても頑なに平気だから残るの一点張りだ。「お母さんの元気な笑顔を見せてあげてください、ね?」めげずに真由は言葉を続ける。もう一方の手を母親の手に載せ、自分の両手で包み込んだ。「朝よりもずっと疲れた顔されてますよ。あなたがもし私のお母さんだったら首根っこ捕まえてでも家につれて帰ります。お母さんの方が心配ですもの」情に訴える作戦に切り替えるとようやく「しつこいな」と言いつつも迷いを見せ、真由の温かい手に握られて心強く思ったのかついに「わかりました、今日はこれで失礼します」と言うと照れくさそうに真由の手を振り払った。「タクシー乗り場までご一緒しましょう」と母親を立ち上がらせると、そのまま肩を抱いてICUを出、タクシー乗り場までずっと背中に手を添え続けた。面会時間は三時からだからゆっくり休むように言ってタクシーが発進するまで見送った。
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