68
神戸のジャズクラブにゲスト出演すると有薗から聞いたとき、一瞬佳奈を誘ってみようかと思った。ジャズを聴くようになったきっかけは彼女のピアノだったし、学生時代から神戸で事務員として働いていた数年間は、佳奈とよく二人でジャズクラブに行っていた。しかし佳奈も結婚してからはなかなか夜に出歩くことは難しくなっていたし、なんとなく、間違いなく今年、生演奏を聴くのはそれが最後になろうし一人のんびり音楽に身をゆだね、おいしい酒を飲もうという思いの方が勝り、結局誘わないことにした。会う時間はないと言っていたので、特に有薗に知らせずにそっと行って音楽を堪能してそっと帰ろうと決めた。
火曜日、報告書をプリントアウトして一度ざっと読み、さらに自分の記録したノートとも見比べて加筆修正すると、可能な限りもらってきたデータや、部外秘のマニュアル類のコピーも丸秘の印を押して添付し、主任以上の管理職全員回覧の院内決裁に回した。ずいぶん分厚い報告書になり事務室に「報告書回しといて」と持っていくと、受け取った事務員が「何これ?すごっ」と驚いた程だ。「殆どはもらったコピーだから、自分で作ったのは頭の数ページだけ」と真由は笑っていたが、この報告書は誰もが熱心に読んでくれたようで、真由の元へ戻ってくるのは年が明けてからとなる。自分が作成したカガミの部分だけは別に高遠に渡したが、その翌日には高遠は真由を質問攻めにした。「ここではもっと他に何か聞かなかった?」「この事例で君が気付いたことはこれだけ?」「この患者さんにこの薬を投与した理由はちゃんとわかってる?」次々と発せられる質問に「えーと」と真由は言葉を詰まらせて目をキョロキョロさせてうろたえ「詰めが甘い。でもまあよくまとめてあると思う。年明けにはうちのマニュアル、ガイドライン改正の委員会があるから、いよいよそっちも大詰めやぞ」と書類の束でばさっと頭をはたかれた。「年明けすぐ?」「少なくとも一月中」「そんな、殆ど時間ないじゃないですか」「大丈夫、できる。確実にいいものになってきてる。あと一歩や」「本当に?」「本当」と言いつつも真由が自分でマニュアルから何から、データを書き直して体裁も統一して整えたことを指摘し「ほんまはこういう作業こそ事務方がちゃんとこなしてくれないとな。俺らの本業は文書作成ちゃうやろ。事務方に的確に指示できるようになるのが次のステップやな」と言ってにやりと笑った。真由が書式まで細かく手直ししていたことは高遠にはお見通しだったか、とそのことも少々ショックだったが、正直、それは気が重いな、と思った。以前「俺はあんたたいに頭良くないからな」と開き直られたショックは相当大きい。それ以来、真由は他の医師たちなら事務員に任せるような事務作業もほとんど自分ですませるようになってしまった。医師の中には出張の報告書を事務員に口述筆記させたり数行の箇条書きで済ませるものぐさもいる。しかし真由にとってはあんなくだらない逆切れを浴びて不快を覚えるより、自分でちゃっちゃと済ませる方がよほど楽だ。そう思うのは事務経験があることも手伝っていると思われた。もともとが事務畑の出身だから事務的な作業にも抵抗がないことが幸か不幸か、仕事を真由自身が増やしているのであった。
高遠が真由に次のステップと言ったのにはもう一つ理由があった。四月から真由はこの病院の正職員となる。研修医の肩書きすなわち免罪符がなくなるのだ。正職員として救急部の一員になるからには、今以上に責任も期待も大きくなるぞと高遠は言外に匂わせているのである。
二十九日は十九時前に病院を出た。いよいよ明日から年末年始で、この病院は一年中で入院患者も職員も最少人数になる。本当はもっと早く切り上げたかったが、年末年始の連休を機に退院する患者を見送ったり、院長のありがたいお言葉を聞いたりしているうちに仕事がたまり、夕方から猛スピードでそれをやっつけた。もう最悪、有薗の出番を見られなくても構わないとさえ思った。ゆったりとジャズを聴いて年を越す。それでいいかな、と。店に入ると、世間は忘年会シーズン、多くの会社で今日が仕事納めなためか、案外客は少なく空席が目立った。ステージからは遠いが、周りに人のいないテーブルに着くとウォッカトニックを注文した。ふうっとタバコの煙を吐き出してあらためて店内を見回すと、ステージそばのテーブルがずいぶんにぎやかで、その輪の中に有薗を認めた。出演はたぶんまだ、まずは一杯というところだろうと思って見るともなしに見ていた。彼がこちらに気付かなく別にいいと思ってグラスを傾けながらステージを眺めていると、いつしかすっかり音楽に気をとられていた。今夜は聴いたことのない曲が続くな。年末に合わせた選曲なのか、バンドのオリジナルなのかなどと考えているところへ「真由さん」と柔らかい声がかかった。声の方向へ顔を向けると有薗がグラス片手にニコニコと立っていた。「ここいい?」と真由の向かいの椅子を指したので「どうぞ、一人ですから」と答えると「入って来たときから気付いてたんだけどね。来てくれてありがとう」と腰をおろした。CUBE出演を知ってかけつけてくれた古くからの知り合いと今は客として楽しんでいるのだと言う。「出番はまだ?」「まだまだ。出番の頃にはすっかり酔いどれになってそう」「JAMANIAのライブのときもお酒飲んでるの?」「さあどうでしょう」「え、否定してくれへんの?」「ご想像にお任せします」いたずらっぽく愉快そうに笑って答えをはぐらかす有薗に真由は小さく「やだなあ」と呟いた。「来年は春からツアーも決まったよ。まだ日程は調整中だけど。今回は割りと大きいホールでやるみたい」「神戸だと国際会館かな」「そうなるのかな、ごめん、まだ僕も知らないんだ」「ファイナルは思い切って武道館?」「まさか、それはないでしょ」「わかんないよ、いつかJAMANIAも武道館でやる日がくるかも」「そしたら武道館まで来る?」「もちろん」「じゃあ、約束」と言って有薗は小指を差し出した。真由はそこに自分の小指をからめて「約束」と笑った。ジャズバンドが武道館で演じることが音楽にふさわしいかどうかは知らない。ただ大きなホールと言われて真由が思いついた象徴がそこだったというだけだ。JAMANIAがいつか武道館を満員にさせようなんて野望を持っているとも思えない。むしろ彼らは地味に小さな会場を回ってはそこを酸欠にしてしまう。それでも真由が楽しそうに「武道館でやるならアリーナは椅子なんて置かないでスタンディングにしよう、ダンスホールにしちゃおう」と言えば有薗も乗り気な風に「それがいいね」などと応えて調子を合わせてやる。ふと何かを思い出した有薗が「そうそう、これ」とジャケットの内ポケットから紙切れを取り出してテーブルに投げた。「何、これ?」「ヘッドホン。型番とだいたいの値段」「覚えててくれたんだ」「当然。高い物はあんまり強くお勧めもできないんだけど、できれば惜しまずにいい物買ったほうがいいと思う」メモ用紙に書き連なれた暗号のようなアルファベットと数字をなんとか解読すると真由は「嘘、ヘッドホンてこんなに高いの?全然知らんかった」と目を丸くして驚いた。「そこに書いてるのはどれもコードレスだから、ヘッドホンして踊り狂えるよ」「どたばたうるさいって結局苦情来たりして」「熱唱しながらひとり踊り狂う真由さんを今想像した」と有薗が笑ったものだから「しないで」と彼の前に手をかざして真由は有薗の妄想にストップをかけた。熱唱なんて言ってないしマンションの一室で苦情が来るほど本気で踊るわけがないじゃないか。「一番のお勧めはこれ。このくらいの値段でこれだけのスペックあれば十分だと思う」と有薗は真面目な調子になってメモの一番上に書かれている商品名をトントンと指差した。「ボーナスもらったし、思い切って買おうかな」「そうだよ、思い切りは大事」「ありがとう。帰って検討します」「検討もいいけど、ほんと思い切りは大事だよ」「うん」「じゃあ僕、あっちに戻るから。今夜はゆっくりして行って。って明日仕事?」「ううん、明日から三日まで休み。大晦日に当直」「じゃあ病院で新年を迎えるの?」「うん。どうせ帰る実家もなし、家にいたって一人だもの、仕事してる方がいい」「そっか。体に気をつけて」「ソノさんも。よいお年を」ひらひらと手を振って有薗はもといたテーブルへ戻っていった。真由が何杯目かにスプモーニを飲み始めた頃、インターバルを挟んで演奏するバンドが交代した。いつのまにか例のテーブルから有薗の姿は消えており、出番が近いのかと思っていたら二曲演奏して軽い自己紹介とトークをしたバンマスと思われる男が「ここで特別ゲストをお迎えします。JAMANIAからSONOさん!」と上手に向かって手をかざした。わっと拍手と歓声が起こり、ステージに有薗が姿を見せた。「SONOさんがここで演奏するのは五年ぶりだそうです。とても我々はJAMANIAにはかなわないですが、今夜は特別にお客さんにも大目に見てもらうことにして一曲、JAMANIAからやります」そう言ってJAMANIAのオリジナルが一曲、有薗のコントラバスも加わって演奏された。アマチュアバンドらしいが、真由には十分満足できる演奏だった。JAMANIAとは楽器の構成も違うし当然アレンジされており、なんとなく違う曲を聴いているような不思議な感じがしたが、それもまたいつものJAMANIAと違う味わいで楽しかった。続けてジャズのスタンダードナンバーを演奏すると、客席の拍手にうんうんと満足げに何度も深くうなずいて応えながら軽く手を挙げて、有薗はステージを後にした。
その夜すべての演奏も終わり、しばらく静けさの中タバコをふかしていた真由も、最後のグラスを空にすると店を出た。支払いをしようとするとマスターは「SONOから頂戴しております」とニッコリと断り「来年もまたお越しください」と店の外まで真由を見送ってくれた。
**ランキング参加中**
NEWVELに投票
ブログにて更新情報を掲載しています。
不透明人間
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。