自傷行為、傷口について具体的な描写があります。ご注意ください。
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照明を最小限に落とした薄暗い部屋で、真夜中の静けさの中、真由は悲しさをたとえ一時しのぎにすぎぬとも忘れ、自分の存在を認識する儀式を行った。
禁じられている酒を飲む。冷凍室でキンと冷えたウォッカをグラスに二杯。とろみのある透明な液体が、柔らかい口当たりながら刺激的な高アルコールでほんの少し、気持ちがふわりと浮くような心地をもたらす。自分の体が自分のものでないような、指の末端まで思い通りに神経が行き届かない不思議な感覚に覆われ、体がアルコールに騙され始めたと確認すると救急箱を手元に引き寄せる。ガーゼ、コットン、テープ、消毒液、精製水、メスを用意。ペットシーツも用意。ガーゼを五センチ四方くらいにたたみ、すぐに貼り付けできるよう長めにカットしたテープを井の字に貼る。コットンは何枚かを精製水で、一枚を消毒液で湿しておく。
もはや新しい場所の開拓など無理な両腕を、それでもどこか切るところはないかと探す。しかし、両腕ともびっしりと新旧の傷が這い回っている。利き腕などもはや関係ない。静脈が透けて見える白い肌を裂くと、黄色い皮下脂肪の層がぱっくりと口を開けて奥に朱に近い肉が見えるがたちまち鮮やかに濃く赤い血が滲む。それでいい。求めているのは白と赤のコントラスト。
結局、もはや色褪せてただみみず腫れのような筋が白く残っているだけになっている右の内肘に狙いを定めた。
定めた場所を消毒液を含ませたコットンで拭くと、パキッと先端の刃をカバーしているプラスチックの安全ガードを折って使い捨てメスの刃を皮膚に立てる。
自傷にメスを使うようになったのは神戸へ戻って医者になってからだ。切れ味も、傷の治りもカッターなどよりメスが優れている。まさか出入りの業者からメスを個人的に買うわけにもいかず、ネットで購入する。実験名目で。自傷行為のために道具を追求する自分もまた馬鹿馬鹿しいと自嘲しながら。
すっと軽く、細い赤い線がわずかにできる程度に一条メスを引く。このとき、殆ど痛みはない。さらにその線をなぞるように、今度はもう少し力を入れてメスを引く。皮膚を切り裂く痛みがぴりりっとメスを追うが、気にしない。傷口がアーモンド型にぱっくりと開く。黄色っぽい粒状の脂肪の層にみるみる血が染み渡り、奥に見えている肉と一体化していく。表面へ出てきた血は一定の流れを作る。ぱたっ、ぱたたっと血が、床に広げた白いペットシーツに吸い込まれていく。ペットを飼ってもいないのに自傷のためにペットシーツを買う自分の馬鹿馬鹿しさに大笑いしたのはいつだったか。さらにその傷を、メスに力を入れ、角度をつけてザックリと掘り下げる。肉を切るときは、皮膚を切るようなはっきりとした痛みも手ごたえもない。柔らかい。さらに、深く。もっと、深く。しかし、神経や腱を避ける程度の理性は残っている。
普段は、そこまで切ることはない。本当に表面的にすっと一条メスを走らせれば気が治まる。ほんの少しの痛みと、ほんの少しの血の赤が心を安らかにしてくれるから不思議だ。しかしその晩はよほど思いつめていたのか、うっすらと血がにじむ程度の浅い傷ではちっとも心が軽くならず、七、八ミリ程度の深さの傷を三つ作った。傷を深く掘り下げ、より多くの血を流すことに集中していると、束の間、負の感情を忘れることができた。三つの傷から滴る血が、ある一点で合流し、大きな雫となってぽたりぽたりとペットシーツに落ちてゆく。わざと止血もせず、血の流れるのにまかせ、鮮やかな赤にみとれて時間を忘れ、悲壮感をも忘却のかなたへ押しやろうとする。
これはかなりはっきりと傷痕が残るだろう。そう思ったが、後悔はない。
醜い傷痕は、誰かを傷つけたり、誰をも愛せない自分の罪への罰なのだ。自ら下した罰として一生負い、代償を払い続けねばならないともう覚悟を決めている。
血が固まり始める前に、精製水を含ませたコットンで傷口と周囲を拭い、ガーゼを貼る。
こうやって儀式を終えて処置をする段になると、自分の行為の無意味さに空しさが募る。部屋に漂う鉄の匂いにムッとなる。
それでも、同じ愚行を繰り返してしまうのだ。自分はどこまでも愚かな人間なのだ・・・。
シャワーの後、土曜の夜の空虚感を思い出しながら流れるにまかせていた血を拭って傷を消毒すると、もうさほど出血がないことを確認してガーゼをやめて、なるべく傷口同士が近づくように寄せながら、ドレッシグ剤を貼った。「俺は信じる」そう言ってくれた高遠の言葉が嬉しかった。自分にも信じられるだろうか。いつか、こんな傷を作らずとも上手に生きる大人になれるのだろうか。信じたかった。
*ドレッシング剤、ドレッシングフィルム=ガーゼのように傷口にくっつかず、傷の治りも早いので外傷の処置として主に使用されている粘着シールのようなものです。
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不透明人間
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