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ストレスの発散をアルコールに逃げることでかろうじてできていたのは、酒を覚えたての若い頃のごく短い期間だった。しかし残念ながら真由は少々の酒では酔うことができない。酔って負の思考を抑えるには、大量のアルコールが必要だった。最初の大学時代、バイト先にとにかくだれかれ構わずいじめる陰湿なパート主婦がいた。彼女のいじめに耐えていた頃、寝る前にビールを飲むようになった。しかしビールごときでは少しも現実を忘れることができず、いつかウイスキーになりジンになりウォッカにたどり着いた。こうして強い酒へと逃避の手段が移行するとき、彼女は何も食べずにひたすら飲むようになってしまった。何も食べずにアルコールだけ摂取する方が効率が良いと、学習してしまった。とにかくアルコールで酩酊して現実を忘れたかった。何も食べずに酒を飲むことに体が慣れると、中途半端に何かつまむとかえって気持ち悪くなってしまうという悪循環に完全に陥っていた。存命だった母親は彼女の酒の飲み方を快く思っていなかった。明らかに楽しんでいる風ではなかったのがそばで見ていてよくわかっていたからだ。しかし原因を知ろうとせず酒の飲み方だけを取り上げて何度も咎められることもまた、真由にはストレスだった。放っておいてくれ、自分の体だ、好きに飲ませろと何度もケンカした。就職すると、社会人には社会人のストレスがあった。仕事のやり方が合わない人、わがままな人、陰口に熱心な人。そういう人たちを真由は上手にやりすごし見過ごし表面上でうまく付き合うということができなかった。彼女は社会人としては幼すぎ、正直すぎた。うまく付き合えないということは、衝突するか、無視するしかない。当然、人間関係でギクシャクとした空気が生まれ、うとまれもした。隣の席に座っているのに口もきかないという同僚ができ、相談しようにも直属の上司は仕事よりも社内不倫に熱心だし、その不倫相手からは関係を知っていることに気を許したのか「他に相談できる人がいない」と頻繁に相談を持ちかけられる。不倫なんて口外できないし、泣きつかれる自分は誰にも愚痴をこぼせない、理不尽だと思いつつも嫌な顔一つせずにまじめに相談に乗ってやった。そうやって人間関係のわずらわしさを感じ始めていたところへ、一番仲良くしていた同期の女性が陰で「渡部さんは短大卒の私を見下している」とありもしない不安を口にしているとの噂が耳に届いた。ほとほと人間関係に疲れた、と思った。親しい人を作らない代わりに敵も作らない。信用しなければ裏切られもしない。そうやって当たり障りなく生きていくしかないと決め、彼女は黙っていろんなことを我慢し、他人と感情がぶつかることを避け続けた。そんな積み重ねが心の許容量を超えたとき、真由は手にカッターナイフを持った。退職して受験勉強に取り組んでいても、不安定でもろい現状や過去の重荷が彼女を苦しめ続けた。医学部に入学してしばらくは自傷癖は影を潜めていたが、母の癌が発覚した頃から、自分の大切な人がこの世からいなくなる不安と、母を愛せなかった後悔が大きくのしかかり、再び真由の手にカッターナイフを握らせた。死ぬまで隠し通したつもりだが、母はもしかしたら娘の体に傷があること、それが自分でつけた傷だということに気付いていたかもしれない。
もともと自分の存在価値を見出せない真由にとって、体の傷はますます価値をおとしめるものでしかなかった。こんな手段でしか心の逃げ場を作れない浅はかな自分、こんな醜い傷だらけの自分。
不眠の症状を自覚しだしたのが大学四年生の秋で、その後も酒量は増える一方、一人で耐えることの限界を感じたとき、彼女は心療内科を訪れた。うつ病と診断を下され、睡眠薬と抗うつ薬、抗不安薬が処方された。依存の傾向があるせいか、毎回「酒は飲むな、一滴も飲むな」と注意され、不眠に改善がみられないために睡眠導入剤を主に少しずつ薬の量が増えていった。量が増えるたび、こんなに薬を処方される自分はもしや重症なのかと思うとそれもまた苦しかった。学生時代に訪れて以来ずっと心療内科にきちんと通って薬も服用しているにも関わらず職場のストレスが重なった挙句に自傷癖が出現し、いまなおなりを潜めない。主治医も自傷癖には手を余しぎみである。少しでも明るい気分になればと薬を増やすと気分の向上がかえって自傷に積極性をもたらしてしまったりする。と言ってあまり高揚感の出ない薬にすると気分が沈うつになる。薬に頼り過ぎない治療をしたいからと、カウンセラーとの対話を重視しながら主治医自身もなるべくゆっくり診療時間を割くようにしてくれているのを真由は十分承知している。良質な睡眠を得るための工夫をあれこれアドバイスし、自傷癖から脱出した患者の診療録を繰って真由も大丈夫だと力づけてくれる。長く通院している割に状態が変わらないと高遠など暗に転院を勧めるが、主治医の人柄の温厚さがほっとくつろぐし、治療を試行錯誤して親身になってくれることに信頼を置いているから今更医者を変えるつもりはない。医学部に行っていた六年間は岡山で処方箋だけもらうために近くのクリニックへ行き、神戸へ戻るとやはりもとのクリニックに戻ってカウンセリングも再開した。真由が心療内科に通院していることは、ごくわずかな人物しか知らない。何よりも真由は、自分のことで誰かに心配をかけるのが嫌だから自分から病歴など話すことはない。彼女はそうやって、誰にも打ち明けず苦悩を自分の中にためこんで心の許容量を超えてしまったのに、その性格は今も変えられずにいる。
私は、苦しむために生まれてきた。
たびたび真由を襲っては、とりついて離れない悲しい思いだった。
有薗が自分に特別な感情など抱いていないことに痛烈に気付かされたとき、たまらなく悲しかった。彼から愛されることを望んでいたわけではない。自分もまた、彼を愛してはいない。彼に対する思いは、友情という言葉もふさわしくないが、恋愛感情と表現するのもまた適当ではない、不思議で特殊なものだった。彼といるととても心が穏やかになる。なぜかとても正直になれる。一方で、心の闇を覗き込まれてしまう鋭さと怖さがある。真実の一面を見られる怖さがあってもなお会いたい、話したいと思うだけの魅力に溢れているのが有薗だった。そして、愛されない悲しさと同じだけ、自分が人を愛せない無気力も真由に襲いかかった。有薗がメンバーの死を悔しがり悲しがったあのとき、真由は自分に人間らしい感情のストックがないことを認識させられ、絶望に近い思いを抱いた。その絶望が悲しみを後押しし、耐え切れずにメスに手が伸びていた。
次回66話は若干生々しい自傷行為の描写があります。血や痛みの苦手な方はご注意ください。
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