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医局に戻るとさっそく、自宅のパソコンで作成した報告書やまとめたデータを医局の自分のパソコンに移し、作業の続きに取り掛かった。土曜日の夜から自宅で取り掛かった報告書は、結局日曜日もほぼ一日中かかりきりになった。自分の記憶が新しいうちにまとめた方が効率も仕上がりもいいのだから当然のことだし自宅で休日返上で仕事をすることは別に苦痛でもなんでもないからいとわない。日曜日の夜に、九割方は仕上がったかなというところで作業を中断して職場へ持っていくためにデータ一式、USBメモリにコピーした。残りは予定通り、月曜日中になんとか仕上げた。といってもプリントアウトして読み返すには大変な分量だし視点を新たにするためにも、総仕上げは明日にしようと決めて二十一時を過ぎた頃にようやく帰り支度を始めた。「まだやっとったんか」もうとっくに帰ったとばかり思っていた高遠が、病棟にでもいたのか、術衣のままで真由のそばに立っていた。「あれ、高遠先生もまだいらっしゃったんですか」「おいこら、看護師から『キスマークはあかん、せめて見えないところへ』って冷やかされたぞ。どういうことや!」もちろん本気で怒ってはいない。むしろ人の言葉を借りつつからかっている。それがわかっているから真由は一切の言い訳をせず、端的に誤解の元を「キスマーク説も高遠説もめんどくさいから否定しなかった」とだけ説明した。「このやろう」と殴りかかる真似で大げさに右腕を振り上げる高遠に、真由もその拳を受け止めるかのように手を顔の高さへ上げたところ「あっ、お前!」と小さく本気の驚きを見せて高遠は真由の右腕をぱっと掴んだ。前腕の内側、ちょうど肘と手首の中ほどに赤茶色の染みがうっすらと広がっている。怪訝そうにきゅっと眉間にしわを寄せつつ「研修がしんどかったんか、プレッシャーやったんか」と訊ねる声はさっきと違ってすっかり勢いが落ちて、心配そのものだ。「違います」「それならいいけど。俺が行かせた責任があるからな」「本当に違います、大丈夫です」「大丈夫じゃないやろ」「個人的なことです」「まあいい。もう帰ろう。東京から凱旋ってことで一杯おごってやる、付き合え」
更衣室で長袖の白衣を脱ぎ、半袖の術衣だけになってみると右腕のガーゼは血で染まりきっていた。この血がさらに白衣をも染めていたことにまったく真由は気づいていなかった。土曜の晩に怪我をしたところが、まだふさがっていないのだろう。高遠に発見されたことに憂鬱な気持ちになりながらもたもたと着替えた。ようやく病院玄関に真由が姿を現すと高遠が「遅い!」と怒鳴った。
「まあ何はともあれお疲れさん。東京の病院はどうやった?」「圧倒的な差がありますね。職員一人一人の意識が高い」高遠は月曜日は外来を担当しているし、真由も救急センターに患者搬送が相次いでバタバタだったから、ゆっくり話す時間がなかったのだ。高遠は本当は早く真由から東京でどんなものを見、刺激を受け、吸収してきたのか聞きたくてうずうずしていた。「部署を横断する連携もよく取れているし、訓練とは思えない緊迫感がみなぎっていました。職員みなが本気で取り組んでるんですね。うちに足りないところです」「そういうのを目の当たりにするだけでも勉強になるやろう?」「はい、目標が高くなりました」しばらくそうして東京で得たことを熱っぽい口調で話している間、高遠は真由がさらなる向上心を燃やし、一回り成長したぞと確信して上司としても先輩としても満足して目を細めながら熱心に耳を傾けた。しかし大体のことを聞き終えるとだんだん酒が回って言葉も乱暴になってきた高遠が突然「腕見せてみろ」と真由の右腕を掴んだ。「いやです」と即座に拒むと今度は一転穏やかな口調になって「見せなさい。怒らないから」と言い聞かせるようにゆっくりと言葉をつないだ。真由が悲しげな表情を浮かべて無言で応えると「そんな顔するくらいなら、なんでやるんや」と彼もまたせつない表情を見せた。高遠が乱暴にも真由のセーターの袖口を無理やり捲り上げようとしたので、真由は左手でそれを制し、ようやく自ら腕をまくって見せた。セーターの下に来ているシャツにも、白衣と同じように赤茶色の染みができていた。袖口のボタンをはずしてついにシャツをまくると、腕には五センチ四方程度のガーゼが貼られていた。ガーゼはもう殆ど白い部分を残していない。茶色く染まりきっている。高遠がそうっとガーゼをはがすと、傷口にくっついてはがれにくい部分があり、思わず「痛っ」と真由が小さく声をあげてひるみ腕を払いかけたが高遠の意思と力はそれを許さなかった。「お前、これは・・・いつやった?土曜の晩?じゃあもう手遅れやけど、縫った方が良かったんじゃないか?」「そうは思ったけど、まさか自分で縫うわけにもいかないし」「自分の病院に行きづらくっても、時間外で診てくれるところは他にいくらでもあるやろう。絶対傷痕残るぞ、これ」「傷痕くらい、もう今更、って感じ」「馬鹿!今更もクソもあるもんか!自分で自分の体傷つけるなんてくだらないことして、医者のくせにちゃんと処置もせんとはどういうつもりや」「怒らないって言ったくせに」「怒ってるんやない、呆れてるの」怒っていないと言いつつも明らかにぷんぷんとご立腹の様子である。ガーゼを元通りテープで留めて真由は袖を元に戻しながら「自分でも自分のしてることがばかばかしいってことくらい、知ってます」と静かに言いながら遠い目をした。「でもどうしようもないんか」「他に方法を知らないんです」「病院は?」「隔週」「通院してて、少しはマシになったのか?」「悪くはなっていません」「それでも切るんか」「そうせずにいられない時があるんです」「お前・・・、もっと楽に生きられへんのかな」「そうできるならとっくにしてます」「お前は医者としてはきっと大成すると思う。けど、その前に自分の人間性をしっかり保たないと、芯が持たへんぞ」「努力はしています。これでもずいぶん減ったんですよ」「何を自慢げに。減るんじゃなくて無くせ」「いつか、そうなるといいな」「人事みたいに言うな」「自分でもわからないんです」「信じろ。自分を信じろ。いつか、そんなことしなくても乗り越えていけるようになる。俺は信じる」傷を見せた瞬間にすべてを諦めた真由は終始落ち着き払っていたが、高遠は怒ったり呆れたりやりきれなさに苦しくなったり愚行をたしなめたりと大忙しで、表情も口調もくるくる変わったが、最後にもう一度、真剣な目で真由を見ながら力をこめて言った。「俺は信じるぞ」。
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