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  透明の向こう側 作者:
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 月曜日、真由は東京駅で買った土産を手に久しぶりに自分の職場である神戸海原病院に出勤し、研修中に使った白衣をクリーニングボックスに放り込むと新しい白衣を取ってロッカールームに入った。入口に近い場所で着替えていた看護師の一人が真由に気づいて「おはよう真由先生、久しぶりねー」と言えば他の看護師たちも着替えの手は休めずにきゃっきゃと一週間ぶりの真由を懐かしがった。真由が研修医一年目でこの病院に来た頃には渡辺という整形外科医がいた。そのため苗字がまぎらわしいと呼び分けるようになり看護師たちは親しみもこめて、真由先生と呼ぶ。もう渡辺医師は他の病院へ移ったのだが今も習慣が受け継がれている。「一週間留守にしてたからね。何か変わったことあった?」「別に、いつもどおり」などとお喋りをしながら着替えていると、看護師の一人が「あっ、真由先生キスマークつけてる!」と大げさに驚いて叫んだ。周りにいた看護師たちも「どれどれ?」「うわ、ほんまや」と面白がって真由の首筋を無遠慮に眺めたり指差したりした。「どこ?」と聞き返すのは精一杯冷静を装ったつもりだが果たして女の好奇心と直感を騙せるものか。「ここ、先生からは鏡でも見えないかな」と指できゅっと押されたのは右耳の下あたり、後頭部寄りの場所だった。看護師の一人が「これで見てごらん」と手鏡を持ってきて更衣室内の大きな鏡と合わせ鏡にするように位置を定めた。なるほど、うっすら赤い跡があった。髪はショートカットだから隠しようがない。「否定しないってことは心当たりはあるんだ」「真由先生って彼氏いないとか言って、ちゃんといるんじゃん」「誰?この病院の人?」「やっぱり高遠先生?」などと口々に好き放題なことを言う。研修医として入局以来、たまに高遠との仲を勘ぐったりおもしろがる者はいても基本的に真由には色めいた話がなかったから余計に興味をかきたててしまう。「ノーコメント。ノーコメントっ!」と吐き捨てつつ大慌てで術衣に着替えてしまうと白衣は羽織る間すら惜しんで半ば振り回す勢いで掴んでさっさと更衣室を出た。看護師たちのこういう話題への食いつきの良さはよくわかっている。自分の首筋にキスマークがあることは、きっと今日中に病院中に知れ渡るのだろう。面倒なことだ。
 データも土産も荷物は何もかも更衣室に置いてきてしまったし、白衣をまとうと気を静めるために深呼吸を一度小さくしてみて、まずは院長室へ出向いて挨拶をした。「この度は大変有意義な研修を受けることができました。研修に出していただき、本当にありがとうございます」ぺこりと頭を下げると、院長ののんびりと人の良さそうな声が「どちらの病院からもお褒めに預かっているよ。お疲れ様でした」とねぎらってくれた。医局に入ると高遠がすでに自席に着いていたので声をかけた。「高遠先生、戻りました。いい勉強ができました。ありがとうございます」「よく頑張ったそうやな。斉藤先生から『あいつは育てがいがある』ってメールが来てたぞ」「斉藤先生には送別会までして頂きました。親身丁寧なご指導で、本当に何もかもお世話になって感謝のしようもありません」深々と腰を折って全身で研修に当たってくれた関係者や、何より研修を組んでくれた高遠に感謝を伝える真由に、珍しく高遠は幹部らしくやや高飛車な態度と声色であらたまって「君自身の成長だけじゃなく、この病院全体の成長、意識向上につながる成果を期待している」とまっとうなセリフを吐いた。報告書を鋭意作成中と応えると「ほどほどに頑張りなさい」と言うのにはほどほどじゃ許さないくせに、と内心苦笑した。
 カンファレンスや回診を終え、外来のある者は外来へ、その他のスタッフは医局や病棟へと各々散ったとき、真由はロッカールームに東京土産を取りに戻り、それを事務室、医局、休憩室、救急センターに配り歩いた。これだけ各所に配り歩いても、職員が軽く百名を越す病院では絶対に全員に行き渡らない。早い者勝ちである。しかしそればかりは仕方ない。中には一人でいくつも食う意地汚い奴もいるからこれくらい買えば足りるという目安すらない。驚いたことに、休憩室に行くとさっそく「ちょっと見せてよ、キスマーク」と好奇心いっぱいの目で夜勤明けの看護師に詰め寄られた。噂の広がる速さはきっと光速より早い。永遠に物理では解明できないだろう。まさか勤務の引継ぎでキスマークが伝言されてるんじゃあるまいなとさえ思った。「キスマークじゃないですよ、ちょっとかぶれてるだけです」と言い訳したところで通じるはずもない。「仕事があるので失礼します」と退散するように休憩室を辞去した。当然救急センターにも噂は伝わっていて、看護師には冷やかされるし放射線技師はニヤニヤと見る気がするし、薬品の棚を検めている市川の背中は間違いなくおかしさをこらえて震えていた。女の多い職場は怖い、と思った。
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不透明人間


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