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  透明の向こう側 作者:
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 湯船に体を沈め、目を閉じると夕べ重ね合った肌の汗の残り香さえ立ち登ってくる気がした。自分の体のあちこちに、真由の手がなで真由の吸い付くような肌を味わった部分がある。彼女のこれまでの台詞のすべてを覚えているわけではない。ただ、印象に残った言葉をかき集めてみると、彼女は大変割り切りのよりすぱっとした性格の女性だ。そして仕事にも一所懸命だ。行動力もあり、正義感に満ち、優しさに溢れている。そんな人なのに自分が生きることに対しては何か大事なものを放棄している気がしてならない。こんなに真由のことばかり思い出すなら、今夜はここへ来るべきではなかったな、と少し後悔した。
「ずいぶん長かったね」風呂から出た有薗を認めると、タケシは再び冷蔵庫に冷やしておいたビールを出してきて、プシュッとタブを開け、二つのグラスに注いだ。「あー、仕事終わって飲むビールは最高」と本当にうまそうにタケシは一気にグラス半分くらい空けてしまった。「待たせて悪かったな」「いいよ。それよりトモは東京駅だなんて、どうしたの」「新幹線で帰る知り合いを送って行ってたんだ。知り合いがたまたま仕事で東京に来てて、一日空いたからどこか観光するようないいところないかな、って」「ふーん」「俺もちょうどオフだったから、じゃあ案内するよって、適当にブラブラしてきた」「で、まだその女のこと考えて悩み深い顔してるんだ」「え、そんなことないよ。疲れただけ」女と一緒だとは言っていない。それでも察知するタケシの勘の良さに驚く。有薗もあえて否定もしないが。否定も肯定も相手の望む答えではないと知っている。有薗は続けざまに缶ビールを三本空けた。「ピッチ早くね?」と不審がられれば「ビールがうまいんだよ」とごまかす。「ヱビス一筋だもん、覚えるよそれくらい嫌でも。何年付き合ってると思ってるの」そういえば真由と寿司を食ったとき飲んだのもヱビスだった。真由も「ビールではヱビスが一番好き」とうまそうに味わっていたな。「お前まだ三十ちょっとくらいだったよな」「そう、今三十七。五年」「すごいな」自分が五年も特定の相手と続いていることもすごいが、五年だとあっさり答える神経がすごい、お前いつからそんなものを数えてたんだ、と有薗は内心思った。有薗は昔から一人の相手と長続きしたことがない。嫌いになるわけでも嫌われるわけでもない。ただ最後に「冷たい人」と別れを告げられる。冷たいと言われればそうなのかなと思う節はあるけれど、ピンとこない。ピンとこないから直しようもない。きっと矯正の施しようもないほど冷たいと悟るからこそ別れを告げられるんだろうともはやどうでも良くなっている。自分の冷たさが昔と変わっていないのであればよほどタケシが我慢強いのか。「それだけ相性がいいってことかな」そう言うと有薗の首に両手をまわし、タケシは口付けをしようとした。とっさに有薗は横を向いてそれを避けた。一瞬「愛のないキスはしない」ときっぱりと言った真由の言葉が脳裏をかすめた。「あれ、何今の?」首に巻きついたまま、顔を離してタケシは不審そうに有薗の目を見つめた。「ごめん、今日はそういう気分じゃないんだ」そう言って有薗はタケシの体をはがしてしまった。「じゃあ無理して来なくても良かったのに」と軽く睨むタケシには有薗は何も取り繕わない。本心で「無理したわけじゃないよ。最近会ってなかったし、明日は俺仕事あるし、今日逃したらまたいつになるかわかんないじゃない」と言うとタケシの表情はいくらか和らぎ「俺に会いたかった?」と迫った。「そりゃあ」タケシは有薗の返事を聞くと機嫌を取り直してふふっと満足げに笑った。灰皿に三つの吸殻が生産された頃「ふーっ」と有薗が深くため息をつくのを見て「やっぱりお疲れモードだね」とタケシは心配とからかいといくらかの嫉妬を複雑に混ぜつつも感情を抑えた言葉をかけた。疲れているのではない、目の前の恋人に集中できない自分の愚かさにため息が漏れるだけだ。もちろんそんなことを口にすることはできず、有薗は「そうでもない」と小さく答えただけだった。「明日の仕事って何?」「レコーディング」「JAMANIAの?」「うん。春に発売予定だから、もう中身詰めていかないと」「トモの曲はあるの?」「最近は作ってないから今度のアルバムには入らない」「そうか、残念。JAMANIAの中でもトモの作曲はピカイチだと思うけどな」「そりゃどうも。でもそれって絶対贔屓目だよ。もともと寡作の人だから。知ってるでしょう」「でも自分のベースパートは自分で作ってるだろ?」「そりゃね。でもゼロから曲を書くのは難しいな。俺にはセンスがないのかも、って落ち込むときもある」「おいおい。しっかりしろよ」「いや、人前で弱音吐けないし」「それって俺すげえ信頼されてるってこと?」「そういうことなんじゃないの?」「すっげえ嬉しいな」喜んで笑顔をはじけさせるタケシに有薗は若干胸が痛かった。タケシはデビュー後のJAMANIAしか知らない。まして宮本の死を、未だ消化しきれず引きずっていることなど知らない。話してみようと思ったこともない。信頼といえば今夜、宮本の死を思い出してとっさに言葉を失ったとき、真由はただだまって手を添えてそばにいてくれた。あの手のぬくもり・・彼女の前で正直に悲しみを露にした自分・・・何か、絶大な信頼がそこにあった・・・そこまで考えて、また有薗はいかん、もうよそう、と思考をストップさせ「そういうお前は仕事は順調?」と話題を転じた。タケシはシステムエンジニアだ。コンピュータの専門学校を卒業してすぐからプログラマとして今の会社に勤めている。最初のうちは郊外の実家から通っていたがSEとして営業にも携わるようになってからは残業で遅くなることが多くなり「時間的にも体力的に無理」と職場の近くでマンションを探した。引っ越してきた当初は同僚や友人をしょっちゅう招いては得意の手料理を披露していたらしい。大勢で楽しく騒ぐのが好きな男だ。有薗と知り合ってからは滅多に人を呼ばなくなってしまった。有薗がいつ来ても良いようにと最優先してしまうからだ。有薗の方は「今までどおり楽しんでろよ」と言ってやるのだが、何分有薗の仕事が不規則だから「たまに会えるときはちゃんと会いたいから」とすっかり有薗に入れ込んでしまっている。しかしタケシの入れ込みっぷりを有薗は決して重荷には思っていない。かわいい奴だ、くらいに思っている。「最近上司が俺をホモ男くんだと疑い始めた」「え、職場で疑われてんの?」「あいつまだ独身だろう、怪しい、って」「お前くらいの歳なら独身の奴は他にもいるだろう」「いるけど、大抵彼女がいるよ。いないやつは必死に合コンとかやってる。俺だけはそういうのにも参加しないし、彼女がいる素振りもないし、歳も歳だし絶対怪しいぞ、って言ってるんだって。噂好きの女の子から聞かされた」「なんて答えたの?」「理想が高すぎるんでしょうかねえ、って」「うまく逃げたな」からからと笑いながらもいくらか後ろめたさも残る有薗にタケシは気づかない。「トモ、もうすぐ誕生日だね。四十三歳か。見えないよね。やっぱり独身だと若く見えるのかな。家庭疲れみたいのがない分」「若く見える?仕事が仕事だしね。落ち着きがないだけじゃない?普通のサラリーマンでもやってれば違うのかもしれないよ」「誕生日はどこかレストランでお祝いする?それともうちでやる?」「どっちでも。誕生祝いする歳じゃないだろう」「じゃあうちで二人でやろっか。何か欲しいものとかある?」そう言われてはっと、真由にもらった紙袋を思い出した。あの中身はなんなのだろう。と、またも思考が真由に傾こうとするのを懸命にこらえた。「そうだなあ、おいしい料理がいいな。お前は料理が抜群にうまいから。シャンパン買ってくるよ」「トモだって料理上手じゃん。つっても長い付き合いの割にトモんちに行ったのも手料理食べたのも一回きりだけど」「あんときはお前がベロンベロンに酔っ払って、うちの方が近いから仕方なく連れて帰ったんだよ。絶対他人は入れないと決めてたのに、お前がその掟を破った第一号だな」「その後第二号、第三号は現れた?」「いいや」即座にしれっと大きな嘘をつく。第二号はついさっき帰って行ったよ、神戸へ。それにしてもとっさに「第一号」という言葉を使ったのはまずかったなと思った。第二号の存在をほのめかしたようなものだ。
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