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「急がば廻れですよ」と追いかけてきた高遠の声を思い出しながら有薗は温かい気分に浸っていた。日差しの心地よい中庭を案内してくれるほがらかな真由。ぶっきらぼうなようで親身な高遠。自分はいい医者に当たった、としみじみこの二日間のことを思った。だからこそ、もう大丈夫というお墨付きを彼らからもらいたかった。何より、初めての医者にかかるよりも、彼らには安心感がある。病院の施設の充実度や医師の経歴などを問えば東京の方が選択肢はずっと豊富だろうが、有薗は人の温もりと、自分が信じた信頼を大事にしたかった。
消灯時刻まであまり時間がなく、『しろばんば』を手に有薗は水川にそっと話しかけた。「水川君、ごめん、これ、全部読み終えそうにない。返すよ。東京へ帰ったら真っ先に本屋に行って買って読むよ」と言うと水川は少し寂しそうな表情を浮かべた。「そっか、もう退院ですもんね。有薗さんが嫌でなければ持って帰って帰りの新幹線ででも読んでくださいよ。僕はもう読んだからいいです」とにっこり笑った。これが彼の餞別なのだと有薗は受け取ることにした。「ありがとう、きっとちゃんと最後まで読むよ、約束する」と有薗が言えばにこりと笑って「約束ね」と答える水川はどこまでも人の良さを感じさせる好青年だった。君と同じ部屋で良かった、ありがとう。有薗はそっと胸のうちで礼を述べた。
翌朝、回診の際有薗は真由に「午前中、少し時間いただけませんか?」とお願いした。真由は微笑みを浮かべて「いいですよ。後でまた来ます」と短く答えた。
真由にとって有薗の印象は、どちらかと言えば寡黙な男であった。病状説明のときも、散歩に誘ったときも、殆ど自分が一方的に話していたような気がする。患者の中には時には業務に支障をきたすほど、医師や看護師を話し相手としてつかまえて離さない者もいる。有薗はまったく逆のタイプだった。知り合いもない土地でひとり、淡々と入院生活を過ごしていた。同室の水川とも仲良くしているようで、さほど密に話し込んでいる様子はない。その有薗が時間を取って欲しいと言ってきたのにはよほどの理由があるのかな、と深読みすらしてしまう。
真由が有薗の部屋を訪れたのは十一時過ぎだった。水川は相変わらず熱心に真剣そのものの目で『道徳の系譜』を読んでいる。真由が心配して「水川さん、熱中するのもほどほどにね」と言うと「難しいんですよ。さっき読んだページをまた戻って読んだりの繰り返しでちっとも前に進まない」と苦笑した。そう言いながらもつい視線が本へ戻ろうとするのはそれだけ夢中になっている証か。
真由が水川と短い会話を交わしているうちに有薗はベッドから立ち上がり、真由のそばに立っていた。目が合うと「散歩につきあってください」とにっこり微笑み、部屋を出た。中庭に行くまで、二人は無言だった。真由は有薗が誘った以上、彼が何か言い出すのを待つつもりだった。 今日も中庭にはゆったりとした時間が流れ、穏やかに陽が差し込んでいた。「ベンチに座りませんか」と木陰になっているベンチを指して有薗がうながし、二人は隣り合って腰を降ろした。
「こんなことをあらたまって言うのもこっぱずかしいんですがね、僕、入院したのがこの病院で良かったなって本当に思うんです。高遠先生も渡部先生も、看護師さんも技師さんもすごく温かい。ただ仕事こなしているだけって感じの冷たい人がいないんです。すごく嬉しかったなあ。だからこそ、東京からここまでもう一度検査に来たいなんて我がままを言うんです」思いがけない告白に真由は有薗を振り返ったが、彼は照れくさそうでもなんでもなく、むしろすがすがしかった。真由としても、自分たちスタッフの心配りを感謝されて嬉しくない筈がなかろう。神戸海原病院は設立理念にも基本方針にも「温かい医療」を打ち出している。それを認めて直接誉めてくれる例はまれであることを思えば、ほっとする思いもある。「先生、どうもありがとう」有薗はまっすぐに真由の目を捉えた。「治療は主に高遠先生が・・・」と真由が遠慮がちに目を伏せようとするとさらに有薗の目は真由の目を追いかけ、捉えた。「もちろん、高遠先生には感謝しています。豪快な言葉や態度だけど、実にいい先生だと思う。でもね」そこで一旦言葉を切ると、有薗は深呼吸した。「短い入院だけど、退屈せずにすんだのも、これからすぐには楽器を弾けないという現実を受け止められたのも、渡部先生のおかげです。あなたが、僕に、考えるチャンスをくれた。ヒントをくれた。あなたは気づいていないかもしれないけど、そうなんです」と言うとにっこり笑った。そして病院着のポケットを探ると「はい」と言ってレモン味の飴を差し出した。「売店で買ってみました。女性にはビタミンC大事でしょ?お肌が綺麗になりますよ」と笑った。真由もくすっと笑って有薗の手からそれをそっとつまんだ。しばらく口に飴を含んで二人は無口になった。口内に広がる甘酸っぱさが心地よく、穏やかな時の流れを贅沢なまでに静かに全身で享受していた。音の空白を破ったのは真由だった。「退院の準備はできていますか?忘れ物はないですか?」と心配そうに有薗の顔を覗き込んだ。「荷造りは終わりましたよ。結局水川君に借りた『しろばんば』は読み終えなくてね、頂くことになっちゃいました。もう一度お礼言っておかなくちゃ。彼、本当にいい子だね。きっと素敵な男になるよ。そういえばこのパジャマをどうするかは聞いてないなあ」と有薗は病院着の裾をつまんで見せた。「それは脱いだらベッドに置いとけばいいですよ」と真由が答えると「そう、じゃあもう何も準備ないや。もともと荷物少ないしね」「退院は三時でしたね?」「うん」それっきり、またしばらく無言が続いた。二人とも、どことなく寂しげな表情なのは気のせいだろうか。
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