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  透明の向こう側 作者:
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 フレンチレストランは住宅街に溶け込んだ、戸建の洋館を少し改装しただけのこぢんまりしたものだった。看板すらなく、入口脇に立てかけられたメニューボードの存在がかろうじてそこが何かの店であると思わせる程度で、気付かずに通り過ぎそうなくらいだった。入ってみると席は五つしかなく、近くの主婦と思われる女性四人組のほか、店内は女性客ばかりだった。有薗自身、ここが行きつけの店というわけでなく実は初めて入るのだと言う。立ち止まってメニューボードを読んでどうやらフレンチレストランらしいと気づいたのもごく最近のことで、近いし値段も手ごろだし、気にはなるが男一人では行きづらいと躊躇していたらしい。「じゃあ味は未知の世界なわけね」「そういうこと」「若い女性は味にも雰囲気にもうるさいから、きっとこの客層からすると大丈夫と見た」「何冷静に分析してるんだよ」真由のしたり顔にふっと小さく笑い、額とこつんとつついて面白がった。
 真由の推測どおり、劇的な美味というほどではないものの、ランチ向けにあっさり仕立てられたメニューは十分満足のいくおいしさだった。ただ、食後のデザートに生クリームがたっぷりと添えられており、真由は小さく「ごめん、無理」と残した。皿をさげに来たウェイトレスが真由の皿を見て「苦手な食材がございましたら次からは遠慮なくお申し付けくださいね」とにっこりと笑った。店を出て歩きながら有薗が不思議そうな顔をしながら「タコも嫌いって前言ってたよね。結構好き嫌い多いの?」と訊いてきた。「多いです。でもずいぶん減ったんですよ。基本的には、出されたものは残さず食べる主義なんです。たいていのものはその主義のおかげで克服してきたんですけど」「その割にはよく育ったよね」ぽふぽふと有薗が真由の頭を軽くはたきながら感心する声を出すと真由は「牛乳は好きです」とまじめそうに答えた。「牛乳飲むとほんとに大きくなるの?」「そんなことはないけど。言ってみただけ」とくすっと真由が笑った。「でもほんとに牛乳は好きなんですよ。チーズやヨーグルトも好きだし。生クリームが苦手なのは例外かな」「ご両親が大柄?」「ううん、父も小柄だったらしいし、母は一五十センチもない小人です。親戚じゅうでも私くらいかな、標準サイズより大きくなっちゃったのは」自分の母親を小人と表現する真由になんともいえず有薗はおかしさがこみあげた。「突然変異?」「母いわく『育て方が良かった』らしいけど」「『生んだときは女だった』と言い、おもしろいお母さんだね」言葉の端々に真由が亡き母に今も親愛の情を持っているのを感じるし、ユーモア溢れる母親の元、伸びやかに育ったのだろう真由を思って有薗はなんだか心が和む思いがした。
 浜松町の駅を降りるとすぐに、東京タワーが視界にそびえたっている。上空には靄がかかっていて、天辺は望めない。傘を差して二人はタワーに向かってゆっくり歩いた。真由には特段東京タワーに行くのが夢だったとか、そんなこだわりはなかったのに、有薗から行ってみようと言われたら突如、そこがまるで昔からの念願であったかのように楽しみな場所に変貌した。今も、楽しみでいっぱいな真由は足元を泥が跳ねても一向気にならない。「記念写真でも撮る?」そびえるタワーを見上げて「ついに来た」と感慨深げにしばし立ち止まった真由に、本気半分からかい半分で有薗が言うと思いがけず「写真は嫌い」とぶっきらぼうな返事だった。「どうして?」「記録にも、記憶にも残りたくない」と吐き捨てるように呟いたのは有薗への返事と言うよりもほとんど独り言だったらしく、すぐにいつもの明るい声で「夜にはライトアップされて綺麗なのかな」と話題を転じてしまった。「展望台から見える夜景もね」「あっ蝋人形館!あれ行きたい」「ええ、そんなものが見たいの?」「見たい見たい」まるで子どものようなはしゃぎっぷりを見せる真由に有薗は驚いた。なんて純真な心を持つ人だろう。「ほかには?色々あるみたいだよ」「あるみたい、ってソノさん知らないの?」「来たことはあるけどずいぶん昔だし、展望台に行っただけだよ」リーフレットを見ながら有薗が一所懸命タワー内の施設案内を読み上げた。それを聞きながら真由も有薗の手元を覗き込んだ。「この大展望台への階段が惹かれる」「階段なんて昇りたいの?」「体力強化」「行くなら一人で行ってらっしゃい。下で待ってる」「冷たいなあ。ソノさんもライブやるのに体力必要でしょう?」「ライブの体力は別なの。僕はひ弱な男で結構です」「ソノさんはアルコールランプなんだね。まさかライブ前にも一杯ひっかけてるとか?」「アルコールランプか、そうかもね。残念ながら階段は休日しか開放してないって。どっちみち今日は無理だよ。他にも水族館とかあるよ?」「水族館はいい、神戸の須磨水族館が立派だもん」「ああ、ラッコがいるとこ?」「よく知ってるね」「夏のツアーのとき、清水が子ども連れて行ったって言ってた」「このトリックアートギャラリーってものおもしろそう。でもやっぱり蝋人形でしょ」「どうしてもそこなんだ。とにかく入ろうか。展望台に登らないことには話が始まらんでしょ」入り口にはちょうど修学旅行らしい中学生たちの団体が群れていて、少しずつエレベーターに乗り込んでは列をつめている。まだいくらか幼さを残した中学生たちの、東京という大都会に来てはやる気持ちが抑えきれないあどけない笑顔がすがすがしい。
 展望台に着いてエレベーターの箱から吐き出された中学生の一団は一斉に真正面に向かった。遅れて展望台に足を踏み入れた有薗は冷静に「どうせ一周してくるんだし、空いてそうなところから行こう」と真由の手をとって中学生の群れから離れた。手をつながねばはぐれるほどに人が多いわけではない。でも不思議な感覚が真由を支配した。「今は、この手に導かれてみよう」と。
 有薗が風景の一点を指差して「あれがお台場だよ」と海の向こうを見やりながら教えてくれるのだが、なにせ展望台は三百六十度のパノラマで、有薗が指す一点を、真由はすぐには見つけられず、結局は有薗に体を寄せて、彼の指先を、彼の視点で追う。「あ、あの丸いの」「そうそれ。あの辺りがお台場」「行ったことある?」「ついこないだ仕事で」「何の仕事?JAMANIAはテレビには出ないよね」「サポートの方の仕事」「テレビに映ったの?」「さあ、少しくらいは映ったかもね」「教えてくれたらテレビ見たのに」「テレビに出るなんて本意じゃない」取りつくしまもない返事に真由は少々がっかりした。本人の口から説明されたわけでなくとも彼の美学はわかっているつもりだが、それにしてもつれなすぎる。「ソノさんがJAMANIAの他にやってるお仕事を知ることで、新しい音楽を発見できるかもしれない。ソノさんから、枝葉が伸びてく。音楽が広がってく。二十九日の神戸だって、そう思うからこそ楽しみなのにな」「そういう風に思ってくれるんだ。ごめん、悪気があって言ったわけじゃないんだ。どうしてもサポートの仕事って事務所がらみで引き受けざるを得ないようなものもあったりしてさ、自分でも葛藤してるんだ」「うん」「好きでやってる仕事ももちろんあるから。そういうのはちゃんと知らせる」「うん。ありがとう」ほっと笑顔をほころばせて真由は握った手にきゅっと力をこめた。
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